13.蛍姫は、雨と墜ちた
硝子が割れるような音がして、私は外へ走り出た。彼が消えてからそんなに時間は経っていない。日暮れ前のことだった。
激しい雨が落ちてくる。
屋敷やこの一帯の森を包む結界が割れたのだ。そして、少し離れたところに大きな竜が横たわっている。ブリュットの鱗は雨に濡れてつやつやと光っている。
「──ジュード!」
思わず駆け出していた。
ブリュットの身体をよじ登るようにして、ジュードが顔を出した。
彼はとても怖い顔をしていたが、私に気がつくといつものように甘い笑みを浮かべた。そうして気を失ってしまった。
「……時渡りなど、負荷がかかるはずだ。
まあ、弟は頑丈だから、二晩ほどゆっくり休めば元気になるはずだよ」
ブリュットもジュードも、それから半日ほどで目を覚ました。
「結界に穴が開いている。早めに直した方がいいと思うぞ」
エメリー王子が言うと、ジュードは慌てて跳ね起き、窓から飛び降りながら呪文をつむぐ。
私は驚き固まっていたが、王子が「大丈夫だよ」と笑った。
「それにしても、こんなに城をあけたのは初めてだな」
エメリー王子が楽しげに言った。
「王族が揃ってこんなふうに抜けてこられるものなのですか?」
「ああ。今日は、弟の命日だからね」
「──命日?」
「そう。僕らの誕生日であり、生まれ落ちた双子の片割れを殺したとなっている日」
エメリー王子は複雑な顔をして笑った。
「だからね、遠方の墓参りに出かけてもなんの問題もない。そのわがままを許してくれるくらいには、少しずつ時代は変わってきているんだ。
きっとそのうち、僕ら王族が形だけの存在になる時代も近いと思うよ」
ジュードは庭の真ん中に立ち、呪文を唱えていた。少しずつ結界の穴が塞がってきて、やがて、雨が入らなくなった。
「ジュードは、私に肝心なことをなにも話してくれないんだから」
私はそう言うと、彼の背中にしがみついた。
「──リュシィ?」
「私はあなたの妻です。嫌いになったりしないから、──だから、秘密を作らないで」
ジュードの目を真っ直ぐ見つめる。彼の目がわずかに翳る。
「今さらだけど、本当に俺でいいの?」
「ええ」
「俺、本当は魔族の王らしいんだよ?」
「知ってる」
私が答えると彼は「どうして」と呟き、はっとしてエメリー王子のほうを睨んだ。王子はいたずらっぽい笑みを浮かべて、ひらひらと手を振っている。
「君にずっと執着してきた」
「あら、誰にも好かれたことがないから嬉しいわ」
「──君の国を滅ぼしたのは俺だよ?」
「民たちを助けてくれたのでしょう。それに、本来の原因は……書物の続きを読んだわ。
──大事なことは隠してばかりね」
私が見上げると、彼の空色の目は不安げに揺れていた。
「──こんな醜い私だけれど……あなたのことをお慕いしています」
こんなふうに愛情を示してくれても、まだ不安なのは私のほうだ。自分の声が震えているのが、潤んでいるのがわかった。
ファングや妹が胸に埋め込んだ棘が、いまだにじくじくと心を刺している。
弱虫な自分が恥ずかしい。
「俺はどんな君でも好きだけれど……」
ジュードはそう前置きをして、いつかのように、私の頬に口づけをした。それから庭の一角にできた大きな水溜まりを指さした。
そこには、この上なく美しい男と、女が立っている。
その頬のどこにも、うろこはなかった。
夏大陸の片隅に、魔王の森と恐れられる場所があった。その森は雨を弾き、中に入るものを惑わせる。
「あんた、どうしてこんな場所に……」
通りがかった村の女は、森の入口に見慣れぬ美しい少女を見つけた。
豊かな金色の髪に、空色の瞳をした彼女はきょろきょろと当たりを見渡している。
そのとき、森の奥から声がした。
「ジュビオラ?」
涼やかな声とともに、見たことの無いほどの美丈夫が森の奥から駆けてきた。銀色の髪に青い目。
女がぽうっと見とれていると、男の影から女がでてきた。彼女は幼子の手を引いており、女に気がつくとほほ笑んだ。
「娘を見つけてくれてありがとう」
それからしばらくして、森は「豊穣の森」と呼ばれるようになった。
二柱の美しい神が守護する森。神域だからみだりに立ち入ってはならないと、そんな話がまことしやかに流れていた。
「蛍姫編」・完




