294 蝿の王(1)
「……よく護った。あとは任せとけ」
師匠はそう言ったが、俺は下ろした剣を再び構えた。
「……大丈夫です。俺も、まだ戦えます。何だか、調子が良くって……」
だが師匠は目を細めてじっと俺を見た後、ため息をついた。
「……慣れようとするな。こいつらが死んだのはお前のせいじゃねぇ。だが……目を逸らしてやり過ごすには、お前は優しすぎる。自分を誤魔化して前に進んでも後で必ず反動が来る」
どきりとした。
……ドゥリトルもトーモラも、自業自得だとは思う。
だが、やはり蝿どもの餌食になるのは見たくなかった。
『死』という結果は同じでも、できれば真っ当に裁きを受けさせて、処刑台に送ってやりたかった。
だが、今の俺の力ではそれは出来なかった。
その事実から目を逸らしたくて、俺は戦闘に没入しようとしていたのかもしれない。
「分かりました……」
高級そうではあるが全く手に馴染まない拷問用の剣を放り出す。
自分の装備は蝿の襲来が落ち着いたタイミングで回収していたが、あまりの物量に愛用のダガーも流石に切れ味が鈍ったので、壁にかけられている武器を適当に交換しながら使っていたのだ。
「……少し……休みましょう、おやっさん。今はあの三人に任せておけば大丈夫です」
俺がそう声をかけると槍で体を支えるように立っていたおやっさんは、流石に限界だったのか崩れ落ちるようにどかっとその場で座り込んだ。
「とうさん!」
それを見たリーナが、リンドに走り寄って飛びつく。
「おわっ! ……よく頑張ったな、リーナ。さっきは助けてくれてありがとよ」
泣きじゃくるリーナの頭を撫でるおやっさんを横目で見ながら、俺はジュエにマントを差し出した。
「巻き込んで済まなかったな、ジュエ。しばらくこれを羽織っていてくれ」
ジュエは受け取ったマントをじっと見ていたかと思うと、ふっと笑って首を振った。
「……謝らないで下さい。すべて私が、自分の判断で動いた結果です。こちらこそ、助けに来てくれてありがとうございました」
笑顔の奥が何やら少し寂しげな感じがするのは少々気になるが……俺は壁を背に腰を下ろした。
魔力的には問題ないとはいえ、体の疲労は別だ。
裏参道を駆け上っていた頃から働き詰めで、流石に限界を超えている。
「……少し休む。まだこの後も……仕事が残っているからな」
そう、本当の意味では、まだジュエとリーナを救出したとは言えない。
……この後、対峙することになるであろう伝説の魔物。
『蝿の王』ベルゼバブルを何とかするまでは――
◆
「おはようございます、アレンさん」
目を開けると、迷いの晴れたような曇りのない顔で微笑んでいるジュエがいた。
一瞬、自分がどこで何をしていたのか思い出せずぼうっとしたが、すぐに頭の回路が繋がって跳ね起きた。
どうやらジュエに膝を借りていたらしい。
「おはようレン兄」
「……よくもまぁこんな所で熟睡できるな。大胆と言うか何と言うか」
おやっさんが呆れたように呟く。
……どうやら、危なげなく王の眷属を屠っていく師匠、ダンテさん、キアナさんの三人を見ながら蝿の王を討伐する算段を考えているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。
魔力的には問題なかったとは言え、体は限界を超えていたからな。
「あ、あれからどうなったんですか?」
聖地は不気味なほどの静寂と、不穏な緊張感に包まれている。
蝿どもの襲撃も止んでいるようだ。
俺が現状を確認すると、窓のそばで腕を組んで外を見ていたキアナさんが答えてくれた。
「第三波の襲来が小康状態になり、暫くしたところで眷属達は潮が引くように消えていった。過去の事例からして次の第四波が本命……蝿の王がお出ましになるだろう。今は即席の防御陣を築いている所だ。……そこのお嬢さんが顔を見せたら聖騎士達も随分と協力的になったぞ」
キアナさんが視線を送ると、ジュエはにっこりと微笑んだ。
「レベランス家と繋がりの深い見知った顔の者が何人かおりましたので。もっとも、事件のあらましについては今はまだ語っていません。蝿の王の襲来の前に混乱や分断を生むのは得策ではないと思いましたので。一致団結だけを呼びかけています」
……流石にこの姿のジュエが塔から出てきたのを見れば、どんなバカでも不本意な形で連れて来られた事くらいは察するだろう。
いや、もしかしたらジュエが何者かに誘拐されたというニュースは、すでにレベランス家と繋がりが深い者には伝わっていたのかもしれない。
そのジュエが糾弾ではなく団結を口にすれば、そりゃ聖騎士達も協力的になるだろう。
そもそも事件に関与していた人間は限られるだろうしな。
皆さぞ感動しただろうが……この状況下でちゃんと損得の計算をした上でそれをやってしまうのがジュエの恐ろしい所だ。
「今は神官と僧侶を二つの神殿に振り分けた所だ。……せめて何も知らない修行僧たちは遠くへ退避させてほしいという意見もあったが、デュー軍団長は認めなかった。これだけ死臭の籠もった聖地に長く留まっていたからには逃げても無駄だ、と言ってな」
どうやら、造りが頑健な祈りの神殿と苦難の神殿に人を集めたらしい。さすがに僧侶たちが起居していたあのぼろ臭い長屋では守りようがないからな。
蝿の王は全てを蹂躙する。王が出てくるのであれば、眷属に手を出したのが誰かなどというのはもはや関係がない。
キアナさんによると、師匠の方針は専守防衛に徹する持久戦の様だ。
二つの神殿に聖騎士と僧侶を振り分け、聖魔法の使い手の数を活かして耐えつつ応援の到着を待つ。
聖地にはもう一つ、飢餓の神殿という建物もあるが、戦力を分散しすぎると各個で撃破される危険が増す。かと言ってあまり人を集中しすぎてもスペースが取れずに対応が難しくなる。
そのバランスを考えたのだろう。
「逆に言うと、それしかやりようが無いという事だ。魔法士はほぼ全員聖属性特化で、矢の備蓄量も王を迎え撃つには全く不十分だった。ココ君を信じて矢の補給と魔法士の到着を待つしか無い」
「ココを信じて、ですか?」
キアナさんは頷いた。
どうやらキアナさんは、呪いの果実を聖地に投げ入れて蝿どもが集まってくるのを確認したココが、真っ直ぐに表参道を駆け下りていくのを目撃したらしい。
ココの狙いは、応援に向かって来ているであろうレベランス侯爵軍に、いち早く聖地の現状を伝える事だろう。
蝿の王を討伐するためにはとにかく遠距離攻撃手段の確保が鍵となる。いたずらに兵士の数を増やしても被害者の数が増すばかりなのは火を見るよりも明らかだ。
つまり蝿の王の討伐を前提とした形で応援部隊と物資が届かなくては意味がない。それを頼みに行った、という事だ。
流石はココ、としか言いようのない実に的確な状況分析力だが……。
「……すでにいつ王が現れても不思議ではない。だが討伐態勢が完璧に整うには、早くともあと三日はかかるだろう」
そこまで持ち堪えて、戦線を維持する事ができるかどうか――
それが勝負の分かれ目だ。
「……耐えられますかね? それまで」
俺の質問に、キアナさんは顔を曇らせつつも頷いた。
「……問題は、何人耐えられるか、だがな」
◆
不気味な翅音と共に、東の空が灰色一色に染まる。
中心に近づくほど色が薄くなり、その中心にいる一際目立つ真っ白な個体が蝿の王ベルゼバブルなのだろう。
「おいでなすったねぇ」
苦難の神殿の指揮を受け持つパッチが、空を睨んで目を細める。
流石にその顔にはいつもの笑みはない。
蝿の群れは聖地へと真っ直ぐに近づいてくる。
それに伴って不気味な翅音はどんどん大きくなり、空気がびりびりと震える。
「あれが……王か……何という大きさだ」
パッチの後ろで、聖騎士隊の隊長の一人であるエリアルが顔を引き攣らせて掠れた声を出す。
蝿の王の、その悍ましい姿がはっきりと視認できるまで近づいたその時。
先頭を飛んでいた王が、ぴたりと宙で静止する。
眷属達は王を飛び抜いてどんどん近づいてくるが、誰もが王の姿から目を離せずにいた。
ベルゼバブルの頭上に、魔法で構築された紫色の水弾が形成されていく。
信じ難いほどの魔力が込められたそれが、みるみるうちに膨れ上がる。
その様子を呆然と見守る聖騎士が、僧侶が、神官達が、本能的に悟った。
あぁ、これは天災だと……。
ベルゼバブルはやはり、決して人が抗うことのできない天災なのだと。
何人かが絶望したように膝をついた次の瞬間――
ベルゼバブルから放たれた魔法弾は祈りの神殿の指揮を受け持つジャスティンの頭上をすり抜け、神殿へと着弾した。
耳をつんざくような轟音と共に地が揺れる。
石造りの強固そうな神殿は、一撃でその一部が崩れ去った。
神殿に拠って戦う予定だった戦線が、あえなく大混乱に陥る。
巣を攻撃された虫の如く、中から人間達が慌てふためいて飛び出してくる。
それを見た眷属達が、一斉に人へと襲いかかった。
◆
「おい、秘策とやらはまだかクソガキ! 俺らが現場を支えねぇと、あいつら三十分も保たねぇぞ!」
王の挨拶代わりの一撃を受けて、戦線はすでに崩壊寸前だ。
……やはりこうなったか……。
ドラグレイド近くの石切場で、同じく伝説級の魔物と言われるシュタインベルグの魔法弾を間近で見た。
その経験からして、あのクラスの攻撃を受けて己を奮い立たせて立ち向かえる人間は、そうはいないだろうとは思ってた。
自分達の与り知らぬ所で巻き込まれた形なのだから尚更だ。
だからと言って逃げる場所など無いのだが、心理的に逃げ腰になってしまった集団では戦えるものも戦えない。
立ち向かうには希望が必要だ。
王に対抗し得る、という希望が。
俺は師匠の問いかけに小さく首を振り、精神を統一して極限まで集中力を高めた状態でその時を待った。
多分、チャンスはそう何度もない。出来れば最初の一発で決めたい。
そして蝿の王が俺たちが待機する生誕の塔の上空を通過した瞬間――
「はあぁぁぁあああ!」
俺は溜めに溜めていた魔力を解放し、風魔法を発動した。
蝿の王が、真っ直ぐに墜ちてくる――
◆
「あっはっは! 待ってました!」
騎士団の皆で、王を迎え撃つためのブリーフィングをしていた最中。
俺がおもむろに実は秘策があると打ち明けると、パッチさんはそれだけで大笑いした。
「さすがアレンだね! で、その秘策っていうのは何なの?」
目を輝かせたジャスティン先輩に問われ、さて何と説明しようかと悩みつつ、俺はこんな事を言った。
「蝿の王は……飛んではいけない生き物なんです」
皆が何言ってんだこいつという顔をしたので、俺は付け加えた。
「伝承によると、蝿の王の大きさは十メートル近い。翅だけでも優に五メートル以上はあるでしょう。それだけの巨体を持つ虫が、翅で羽ばたいて飛ぶ……なんて事はあり得ない」
俺がそのように断言すると、皆は顔を見合わせた。
ダンテさんが苦笑しながら肩をすくめる。
「そうは言ってもね……現に飛んでたって記録が残っているし、眷属達も飛んでいるしね」
そう、現に飛んでいるのだ。
地球にもかつて似たような話があった。
それは『マルハナバチのパラドックス』と呼ばれる現象だ。
飛行機が空を飛ぶようになり、航空力学が発展すればするほど、ある問題が科学者達を悩ませた。
体の重さや翅の大きさなどの条件から計算すると、マルハナバチは体を浮かすだけの揚力を得る事ができない……つまり飛べないという結論に至るのだ。
だが、マルハナバチは現に飛んでいる。
これがマルハナバチのパラドックスだ。
結局さらに研究が進み、マルハナバチを始めとした特定の虫達は、飛行機とはまた異なる原理……複雑な翅の動きによって空気の渦を発生させて、その渦に吸い上げられる力を使って飛んでいる事が分かり、現在このパラドックスは解決している。
だがそれでも、蝿の王は飛んではいけないのだ。
なぜか。
それはあの巨体で、他の虫達と同じように毎秒数百回というほどの羽ばたきを実現して飛ぼうとすると、別の重大な問題が発生するからだ。
その問題とは、ずばり衝撃波だ。
物体が音速を超える速度で動くと空気中を伝わる音が物体に追い付けなくなり、ソニックブームと呼ばれる衝撃波が発生する。
この衝撃波の力は強大だ。
例えば、数十km離れた空中を堕ちる隕石が発する衝撃波でも、人は倒れ、ドアは吹き飛び、窓ガラスが割られるほどの破壊力を持つ事もある。
もし仮に、毎秒二百回という速度で五メートルの翅を往復させようものなら、その速度は優に音速を突破する。
これでは巣から飛び立とうとした瞬間に巣は崩壊し、周囲にいる眷属達はすぐさまミンチになるだろう。
もちろん、超音速機のように衝撃波に干渉しないよう形状が工夫されているわけでもないので、自分自身も甚大な被害を受けるだろう。
いや、詳しく計算したわけではないが、おそらくダメージどころか翅を一往復させる事すらできずに木っ端微塵となるはずだ。
かといって、単に羽ばたく速度を音速以下まで抑えても必要な揚力は得られない。
だが……ベルゼバブルは、現に飛んでいる。
……俺にはこの地球では解決し得ないパラドックスを解決する方法に、一つだけ心当たりがあった。
そして蝿の王の眷属、その成体が塔内を飛ぶ様子を見て確信した。
「……翅の羽ばたきだけでは飛ぶために必要な力は絶対に得られません。ベルゼバブルはおそらく――」
◆
「はあぁぁぁあああ! 蝿の王よ! やはりお前は! 風魔法で揚力を増幅しながら飛んでいる!」






