1-22 亡き婚約者からの紹介状 ~無口な義兄に、身も心も甘やかされていますっ!?~
大物政治家の孫娘であり、化粧品ブランドの経営者でもある木下静枝は再従兄弟でありオダ・ビルディングの代表、織田浩二と婚約させられたが、結納直前で彼が事故死してしまう。後継者争いの会議に元婚約者という微妙な立場で招待された彼女だが、妙な胸騒ぎを感じ、参加することを決める。
当日になってはじめて彼の遺言を知った静枝は、親族であることを理由に次期代表に名乗りでるが、その代わりに浩二の兄、健一と結婚させられることになった。
最初は彼に負い目を感じ、すれ違う日々が続いたが、ある夜、真剣な眼差しで「僕の原点はあなたです」と健一から告白され、急に静枝は溺愛されはじめる。
健一さんの原点が私って、どういうこと?
真意を確かめる暇も与えられないほど溺愛され、気づいたときには身も心も陥落していた静枝。
公私ともに順風満帆に見えた彼女だが、背後から魔の手が忍び寄っていた。
なんだこの会議はと、ドラマでしか見たことのない状況に、無関係者の私はため息を吐きたくなっていた。
「先代代表の兄とはいえ、どこの馬の骨ともしれない男になんぞ任せられるか!」
「そちらこそ、ライバル企業の社長がオダ・ビルディングの代表を兼ねるなんて、とんでもない」
そう吠える老齢の役員に対抗して、少し若い役員が言い返す。
今、目の前で繰り広げられているのは、三十六歳という若さで死んだ織田浩二の跡を、だれが継ぐか決めている会議という名前の戦争だ。
この部屋にいる人で、だれが彼の死を想像できたのだろうか。いや、きっと本人でさえ想像できなかったに違いない。
本来ならば、兄の織田健一が継げばいい話なのだが、いかんせん、創業家の跡取り娘である母親、織田民子と血が繋がっていない。
創業者の血筋を重視する一派は彼らの従兄、毛利龍太郎を担ぎあげた。しかし、この男は日本三大不動産の一つ、毛利不動産の社長。もしコイツが代表になれば、毛利不動産に吸収されるのは決まったようなもの。自社を大切にする役員たちとしては、なるべく避けたいはずだ。
とはいえ、毛利龍太郎が参加を拒まれていないところを見ると、たとえ吸収されようとも業績を伸ばしたいという創業者一族の方針が見えなくもない。
裏のやり取りが見えてしまうのがツラい。ここにいる立場上、大っぴらに口を挟めないのがもどかしい。
閨閥という名のもとに婚約話を持ってきたジジイ……祖父の木下重蔵ならば、この状況ではどう動くだろうか。おっとりとした姉よりも織田家に嫁ぐのは相応しいなんて言ったけれど、私にはどう動けばいいのかわからない。
この跡目争いの会議にジジイも参加したがっていたけれど、ちょうど大事な会議が入っていたらしい。要職を退いたとはいえ、古狸様は重宝されるらしく、このオフィスとは目と鼻の先の霞ヶ関でしっかりとお勤めを果たしている。
早く終わってすべてから解放されたいと考えながら、しばらく目の前のやり取りを眺めていたが、まったく有意義な時間には思えなかった。
休憩になり、その場にとどまるのが嫌だった私はお手洗いに行こうとしたが、角を曲がった先から会議の愚痴が聞こえてきて、おもわず立ち止まってしまった。
「もし毛利さんが代表になった場合、健一さんはどうなるのかねぇ」
「そりゃ、追いだされるだろうな。なんせ、民子さんの血は一切入ってない。そんな人をここに置いておく必要はないからな」
義母、織田民子と健一さんの個人的な関係はわからないが、毛利龍太郎にとっては自分の方針に抵抗するものたちの旗印になるから、目の上のたんこぶだ。
もし、追いだされたら、どこか行くアテはあるのだろうか。
「しっかし、死んでからまで迷惑をかけてくれるとはねぇ」
「今までも散々尻拭いさせられてきたのに、どこまで迷惑をかけるお人なのやら」
次第に浩二さんについての愚痴になっていった。
浩二さん、いや、織田浩二とは婚約者という関係だったけれど、面識はゼロである。ただ女性経営者たちの集まりでしか聞いたことがない相手でしかなかった。
『だれにでも裏表がなく、困っている人には無償で手を差し伸べる』
優しい微笑みを浮かべていた婚約者の遺影は、そんな経営者としては致命的な性格を切り取ったようなもので、遺影でさえ人を誑しこめそうな雰囲気を醸しだしていた。
経営者としては致命的だっただろうが、男としては逸材だったらしい。生前、パーティーが開かれるたび、玉の輿を狙う女たちに隣の場所を虎視眈々と狙われていたらしいが、唯一の女を作らず、次々と遊び歩いていた男。
そんな男は、三流企業と揶揄された会社を半年前に東証に初上場させたが、次の矢を射ろうとした矢先に死んでしまった。
婚約者だから、葬儀にさえ出れば織田家との繋がりは終わりになるはずだった。それなのに葬儀後に彼が遺していたという招待状によって、私は今この場に来させられている。
この招待状をべつに無視してもよかったのだが、妙な胸騒ぎがした私は参加することにしたのだ。
「代表が運ばれた病院で遺した言葉のおかげでここまでの対立が起きているんですからなぁ」
「『僕の死後は一番ふさわしい親族が会社を継いでくれ』でしたっけ。あれがなければこんな会議なんて開かなくてもよかったのに」
「ええ。まったくですよ」
耳に飛びこんできた言葉に、おもわず声が出そうになった。
どうしてそれを招待状に書いておいてくれなかったんだと、心の中で舌打ちをしてしまった。
私にも、出せる切り札はあるじゃない!
ただ黙って座っている時間がもったいなかったじゃない!
とはいえ、時間はない。多分、この休憩時間に毛利龍太郎はすでに周りを固めるはずだ。だれを味方にすればいい?
いや、一人しかいないじゃない。
私は今来た道を引き返した。
部屋に戻ると、ほんの短い時間にもかかわらず毛利龍太郎のほうが優勢になっていた。
進行役の役員でさえ、ヤツに視線だけで伺いを立てている以上、この流れは止められないだろう。
「再び会議を始めさせていただきます」
でも、私は今しかないと立ちあがった。
「ちょっとお待ちください」
男たちの筋書きにない発言に、冷たい視線を向けられたが、後戻りはできない。
自分を奮い立たせるように腹の底から声を出した。
「『僕の死後は一番ふさわしい“親族”が会社を継いでくれ』というのが、織田浩二さんの遺言ですよね」
この場にいる全員に確認するように尋ねると、揃ってはいなかったが、ことごとく頷いているのを確認した。
たかが元婚約者ごときが権利を主張するのかと、隅っこのほうから呟きが聞こえたが、まるっと無視し、高らかに宣言させてもらった。
「私、木下静枝は織田浩二さんのお母さま、織田民子さん従姉妹の娘、すなわち浩二さんの再従兄弟、六親等にあたります。通常の相続は子どもや兄弟姉妹、もしくは父母になりますけど、遺言があるならば話はべつです。もし気になるかたは、取り急ぎは霞ヶ関あたりでお茶を飲んでいるジ……木下重蔵に確認してもらえればと思います。まあ、なので、織田健一さんや毛利龍太郎さんと同じようにこの会社を継ぐ資格はあります」
私の宣言に、ほとんどが驚いていた。
『元婚約者ごとき』と言った役員が再び、あなたもそこの男と同じクチですかと、嫌そうに指摘してきたが、こんなヤツと一緒にされてたまるか。
たしかに同じ立場であるが、私は事情がまったく違う。
「ええ、ご指摘のとおり、化粧品ブランド《オーキッド》を経営しております。しかし、業種が違います。また事業規模もこちらの五分の一でしかありません。なのでこちらに吸収されることがあっても、こちらを買収する余裕なんてございません」
「オダ・ビルディングはお嬢さんのオモチャではない」
あくまでも真剣に言っているつもりなのだが、たかが小娘ごときがと鼻で笑われてしまった。
「ええ、そうですね。現在、低所得から中所得の個人客中心に事業展開しているので、業界五位を保てていますが、高所得者層や法人向けも力を入れていかなければ三年、いや一年後に今の地位ですら保たてているかわかりませんよ」
正直、勢いだけでこんなこと口走っている。けれども本気だと思わせるために、事前に収集していた情報を惜しみなく出す。私の指摘に罵ってくれた役員は黙りこんだ。
「それに、健一さんは私が目指す高所得者や法人向けの営業部、都市開発事業部の主任でいらっしゃいます。健一さんの今なされていることを会社の目標に据えれば、織田家と関わりがなかった私でも文句はありませんでしょう?」
それ以上、だれも反論するものはいなかった。
私はオダ・ビルディングという会社を手中に収めることができ、健一さんの居場所を確保できる。
そう勝利を確信した。
「なるほど。たしかにそれならば、あなたの方が相応しい」
静寂の中で、一人だけ拍手をしながら立ちあがった人がいた。
「僕が代表になった場合、半分くらいの役員たちは吸収されないか心配されているようですが、木下静枝さん、あなたが代表になればそんなことはない。そういった意味では最高の代表です。喜んであなたの代表就任を受けいれます」
この会社を手中に収めようとした男の言葉に、明らかに安堵していた人もいたが、私には安心できる要素なんてない。
「ですが、不動産屋としてはまったく経験がない」
ほら来た。
もちろん徹底的に叩かれるかと思ったから、そこは意外だったけどね。
「指南役を兼ねて織田健一と結婚されてはいかがでしょうか。そうすれば、文句を言うやつはいなくなるでしょうし、社長夫妻共通の夢として社員一同が共有しやすいんじゃないでしょうか」
毛利龍太郎の提案に全員が意外な顔をするが、私には背筋が冷えるものだった。
健一さんには木下弓枝という、仲のいい幼馴染がいる。
今でも連絡を取り合っているくらいだから、強引にその妹との結婚を決められるというのは、気分はよくないだろう。
だから、さっき、代表就任を名乗りでるという話をしたとき、反対はしないではほしいと言ったけれど、あえてその話は出さなかったのに。
「待って。それは」
「構いません。それで静枝さんが代表に就任できるのならば、俺は構いません」
拒否してと言おうと思ったのに、先に健一さんに二つ返事で受けいれられてしまった。そんな彼を私は申し訳なさすぎて、まともに見ることができなかった。





