1-18 空はかく赤くありき
【この作品にはあらすじはありません】
かさぶたを付け替えるように、空を覆う重りを取り外してしまいたい。それほどに、我が国の空は穢れてしまった。
第72代国王レイリッド=ショウが、側近に漏らしたという言葉である。
この国の初代王は、伝説によれば大地に寝そべる大きな龍を倒した英雄だったという。沼地が多く暴れ川の制御に悩まされ、どの国の食指をも動かすに値せぬと言われた土地を、歴代の王は治水と農業改革で地道に耕し、農業に適した土地に作り替えた。
国は豊かに、そして強くなった。侵略されたことのない土地の民が、自分より貧しく劣った周辺の国々を次々と呑み込んでいった——人の心を持たない暴れ龍は王国そのものであると揶揄されるほどに。
やがて王国の政治は不正にまみれ、裁きは曲げられ、行政官は自ら進んで賂をとった。民の失望と怒りは、暴れ龍の体内を静かに蝕んでいった。
戦争の動機が侵略ではなく、対外憎悪を煽るための手段でしかなくなって、30年。
第72代国王の死とともに、国内では有力な領主の反乱が相次ぎ、200年続いた王国はついに滅亡した。
土地は荒れ、治安は悪化した。王国の腐敗を憂い革命を支持していた者たちでさえ、王政の復活を望むほどに、栄華を誇った国は跡形もなく崩れ去った。
戦いで死んだ数多の民の血を象徴するような真っ赤に染まった空の下に、二人の兄妹が暮らしている。
※
「そんなところで寝っ転がって、風邪ひくじゃないか。なにを見てるだよ」
「えーやだやだ! 兄上ったらいつからそこにいたのよ」
「いつからってマニ、いま来たところだけど……それは!」
妹が読んでいた本は、王の騎士であった父の日記。兄は思わず顔を青ざめた。王国が滅ぶに至った反乱の始めは騎士団の反乱だったとされている。
当初は国民に熱狂的に受け入れられたという反乱も、今や庶民の生活苦の元凶扱いである。誰かに見つかれば、いい印象は受けないだろう。守ってくれる大人も、今は家にいない。
兄と妹、二人きりでの留守番だ。母親は出稼ぎに、父親は故人である。叔母が二、三日に一度様子を見にきてくれるが、あまりアテにはならない。叔母だって生活は苦しいのだ、仕方ないだろう。
作物を枯らす赤い雨が降るこの国では、民は生業を捨て、周辺諸国へ出稼ぎに出ることでかろうじて家族を養っていた。
兄妹が暮らすのは、王の名を模したショエイという町。しかしその名で呼ぶ者は滅多にいない。
王都の面影が微かに残る町の、石造りの家。屋根は暴風雨で吹き飛んで修繕もされないがそれでも、王都周辺の町は治安がよい方で、兄妹だけで暮らしていける。
まだマシだと思うべきなのだろう。辺境の村では人が売り買いされているとも聞く。貧しい家の娘は若く美しいほど値がつくそうだ。身の毛もよだつ話だ。そんな情勢のなか、身内がこちらを気にかけてくれるのも有り難い——のだが。
王国の滅亡後に生まれた妹とは違い、うっすらと王国時代の記憶がある兄は、これから生きなくてはいけない時代の理不尽さに思いを致さずにはいられなかった。
「なあ、マニ。その本は、元にあったところへ戻しておこう。これからニィは水を汲みにいくけど、付いてくるかい?」
「……うん!」
独りぼっちは嫌なのだろう。名残惜しそうに本を畳み、地下室の中に放り込む。家の地上部分は跡形もないが、地下は比較的、王国時代の庶民の生活感が残っている。妹にとっては珍しいものが沢山ある宝の山なのだ。
正直妹にはあまり触らせたくはないのだが、唯一雨風をしのげる場所である地下室の一室に寝起きする場所を作っている関係で、否応なく目についてしまうのだろう。
「ねぇ兄上、手、繋いで」
妹はいつも僕の手を繋ぎたがる。仕方がないので水を汲む桶を肩に担ぎ上げ、右手でマニの手に応えた。桶は子供には大きいので、本当は両手で持ち運びたいのだが……。
水汲み場はかつての王宮の敷地内にある。安全な水が湧く井戸は、家の周辺にはそこしかない。庶民が使っていた井戸は全て枯れるか、毒を含むようになってしまった。
王や王妃をはじめとして要人が生活する場だから当たり前なのだが、井戸というのは厳重に管理される。建物の大半は壊れてしまったが、それでも、王宮の井戸に至る道は曲がりくねっていて、かつとても狭い。二人で横に並ぶことはできないので、いつもは妹を先に行かせていた。
この日もいつものように妹を先に行かせようとした。前に行くように促すと、妹は口を一文字に結んで、首を横にブンブンと振った。
「どうしたんだよ、いつもの水汲み場じゃないか」
「なんか……怖い」
「なんで? どういう風に怖い?」
早く水を汲んで帰りたい——その思いが、苛立ちたして口調に現れてしまった。妹はより一層体を硬くし、黙りこくって、動かない。
「……今日だけだぞ」
自分が先に歩き、妹と繋いだ右手を後ろに回して時々振り返りながら歩く。細い道を三分のニくらいまで進んだところで、妹が体を強ばらせた。
「なんだよ、もうすぐなのに」
左肩に抱えた大きな桶が、何かにぶつかる感触がした。こんなところに障害物なんて、なかったはずなのに。
「……おい」
野太く、地響きのように低い声がした。図体の大きい男が、わざとらしく胸のあたりを押さえてこちらを見下している。
「どこ見て歩いてるんだ? その馬鹿デカいモンのせいで、怪我しちまったかもシれないなァ?」
物盗りだ! 桶を捨て、妹を抱き上げて走ろうとした。しかし、退路にはすでに複数人の男が立ち塞がっていた。
「な……なにが目的だ! 僕の家に金目のものはない!」
「金ェ? 興味ネェな。オレたちは、日記を探してるンだ。裏切り者の日記を」
自分の心臓が、噛み合わぬ歯車のように早回りしたのを、どこか他人事のように感じていた。
「日記? なんのことだ」
虚勢を張る。相手も当然気づいている、こちらに心当たりがあるということには。
「お前らが隠しているということは知っているんだぞ。デラという女がそう言っていた」
「デラ? そんな……」
それはこの旧王都で、唯一の肉親、唯一の信頼できる大人の名前。
叔母はそんな素振りをいっときも見せなかった。それが逆に、裏切りに説得力を持たせてしまう。
身内さえ売り飛ばすのが当たり前のご時世である。なぜ今まで、叔母ならば信用していいと思ってしまったんだろう。叔母に限って、と思ってしまったんだろう。
心の内側から沸々と湧き上がるのは、意外なことに悲しみでも恐れでもなかった。
「どうしてだ!」
それは——怒り。目の前の男に対してか? いや、違う。もっと大きな、自分の知らないことに対する怒り。
なぜ王国は滅んだのか。なぜ騎士であった父親が裏切り者と呼ばれているのか。頭がぐちゃぐちゃして、もつれあった糸で手を縛られているように苦しくもどかしい。
昨日までの日々のように、普通に暮らせていたらよかった。王政は戻らないし、赤い雨は滅多に止まない。周辺諸国へ移民として渡ろうにも、かつてこの国が侵略した土地の民はいい顔をしない。
この呪われた地で、せいぜいその日暮らしの生活を妹とできていればよかった。
何も知らないまま死ぬのは、嫌だ! 嫌だが、非力な子供が歳下のきょうだいを連れて逃げられるとは思わない。叔母も信用できないとなれば、逃れていく先のアテもない。
妹の存在が、僕を正気に保っていた。——そう。惨めで情けないけど、日記とやらを差し出し、土下座をして、男どもの靴でもなんでも舐めて、また、いつも通りの日常に戻るべきだ。日記なんて、命に比べれば、安い。
そう、思っていたのに。
「ク、そのガキをいつまで抱えていられるかナ?」
ひゅん、と何かが空気を切り裂く音がした。直後、妹の手がだらりと垂れ下がるのを感じた。
「あに、う、え」
ヒトは……死ぬと重くなる。そのことを、僕は初めて知った。
僕は……一人になってしまった。妹の口は薄く開いたまま、目は虚ろでなにも映さない。
僕は戦うと決めた。その前に、目の前の男たちを殺さないといけない。





