1-12 a baggage locker─私がママになった日─
「私がママに…………」
通り過ぎる空気のように味気なく空虚な毎日の中、わずかな居場所すらなくして彷徨っていた深夜の街。
何かを探すように歩き回って辿り着いたのは、暗がりの駐車場。
そこで果たしたひとつの出会い、交わす一夜の出来事。
出会いは一瞬でも、そこから訪れる変化はあまりにも大きなものだった。新しい生活のなかで、またいくつもの出会いと別れを経験しながら、少しずつ変わっていく。
変わっていくことでしか、交われない気持ちもあるから。
これは、何もなかった『私』がママになっていく物語。
突然だが、コインロッカー・ベビーというものをご存知だろうか?
いわゆる都市伝説で、生まれた子を育てる術のなかった母親が我が子を駅のコインロッカーに捨てるところから始まる。数年後、偶然その場所を通りかかった母親はコインロッカーの前で小さな少女が泣いているのを目撃する。何気なく『どうしたの?』と尋ねた彼女に、少女は答えるのだ。
『ママがいないの』
『迷子?』
『ママがいないの』
『お母さん、どんな人?』
伝わる国や地域によって細かい違いはあれど、大体はこのようなやり取りで話は進み、最後の最後に少女が見るもおぞましい形相で、
『ママは……お前だァァァッ!!』
と、魂の限り叫ぶのがお約束である。コインロッカーに取り残された赤子が数年後母親の前に現れる都市伝説、コインロッカー・ベビー。この後の展開は多岐にわたるが、メジャーなのは母親の驚愕で終わるものと、少女の叫びから始まる呪わしい歌を母親が頭を振りつつ聴き終え、成仏する様を見届けるものだろう。
何にせよ、自分のしたことはいずれ返ってくるという類いの話なのだと思う。今のところ私には縁のない話ではあるが、駅前のコインロッカーを見かけるとつい意識してしまう。
そんな都市伝説と縁を持つことになったのは、転活に疲れきって深夜徘徊をしていたときだった。
私のことをやたら目の敵にして、『激臭、よわよわ、雑魚雑魚』などと言って足蹴にしたりプライベートなことでからかってきたり、更には私の携帯を盗み見て近所の子どもたちの写真を殊更に騒ぎ立てたりする新卒社員たちに苦しめられ、とうとう信頼していた上司が『盗撮はまずいよ』とそちらの肩を持った頃から、私は転活を始めた。あそこはもう職場ではない、私を排斥して犯罪者に仕立て上げようとする悪の巣窟なのだ。
とはいえ転職も楽ではない。ただでさえ人と話すのが苦手なのに、面接のような場で自分を売り込むのなんて、生まれもった命しか持たないただの人間が全てを備えた少女たちに抗おうとするようなものだ──当然勝ち目などない。何社も落ち、正社員を諦めてアルバイトに応募してもなかなか採用されず……そのうちいろいろどうでもよくなり、少しずつ求人サイトを見ない日が増えた。幸いなことに金なら貯まっているから、当分は働かなくても暮らしていける。そういう状況も、転活離れに拍車をかけたのかも知れない。
その日も私は深夜2時くらいに家を出て、近所を歩き回っていた。職員室だろうか宿直室だろうか、ひと部屋だけ明かりのついた小学校や、若手のホストかと思う服装の男が地面に座って項垂れている飲み屋街を通り抜ける。酔っているのか、意味のわからないことを喚いていたので、足早に通り過ぎた。
終電もとっくに終わっている時間なのに、盛りのついた猿のように騒ぐ集団が駅前通りで踊り狂っている。それぞれが自由に様々な形式、様々な民族のダンスを踊っていて、確かに見ごたえはあったが、如何せんうるさ過ぎる。
駅前通りから少し逸れて、もう少し行ったらパブが見えてくるという駐車場に設置されたコインロッカー。たまたま通りかかったその場所で、ひとりの小さな女の子が踞って泣いていたのである。
……小さい。
見かけたとき、まずその少女がとても小さいことに気がついた。着ているのは少し離れたところにある幼稚園の制服だったから、もうそこに通うような年齢らしいのだが、それにしては背丈が低いし、見たところ体重もかなり軽そうだった。
深夜にひとりで泣いている、発育状況の芳しくない子ども……もちろんいろいろな体質や事情があるから一概には言えないのはわかっているつもりだが、どうしてもネグレクトを疑わずにはいられなかった。それによく見てみたら、この子の履いている靴は着ている服とは違う、県外の幼稚園指定の靴じゃないか?
このチグハグさは、何かある。
そう思い、恐る恐る近寄る。
聞くものの同情を誘うように、香りで虫を誘い込む食虫植物のように、泣き声は悲痛さを増す。当然だが虫のように矮小な私ではその声に逆らえるわけもなく、いとも容易く惹き寄せられてしまう。これが特定の層をターゲットにした美人局だったら、私ほどチョロい獲物もそうはいるまい──どこか開き直ったような気持ちで、コインロッカーという場所に少し怯えながらも声をかけていた。
「ねぇ、こんなところでどうしたの?」
「……うぇ、えぅっ、……っく、」
「大丈夫だよ、ゆっくりでいいから話して?」
「ママがね、ママがいないの」
────なんてことだ、さっき思い出した都市伝説とリンクしてしまうじゃないか。少し身震いしたが、さすがに現実的ではない。大方母親がこの近くの飲み屋に入り浸っているのだ……そう思おう。
「お母さんと迷子になっちゃったんだ……。どこまで一緒だったか覚えてる? よければ一緒に捜すよ」
「ママはね……ここにあたしを、おいてったの」
「────、」
「ママはね……ママ……ママは……」
一拍の間、俯いていた少女は突然顔を上げた!
「お前だァァァッ!!!!!」
その形相を見れば、目の前の少女がこの世のものではないことは明らかだった。半ば腐乱した顔面に、ギリギリのところで眼窩に収まっているだけの両目は白目と呼べるところのないほど血走っている。虫でも這いずっているのか、そのふにふにと柔らかそうな質感の頬は自身の叫びとは関係なく常に蠢いていた。
声はというと、先程までの少し舌足らずであどけない、思わず頬を弛めてしまうような可憐さはどこへやら、さながらメタルバンドのスクリームのような発声である。この年頃でこの発声……本気になって突き詰めればとんでもない逸材になるのではないかと唾を飲んだが、きっと彼女自身はそれを母親にしか聞かせるつもりはないのだろう。少しだけ惜しいような気がした。
怨みに満ちた眼差し、ガタガタになりながらも剥き出された歯、元はツヤツヤぷるぷるだったろうにすっかりひび割れてしまっている唇、そしてこの手の怪異には付き物の、栄養の行き届いていない青白く痩せ細った身体──そのどれもがある種フォトジェニックと言える代物だった。
ところが、異変はすぐに起きた。
まず、少女の表情から怨みの気配が消えた。そして戸惑いの表情に変わり、彼女の感情の変化に呼応したように眼球はすっぽりと眼窩に戻っていく──なので今の彼女はただ顔色がとても悪くて少し腐っているだけで、あとは普通に可愛らしい幼い少女になってしまった。いったいどうしたのだろう?
「……あれ、え、……え?」
怨嗟に満ちた顔をしていたはずなのに、突然戸惑ったような声を出し始める。地声はやはり可愛いんだなと笑っていると、女の子は突然言ったのだ。
「おじさん、だれ?」
「君のママだよ」
「ちがうっ、ママちがうっ!」
頭を殴られたような衝撃だった。
面と向かって自分の言葉を否定されるのなんて、どれくらいぶりだろう。悲しめばいいのか、気持ちいいと思えばいいのかわからない。ただ、『ママちがう』というその言葉には、やはり悲しみが芽生えてしまう。
確かに、私とこの少女の間に血の繋がりはない。それどころか今が初対面だ。加えて私は年齢イコール恋人いない歴、そして誰とも肌を重ねたことがない、まったくの未経験者──ママどころかパパになる可能性も現状なく、そのまま三十路になろうかというただの一般人だ。
しかし、この少女はさっき確かに、私に『ママはお前だァァァッ!!』と叫んだのだ。コインロッカーに捨て去られた赤子が、私に向かってママだと言ったのだ。コインロッカー・ベビーは、自分の母親の前に現れて『お前だ』と言う怪異である──つまり、コインロッカー・ベビーが『お前だ』と告げた相手は。
私は、このベビーのママなのである。
「ママちがう、やだやだっ! ママがいいっ、ママじゃないのいらない、ママかくさないで、ママ、ママぁ!」
「────、」
バシィィーーー!
音は存外高く響いた。腐ってはいてもまだハリの残る頬を叩いたからかも知れない。誰かの頬を張るなんて、初めてのことだった。学生の頃はよく殴られたり蹴られたりしたものだったが、いざ自分がやると、とても胸が痛かった。
だが、それでも間違いは間違いだと教えなければならない、正さねばならない。何故なら私はもう、この子のママなのだから。
「え、な、なんで……」
なんではこちらの台詞だ、そう言いかけた口を噤む。この子のことはまだわからない。この子だって、私のことなんてまだわかりようもないのだから。
「さぁ、帰ろう。夜遅いしお腹空いてるでしょ?」
だから、まずは。
家に帰って、それからお互い分かりあっていこう。そうすればきっとママになれる──元々じゃない、後から家族になる間柄だからこそ分かり合えることだって、きっと……。
「やだやだっ! ママまつ、まってるっ!! たすけてママぁ!!」
「私がママになるんだよ!」
「やぁぁっ!!」
深夜の道に、幼い悲鳴がこだまする。
困ったな、これだと私が犯罪者みたいじゃないか。
「さぁ、帰ろう」
新しい毎日の始まりが、こんなにも唐突だなんて。どこか胸の踊るような、急にどこかに投げ出された心細さのような、様々な気持ちと共に、私はコインロッカー・ベビーのママになった。
「うるさいうるさいうるさーい! はなしてよ、このロリコン! ロリコンマザーファ●カー! はなせ、はなせぇぇっ!!」
ずっとここにいるのだろうに、どこでそういう言葉を覚えるのか。待ち受ける前途に少しだけ不安が芽生えたのは、ここだけの話だ。





