17-3
「ひどいです」
血止めの布切れを鼻の穴に突っ込んだまま、二木がフガフガ文句を言う。
勝千代は肩をすくめ、紺色の直垂に少量付いた鼻血を手ぬぐいで拭きとった。
「やりすぎだ」
「そうは思いません」
「いいや、やりすぎ」
勝千代はもう一度、間抜けな二木の顔を見てため息を飲み込んだ。
全身から不服をあらわにしているが、鼻の穴に布切れを突っ込んだ状態では締まらない。
鼻頭にしわを寄せ、細い目をなお一層糸のようにして、更にフガフガ苦情を言おうとして……ふと周囲からの凝視に気付き、チリリと殺気混じりの表情に変わった。
だけどね二木。鼻の穴に布切れを突っ込んだ顔じゃあコントにしかならないよ。
ごめん。ごめんって。そんなに睨むなって。
「うう、うう、痛い……痛い……おじい様、二木を殺してください。二木を……」
まるで今わの際のようなうわ言を言っているが、志沢の怪我は顔の皮一枚である。もうほとんど血も止まっている。
素人の勝千代にもわかるのだから、歴戦の武士である周囲の者たちには通じない。
二木はそんな志沢を、絞め殺しかねない冷ややかな目で睨む。
ああ、うん。でも鼻の穴にね……
でも誰も笑わない。
それだけシュールな情景だという事だ。
現在、勝千代側の五十数人がしっかりと武器を構え、周囲に目を配っている。
しかし対する者たちは、こちらの扱いを決めかねる風に戸惑っている。
理由はひとつしかない。
騙りだと聞かされていた勝千代が、思いのほか「誰か」に似ているからだろう。
勝千代は顔を上げ、騒がしい孫を足元に放置し、瞬きもせずこちらを凝視している赤い鎧の年かさの男と視線を合わせた。
「駿府に行かねばならぬ。力を貸せとは言わぬ、邪魔はするな」
子供特有の、あどけない声色だ。
しかし、なおも不満を言い立てようとした二木の額をぺちりと叩いて黙らせたこともあわせ、周囲の困惑と衝撃が明瞭に伝わってくる。
ガラガラ蛇みたいな男だけどね。今はちゃんと首根っこ掴んでるから。
「……駿府へ、でございますか?」
遠巻きに勝千代を見ながら尋ねてくるのは、黒い鎧の男だ。
全身の鎧が黒く、その飾り紐も頬当ても黒いから、いまいち年齢や容貌がわからない。
だが、この一団のなかでは、赤い鎧の老武者と同程度には影響力がありそうだ。
勝千代は、いまだぶつぶつと言っている二木の脛を軽く蹴飛ばした。
さらにいっそう嫌そうな顔をされたが、この作戦を立てたのはお前だろう。
「誰にとは言いませぬが、上手く踊らされましたな」
更に踊らそうとしている二木が、煽るように嘲笑する。
「殿は若君をそれはもう目に入れても痛くないほど可愛がっておられます。その若君が偽物? 渋沢さま、あなた様であれば、若君がどういうお生まれかご存じでしょう。よくもまあそんな噂をお信じになられましたね。御自分でも武辺ものとおっしゃられていた通り、頭の中まで戦の事しかないのでしょうか。殿を裏切ってまでこのようなことをなさるとは」
「……待て」
「殿もさぞかしお嘆きでしょう。信頼して駿府の留守を任せられたのに、兵庫介さまと結託して謀反ですか? 腕試しでもなさりたかったのでしょうか。朝比奈さまがお相手くださればよろしいですね」
二木の舌はものすごく滑りがよく、聞いている者の頭をクラクラさせる上に、反撃の糸口さえつかませない。
「そもそも、殿が動けぬとなれば、ご嫡男の勝千代さまが立つのが道理でしょう。幼少で難しいというにしても、後見は志郎衛門様のはず。五男である兵庫介さまがどうして旗印になっておられるのです?」
今川家にご側室として入った方の父親が、何故いまだ一介の城代なのかと言えば、福島家の先代は子だくさんで、正室継室との間に六人もの男子がいるらしいのだ。うち上の一人が分家を立て、その下の二人は他家に養子に入った。兵庫介叔父は更にその下の五男である。
分家の叔父は駿府で文官をしているらしいから、本来当主の代理となるべきなのは次男の志郎衛門叔父のはずだ、というのが二木の言い分だ。
実際のところは、武官ではないので荒事には向かないらしいとか、色々と事情があるようだが、勢いよく責め立てている二木にはそんなことはお構いなしだ。
「御屋形様のご三男の若君が、ずいぶんと聡明な方のようですねぇ。噂をご存じですか、方々」
さあ、最大の仕込みだぞ。
「御屋形様にはご立派なご嫡男がいらっしゃるにもかかわらず、福島家はご三男を擁立して後継者争いに名乗り出るそうですよ」
鎧が擦れる音すら消え、あたりが異様な静けさに包まれた。
この場にいる誰もが、叔父兵庫介の娘が御屋形様のご側室として入り、若君を上げられていることを知っている。
だが側室。しかも三男だ。いずれ今川の分家を与えられ、当主となる兄(嫡男)を支えるのだろうと誰もが信じていた。
そしてそれは、福島家系列の御一門衆が出現するという事を意味する。
将来的に、福島家の力になるだろうというのが大方の考え方だったはずだ。
そしてそのために、叔父兵庫介は無官のまま城代に据え置かれていて、いずれ孫の後見として新しい今川分家に仕えるのだろうと思われていた。
それが……まさか今川家の内紛を引き起こす側に立つ? 誰も想像もしていなかったし、望んでもいないだろう。
特に、御屋形様の忠実な武官として仕えてきた父の配下としては、受け入れがたい事のはずだ。
「我が殿がそのような事を御認めになるとは思えませぬ。つまり……兵庫介さまは殿が邪魔だったのでしょう」
「二木っ!!」
赤い鎧の老武士が、たまりかねたように声を上げた。
「逢坂殿のお孫様も、大層鼻息荒く若君を騙りだなどと非難しておいででしたが」
ふん、と鼻を鳴らす様は、無関係の者が見てもイラっとくるだろう。
二木の煽りスキルはかなりのものだ。
煽られているとわかっていても、聞くに堪えない。
「兵庫介さまの側について、福島家を乗っ取るおつもりで?」
真っ赤な兜の下の日焼けした肌が、これ以上ないほど赤黒く染まる。
「我らはそれには納得がいきません。幸いにも若君が駿府の御屋形様に直接談判に行ってくださるそうです。その邪魔をする事は、何人たりとも許しませぬ」
二木のたたみかけるような喋り方には、味方のはずの勝千代ですらかなりの居心地の悪さを感じる。
周囲の大多数、いやほぼ全員が同意見だったようで、視線が二木から再び勝千代に戻って来た。
そんなすがるような目で見られても困る。
勝千代は、持っていた扇子をパチリと鳴らした。
東雲の真似ではない。
二木が喋っている間、鼻血がついていないか少し広げて確かめていたのだ。
「詮議の内容は……そう、私が御屋形様の御次男を騙り今川家の乗っ取りを企んでいるとか?」
大丈夫、白い扇子には血の一滴もついていない。
二木の鼻の穴に突っ込んでしまったのはちょっと気になるところだが……
「私は福島勝千代だ。血筋的にはともかく、双子の兄を騙る気はないし、そもそも御屋形様の御子のつもりもない」
扇子を腰に差しなおし、もう一度ぐるりと周囲を見回す。
「私は父を取り戻しに行く。邪魔をしてくれるな」
これで引かないようなら、強行突破するつもりで、段蔵たちが騒ぎを起こすよう段取りを組んでいる。
だが印象はそう悪くない。
やはり叔父は、父ほどの人心掌握ができていないようだ。
勝千代は振り返り、周囲を睥睨している二木を見上げた。
下から見ると、鼻に詰めた布が血で真っ赤に染まっている。
今からもう一度馬に乗るのだが、上から垂れてこないだろうな。
心配になったので手ぬぐいを差し出すと、ものすごく嫌そうな顔をされた。




