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翌朝になっても、熱は高いままだった。
腹下しをのまさなくとも、十分に流行り病に見える寝込み方だ。
勝千代は今、宿のもっとも奥まった場所に寝かされている。
しかも部屋ではなく、用途としてはウォークインクローゼットのような、要するに沢山の葛篭や長持が置かれた場所だ。
弥太郎が磨いてくれたので不潔ではないし、むしろ気密性あって室温保持には最適かもしれない。
三畳程度の広さなので、火鉢ひとつで十分暖かく、がらんとした板間の、寒々しい部屋よりはよっぽど居心地が良かった。
宿の二階まで踏み込まれたら、屋根裏に避難する手はずになっている。
地方の町にしては立派なつくりの宿屋だが、建物の屋根が隣家とつながっているので、屋根裏伝いだとどこへでも行き放題なのだそうだ。
実に忍びが仕事をしやすそうな構造だ。
弥太郎によると、もう次の逃亡先も用意されているらしい。
丁度都合よく空き家があったとかで、万が一の事が起こっても安全に身を潜めることができるよう手を入れたそうだ。
家を一軒借り上げるなど、費えの方は大丈夫かと聞いてみると、どうやら誰にも知られないように無断に入り込んでいるそうで……後日何か謝罪の物でも贈るとしよう。
それにしても暖かい。
やはり無駄に部屋が広いと駄目なのだ。今後もこれぐらいの広さの部屋で寝かせてくれないだろうか。
押し入れで寝る某青い猫型ロボットの事を連想しながらウトウトしていると、宿屋の外でワアッと何やら人が騒ぐ声がした。
ぱちり、と目をあける。
「見てまいります」
額に大きなこぶを作った土井が、素早く木襖を開けて出て行った。
あのことがあってからやけに態度が殊勝で、常に勝千代の傍らから離れず、図式的には「弥太郎」→「土井」→「南」という距離構造で周囲を警戒している。
もちろん段蔵はずっと天井裏だ。
しばらくして戻って来たのは、土井ではなく父だった。
「お勝」
大柄な父が入って来ると、狭い部屋がますます手狭になる。
大きな手を額に当てられ、まだ熱が高いことを確かめて……。難しい顔をされたがお小言はなく、いい子で横になっていることを褒めるかのように再び額を撫でられた。
「何かありましたか?」
外での騒ぎを問うと、「ああ」と髭面が渋いものになる。
例の日向屋が滞在しているという宿に、この町の名主が乗り込んできたそうだ。
そこでのやり取りは定かではないが、穏やかではないものだったようで、日向屋の手代たちが名主を追い出し、もめ事に発展したのだそうだ。
ちなみにこの時代、後世のように末端まで行きわたった行政システムがあるわけではなく、各町はそのコミュニティの代表を名主とし、関や座の管理や納税などについては彼らが取りまとめていることが多い。
それがどういう意味かというと……自治傾向が強いのだ。
守護大名やその配下の武将たちが国を統治している、というのは間違った表現ではないが、彼らは武士であり、他国や自国のもめ事が起こった時に武力を使って国を守るために存在する。
内向きの、税の徴収や民事の問題が発生したときの対処などは、その九割方は町単位、村単位で行う取り決めになっていた。
こんな時代のことだから、目が行き届かない、というのが大きな理由のひとつだろう。
しかしそれによって何が起こるかというと……お察しだ。
正直に申告せず、多少の着服など日常茶飯事だっただろう。
簡単に私腹を肥やすことができるので、次第にそれはエスカレートしていく。
つまり、名主の善し悪しによっては、そこに悪政が発生してしまう、ということだ。
勝千代は、思った通りの展開にため息をついた。
各宿屋への忠告が効いてか、まだ通りに病人が出たという噂は聞こえてこないから、もう少し時間が稼げると思っていた。
しかし、大商人である日向屋がそう長くこんな小さな町に滞在するわけがなく、おそらくは近く出立する、という話を聞きつけたのだろう。
日向屋からすると、疫病が出た小さな町に長く居続けるメリットはない。
予定を切り上げ、早々に出立することにしたとしても、何もおかしな話ではなかった。
いや勝千代であれば、そういうきな臭いものを感じた時点で、多少仕事が残っていようが、不都合があろうが、さっさと次の町に移動する。
「無理に行動を起こすかもしれませんね」
日向屋は強引にでも出立しようとするだろうし、名主側は大きな魚を逃さないために何かをしてくるだろう。
絶対に良くないことが起こるだろう、と予想がついた。
少し考え、父のむさ苦しい強面顔を見上げる。
日向屋がどういう人物かわからないので、これまでは切り離して考えてきたが、朝比奈殿の介入に時間がかかるようなら手を組んでもいいかもしれない。
「東雲さまがどうされているかわかりますか」
夕べの話し合いが終わった後、いったん滞在している知人の屋敷に戻ると言っていた。
どういう知人なのか気になるところだが……いや、そんなことよりも、彼を介して話を進めたほうがいい。
「昼過ぎにもう一度おいでになると仰っていた」
朝比奈殿からの返信がくる頃だからだろう。
勝千代は頷き、身体を起こそうとしたが、それは父にも弥太郎にも阻まれた。
過保護な大人たちは、勝千代をまるで壊れかけのガラス細工のように扱う。
臥所から起き上がるのは、食事をするときと用を足すときだけ。
その徹底ぶりに言いたいことはあったが、これまでがこれまでなので黙って受け入れている。……おまるを強要されないだけまだマシだ。
「東雲さまに、日向屋との顔合わせをお願いしてみましょう。日向屋が父上と懇意にしているとわかれば、名主たちも手控えるかもしれません」
父は、ゲームでいう所の武力特化だ。
難しいことを考える前に先に体を動かすタイプだが、頭が悪いというわけではない。やるべきことがはっきりしていると、行動も早いし、実に頼りになる。
どちらかというと熟考し、動き出すのに時間がかかる勝千代のようなタイプとは相性もいいのだろう。
どこの大人が、たかが四歳児の言葉に諾々と従う?
父が勝千代を可愛がり、その言う事によく耳を傾けるからこそ、皆が同じように勝千代の言葉を聞いてくれるのだ。
「父上」
勝千代は改めて父の目をじっと見た。
中の人のいた時代から見ると、五百年ほども前に生まれ、人生を送り、死んでいった人だ。
父がどういう人生を送り、その結末がどういうものだったのか、今となっては知ることはできない。
だがしかし、万が一にも、父の運命がこの町で散るものだったら?
それが歴史の事実だから、変えてはいけない事だからと、黙って見過ごすことができるだろうか。
……否。
父を、弥太郎や二木や周囲にいるものすべてを、小粒な悪人どもの欲望のために失うつもりはない。
「お勝? どうした?」
心配そうに顔を覗き込まれ、にこりと笑みを返す。
ごつい鬼瓦のような顔に、こんなに愛着を持つようになるとは思ってもみなかった。
反射的に笑みを返してくる父を見上げ、相変わらず子供が逃げ出しそうだな、と失礼な感想を抱く。
「……いいえ。少し疲れました」
とろとろと瞼が落ちてくる。
「そうか」
父の大きな手が瞼の上を覆う。
剣だこのできた、分厚い、暖かい手だ。
「眠れ」
父の太く低い声を聞きながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。




