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下村が去ってからすぐ、奥の部屋に続く襖が開いた。
ガタリという音に顔を上げると、そこには暗がりを背に大きな人影。
明かりもない部屋からぬっと出てきたのは、父と細目の男だ。
心構えができていなかったので、心臓が飛び上がるかと思った。
普通の子供なら絶対に泣いている。
「……どう思われますか」
岡部家の諸々についての問いかけだったが、本当に聞きたかったのは双子の兄についてだ。
それに気づいているのかどうかわからないが、父は無言のまま勝千代を抱き上げ、腕に乗せる。
「父上?」
父は廊下を、広間とは逆方向に歩き始めた。
二の丸曲輪へ続く門を潜り抜け、更に歩くと、雪の下敷きになって倒壊した建物の向こうに蔵が見えてきた。
その前の広場にはかがり火が焚かれ、父の部下たちをはじめこの城の兵たちも集まってきている。
いい匂いがした。
中央の焚き火には太めの木の枝が格子に置かれ、その上には大きな鉄鍋がひとつ。
味噌の匂いだ。
思わずひくひくと鼻を動かしてしまって、父が低く喉を鳴らして笑うのがわかった。
「腹が減ったか?」
すでにもう夕飯は食べてしまったが、あのいい匂いの誘惑にはかなわない。
こくこくと首を上下させると、鍋をかきまわしていた父の部下がお椀によそってくれた。
手渡された木の椀の中には、軟らかく煮られた芋がらと玄米、雑穀が入っていた。
味噌汁というよりは、雑炊だ。
魅惑の香りにうっとりしながら木匙ですくうと、湯気が鼻先で「はやくはやく」と踊る。
これは駄目だ。
誘惑に負けて、熱さも確かめずに口に運ぶ。
はふはふと頬張るその姿を、周囲の大人たちは微笑まし気に見ていたが、勝千代は夢中になっていたので気づかなかった。
やがて食べ終わる頃には、お腹も心もほっこりして、胡坐をかいた父の膝の上で満足した猫のように膨れた腹をさすっていた。
「そのうち話さねばと思うておった」
腹が膨らめば、次に来るのは眠気だ。
大きな手で頭を撫でられて、うとうとしかける。
「そなたの兄のことだ」
しかし、その一言に背中に氷を落とされたようにはっとした。
パチリと開けた目で、父のひげ面を見上げる。
「双子の兄ですか?」
「そうだ、わしの娘が命がけで産んだ大事な子らだ」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
重要な話をされているのは理解できる。
しかしその意味がすぐには飲み込めない。
え? なに? 父は父じゃなかったの?!
驚きのあまり言葉が出てこない。
「双子だった故、片方を嫡子としてもらい受けた。兄の方は駿府で大切に養育されていると思うておった」
え? え? 四十路にはまだ間がありそうなこの熊男に孫?!
実の父でないことよりも、「孫」というパワーワードのほうが衝撃的だった。
年齢を逆算すると、十代の頃の子供か? その娘も十代で出産したのか?
充分ありうる話だが……すごいな戦国時代。
「ずっと彦丸殿が寝込んでおるのは聞いておった。そなたも病がちな子だったから、兄もそうなのだろうと思うておった。戦で忙しくしておったのもようなかった。帰ろうと思えば帰れたのに、出城に詰めておったわしの責任は重い」
桂殿が勝千代を目の敵にした理由もよくわかる。息子ではなく孫ならば、自分の子のほうが嫡男にふさわしいと考えてもおかしくはない。
「危うく、そなたまで失うところだった」
奥歯を鳴らしながら、そんな低い声で言わないでほしい。
こちらに向けた殺気じゃないとわかっていても、恐ろしいから。
……というか父よ。こんな大勢が焚き火を囲む真っただ中で、そんな話をしても良いのか?
毒殺云々よりはマシな内容だが、父の側近たちばかりでなく、城の兵士たちまで聞き耳を立てているじゃないか。
「ちちうえ」
しっかり聞こえていたが、眠くてよくわからない風を装ってみる。
「わたしの父上は父上だけです」
実際は祖父ちゃんらしいが、そのあたりはどうでもいい。
幼い勝千代にとって父とはこの筋骨たくましい男のことであり、それ以外では断じてないのだ。
「良いのか、それで」
「父上はじいじと呼ばれたいのですか」
ぶごっとどこかで噴き出す音がした。
「……いや」
「ならばそれで良いのでは」
小さく欠伸をする。
振りではなく、本気のやつだ。
「じいじと呼ばれたくなったら教えてください」
ぶふふふふ……と、笑うのを堪えようともしていないのは、隣で木椀を持っている細目の男だ。
腹に温かい食べ物を入れたことと、焚き火とかがり火がこれでもかというほどあることとで、全身がぽかぽかしている。
「……眠いか?」
「はい、眠いです」
今度は大きな欠伸になる。
「ならば眠れ。父がついておる」
「……はい」
父の膝の上は世界一安全だ。
その恩恵を享受しながら、ぬくぬくと幸せな微睡を満喫した。




