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ほんの数か月前までこの城で暮らしていたというのに、その頃の記憶があまりにも強烈だったが故に、逆に現実感に乏しかった。
思い出したくもないし、わざわざその場所を確かめたいわけでもないのだが、無意識のうちに目があちらこちらに動き、過去の記憶と合致する場所を探そうとしている。
例えるなら、転がり落ちた崖はどこだっただろうとか、額を切った岩はあの建物の向こう側にあるのかなとか。
当時の記憶は朧で、何より身体の苦痛のほうが重大事だった。
生きるか死ぬかの瀬戸際で、建物や壁や風景の様子をつぶさに観察できるわけがない。
かつて死をも覚悟した地だというのは確かなはずだが、視点と状況が変われば危険な気配など皆無で、別の場所だと言われれば信じてしまいそうなほど長閑なところだった。
志郎衛門叔父に手を引かれ、躓かないようにゆっくりと歩く。
一歩一歩進みながら、何とも言えない違和感と、口惜しさのようなものをかみしめる。
風は冷たいが、斜面が受ける日差しは温い。
枯葉の積もった山の斜面で、木々の梢が揺れ、小動物が走り、野鳥が鳴く。
そんなささやかな日常の情景さえも、意識して見た記憶はない。
「疲れましたか?」
黙々と歩いている勝千代に、志郎衛門叔父が声をかけてくる。
応えようと顔を上げて、その肩越しに海が見えた。
「……いいえ」
遠くの、キラキラと陽光を照り返す水面に目を細め、首を横に振る。
「町が見えます」
勝千代は、込み上げてきた吐き気を飲み込んだ。
食道を上がってきたすっぱいものが、胸を焼く。
「土方の町です」
志郎衛門叔父の低い声に頷き返しながら、誤魔化すように口角を上げた。
海どころか、城の近くに町がある事すら知らなかった。
果たして本当に、ここがかつて勝千代がいた城なのだろうか。
ふっと視界に影が過った。雲が太陽を遮ったのだ。
一瞬だけ視界が暗転し、その向こうに何か……歯の抜けた老婆の心配そうな顔が見えた気がした。
ああ、ヨネだ。
「勝千代殿?」
ぎゅっと手を握られて、我に返る。
太陽は再び柔らかな光を注ぎ、何事もなかったかのように午後の風が吹いている。
虐げられた幼少期だったが、寄り添ってくれる者がいなかったわけではない。
その事を思い出しただけで、随分と気分は浮上した。
「……風が強くなってきました」
勝千代がそう言うと、志郎衛門叔父も同意するように頷いて、ちらりと背後の、ずらずらとついてきている男たちを見下ろした。
「そうですね。急ぎましょう」
大柄で歩幅もある男たちを、勝千代のちまちまとした足取りに合わせるのは申し訳なくて、この先は運んでもらうことにする。
慣れてはきたけれど、草履で長距離、しかも山道を歩くのは厳しいのだ。
志郎衛門叔父に抱きかかえられて、お子様の特権を思う存分満喫しながら、高い目線での景色に視線を巡らせる。
大手門からは曲がりくねった道の先がどうなっているのかわからなかったが、進んでいくにしたがって、木々の隙間から、頑強そうな丸太づくりの柵が見えてきた。
いくらか開けた場所からだと、大小の囲いが稜線に沿って段々にあるのがわかる。
そのひとつひとつが曲輪だという。
目的地はさらに先、低い山とはいえその登頂部分にある本丸だ。
一気に上がった速度で曲輪の横手を通り、更に斜面を登る。
踏み固められた山道は細く、片側は壁のような斜面、もう片側はかなりの鋭角な崖が延々と続いていた。
一歩足を踏み外せば、そのまま山裾まで落ちて行ってしまいそうなところもある。
なるほど山城とは本来こういうものなのだろう。攻め手にとってはかなりやりにくそうな構造だ。
物見遊山にそんなことを考えていると、不意に視界に飛び込んできたのは、見覚えのある高い壁だった。
枯れかけた井戸があって、その周囲に格子戸が厳重にある。下っていく道の先には……ああ、間違いなくこの場所だ。
ちらりと見覚えのある炭置き小屋が視界をかすめる。
だが何も知らぬ大人たちはあっという間にそこを通りすぎ、見慣れた光景が後方に流れていく。
勝千代はその場所を叔父の肩越しに見送って、直ぐに目を逸らせた。
もはやあそこには何もない。
ヨネもいないし、死にそうな童子もいない。
ひと際高い木壁に覆われた本丸曲輪の中に入ると、急にその場の雰囲気が変わった。
天守などはないが、はっきりとそこが城の中心だとわかる。
場違いなほどしっかりとした造りの建造物が三棟、並んで建っていた。
その左右には櫓が一塔ずつ。見上げると、階段を上り下りする男たちの姿が見える。
地面にそっと降ろされ、周囲を見回すと、いつの間にか大勢の男たちに囲まれ、視線を浴びていた。
もともと勝千代と行動を共にしていた者たちだけではない、見覚えのある叔父の側付きたちから、この城の配備兵たちまで、皆が何か異様な雰囲気で勝千代を見つめている。
「部屋を暖めておりますよ、中に入りましょう」
志郎衛門叔父がそう言って、勝千代の背中を押した。
挨拶でもするべきなのだろうかと、落ち着かない気持ちでいた勝千代だが、ほっとしながら頷いて、こじんまりとした本丸御殿へと足を踏み入れる。
カンカンカン! カンカンカンカン!
耳に不快なほどの大音声で鐘が鳴らされたのは、上がり框で草履を脱ぎ、その足元へ湯気の立つたらいが置かれた直後だった。
カンカンカン! カンカンカンカン!
聞き覚えのある音だ。
……そう、岡部の城で響き渡っていた、敵襲を知らせる半鐘の音だった。




