23-5
土井が赤黒い顔をして刀の柄に手を置いた。
気持ちはわかる。だが、たやすく殺してしまうわけにはいかない。
勝千代は、さっと片手を前に出した。
その手を横向きに振るだけで、戸田の首は飛ぶだろう。
人一人の命を握っているのだという重みよりも、その誘惑に抗う事の方が辛かった。
平和な時代を生きてきた。
四十数年というのは、決して短い時間ではない。
勝千代は培われた自身の気質を温厚な部類だと思っているし、よもや人の死を望むような日が来るとは思ってもいなかった。
あの脂ぎった顔を苦痛でゆがめてやりたい。
その首を刈り取って、河にでも投げ捨ててやりたい。
「……何が成功したと?」
笑っていた戸田が、不意に真顔になって勝千代を見た。
「もはやこの御家で大きい顔をできるとは思わない事です」
「ほう?」
「いずれ勝千代様は廃嫡され、御身は仏の道にお進みになることになるでしょう」
「それはなんだ、そちの予言か? いつから占者の類になったのだ」
勝千代はうっすらと笑った。
「似合いの職かもしれんが」
「御存知ないのも無理はありませんが、今川の御屋形様のご方針で……」
「その話を何故知っているのか、聞き出すべきことが増えたな」
「そうですな」
低い、地の底から響いてくるような低音でそう言ったのは、叔父だ。
本能的に逃げ出したくなって腰を浮かせる。
「叔父上!」
「部屋にいてくださいと申し上げた筈ですが」
詰め所の入り口のところに、逆光になってよく見えないが、確実に叔父だとわかるシルエットの男性が立っていた。
ずかずかと部屋に入ってきて、ようやく見ることができたその表情は、ひどく緊迫し、強い怒りが滲んだものだった。
「父上は」
おそるおそる一番気になっていることを問いかける。
ああ、大丈夫だと言ってくれ。
たいした怪我ではないと。
そんな勝千代の不安を読み取ったのだろう、ほんのわずかだが、志郎衛門叔父の目線が柔らかくなったような気がした。
「事情は田所から聞きました。後の事はお任せを」
そう言った叔父の言葉に慌てて顔を上げたのは戸田だ。
しかし彼が何かを言うより先に、いつの間にかその背後には叔父の側付きの背高なエノキ茸を連想する男が立っていた。
先程まで部屋の「片付け」を指揮してくれていた男だ。
「田所。その者はとりわけ丁重に扱え」
田所と呼ばれた背の高い色白の男は、薄い唇をにんまりとほころばせた。
「かしこまりました」
単調な口調でそう返答し、色白の手で戸田の首に触れる。
冷たかったのだろう、「ひっ」と怯えたような悲鳴が上がった。
「この者の取り調べは、それがしが責任をもって」
……え、怖いんだけど。
もしかしなくとも、この男は拷問とかそういうもののプロなのではないか。
エノキ男が嬉々として罪人の爪を剥ぐ様を想像してしまい、顔が引きつった。
「ところで、幸松どのの従兄が何故ここへ?」
叔父の目が次に向いたのが、早田の方だ。
早田が幸松の従兄? お葉殿の甥御ということだろうか。
「それにそこで泣いているのは確か幸松どのの乳兄弟だったな」
「元服を済ませてから、勘定方で仕事を学んでいたようですよ」
何故か知っていたのはエノキ男。この短時間で少年の事について聞き込んできたのだろう。仕事が早い。
ちなみに少年は、早田の後ろで同じように大柄な男たちに両脇を固められ、ずっとぼろぼろと涙をこぼして泣き続けている。
これがこちらの情けを誘うためならたいしたものだが……
「……肩が外れているな。治してやれ」
戸田の首をつかんでいた田所が、面倒そうな顔を隠そうともせず、少年の方を見る。
「それがしがですか?」
「嫌そうな顔をするな」
「医者に任せては」
「手間だ」
叔父もまた「面倒だ」と発言したことにより、少年の涙がますます大量になる。
「お待ちください、いったいこれはどういうことですか?!」
二人の会話にかぶせるようにして、声を荒立てたのは早田だ。
もうこの男の事は「空気読めない男」と呼んでやろうか。
勝千代だけではなく、志郎衛門叔父にまで同じような態度をとるのか?
ひどく憤慨し問いただすようなその口調に、さすがに呆れてものも言えない。
分家を立ててはいるが、叔父は福島家嫡流の男子だ。当主である父の信任も厚い実弟なのだ。
一介の臣下が取ってもいい態度ではない。
叔父は一瞬にして早田への評価を決めたようだった。
以後一度も目を向けず、改めて勝千代へと向き直る。
ちなみに勝千代が座っているのは、この部屋の最上座。一段高くなっている畳敷きの部分だ。
叔父は板間の部分に腰を下ろし、勝千代に向って丁寧に頭を下げた。
「兄上はご無事です」
張りつめていた周囲に、どっと安堵の気配が漂う。
「……そ、そんな!」
悲鳴を上げて何かを叫ぼうとしたのは戸田だ。
しかしエノキ男が首を押さえているせいで、それ以上喋ることが出来ず、口を鯉のようにパクパクさせている。
「例の生臭坊主を手ずから取り調べ中、背後から襲われたそうです。狙いが兄上ではなく、その元坊主だったせいで、反応が遅れたのだと仰っておられます」
「怪我の具合は?」
「腕に深めに刺さりましたが、大事ありません」
え、刺さったのに大丈夫なの?
「抜くときに多少出血があったので、医者が手当てをしています」
刺されて「多少の出血」?
大量出血の間違いではないかと心配になってきたが、そういえば、勝千代をかばって腕を切られた叔父も、すでに三角巾を外して普通にしていることを思い出す。
あの怪我でも、この時代の武士にとっては「たいしたことがない」のかもしれない。
父の顔を見るまでは安心できないぞ、と改めて気持ちを引き締めながらも、つい長く息を吐いてしまうのは我慢できなかった。
「……これは?」
勝千代が内心、刃物についていたかもしれない毒の事や、今後の感染症のリスクについて心配しているうちに、叔父が目にとめたのは床に放置された例の血判状だ。
勝千代ははっと我に返って、叔父がまじまじと手に取って眺めている、どう見ても呪物にしか見えない誓紙について説明した。
叔父の、普段から険しい眉間の皺がなお一層深さを増し、対照的に唇がゆっくりと笑みの形にほころぶ。
身内だから見ていられるが、般若顔とでもいおうか、めちゃくちゃ怖い表情だ。
「これはこれは」
「証拠になりますか?」
「この上もなく」
勝千代は、頼もしい叔父の返答に今度こそほっと安堵の表情をして、あとのことは任せて父の元へ行こうと腰を浮かせた。
「勝千代様!」
そんな彼を引き留めるのは、「空気読めない男」早田だ。
こいつとはもう関わり合いになりたくない。
「勝千代様!」
気にせず叔父に挨拶だけして下がろうとすると、またも大声で名前を呼ばれる。
振り返ったら負けな気がして、そのまま部屋を出ていこうとすると、更にしつこく名前を連呼された。
「勝千代様!」
「……うるさい男だ」
部屋を出る間際、エノキ男が単調な声色でそう言うのが聞こえ、次いで、鈍く重いものが床に転がる音がした。
殴られるか、蹴られるかしたのだろうが……振り返る気にはなれなかった。




