22-1
このまますべて丸投げで終わればいいなぁと、密かに、いや切実に願っていた。
そうは問屋が卸さない、というのはこういうことを言うのだな。
勝千代は南の肩越しに、丸みを帯びた井坂喜佐次郎のシルエットを見ながら思った。
「このような刻限に偶然でございますね」
偶然なわけがない。
現在の時刻は深夜帯。今夜は月に雲がかかっているので、周囲はかなり暗い。
そんな夜に移動するにはある程度の明るさが必要だが、この時代の乏しい光源ではそれもままならず、南が手に掲げた灯明では相手を識別するのが限度。
「厠ですか?」
井坂は親し気な口調でそう言って、勝千代のほうに若干身を屈めてみせた。
親し気というのは、ほぼその声からの情報である。暗くて表情など読み取ることはできない。
南が遮るように前に出た。
同時に、井坂の左右から現れた男たちが南の前に立った。
「……どういうおつもりでしょうか」
南は後ろ手に勝千代をかばいながら、用心深く問いかけた。
「はて? どういう意味かな」
「井坂殿!」
「夜中に騒ぐでないわ」
勝千代は知っている。
こういう状況下で、過保護な父が南ひとりに護衛を任せたりはしないということを。
人の気配を読むなどそんな達人じみた真似はできないが、父がとりそうな行動はおおよそ把握できる。
なので、それほど気負う事もなく、増えていく男たちを冷静な目で観察していた。
皆黒っぽい装束だ。顔を隠してもいる。
その、いかにもな身なりを誰かに見咎められたら、どう言い訳するつもりでいるのだろう。
勝千代は小さく首を傾げ、井坂が立っている方向に目を凝らした。暗すぎてよく見えないが、笑っているように感じる。
何がおかしいのだろう。勝千代が始末できるのが嬉しくて? それとも南への復讐? ついでに糸の身も手に入れられると思っているのだろうか。
「聞いても良いかな」
「……なんでございましょうか」
「自分が間抜けだとは思わない?」
どうして今のこのタイミングで勝千代を捕えようと考えたのだろう。あまりにもリスクが高い。
「なにをおっしゃる。私は殿の意を汲んでいるのです」
「……意を汲む?」
「御屋形様の御子とはいえ、幸松様を差し置いて嫡男に居座られるのは迷惑千万」
あからさますぎるほどの敵意を感じることから、誰かに煽られてここにいるのだろうと察しがついた。
糸の件で、南だけではなく勝千代をも恨みに思うのは理解できるが、今の発言はうかつすぎる。
「つまり、そのほうは福島家の家督について物申したいというわけだな?」
家宰の戸田でさえ、主家の相続に口を挟む権利はない。その配下であればなおさらだった。
「……っ、もうよい! 黙らせよ」
勝千代の冷静な突っ込みに競り負けたように、井坂は周囲の男たちに命じた。
黙らせよ、というのは捕えよということか、殺せということか。
「坊主どもが高値で買ってくれると言うておるのだ! 傷はつけるなよ」
いや馬鹿じゃなかろうか。
ますます井坂の頭の中身を心配した。
「……すっからかんな上に、カラカラ音が鳴っているのが聞こえる」
きっと脳みそは干からび、用をなしていない。
「こんな阿呆どもは切って捨てても構わないかと」
南が同意するように頷き、勝千代を左腕で抱え込んだ。
右手で躊躇なく抜き放ったのは、使い込まれた刀だ。
「やれ!」
井坂の号令と同時に、男たちは勝千代を捕縛しようと……は、しなかった。
夜目にもくっきりと白い、一重の着流しを着たゴツイ人影が現れたからだ。
もちろん幽霊ではない。寝乱れた胸元から盛り上がった筋肉が垣間見える……父だ。
「……もう一度申してみよ」
地獄の閻魔様というのは、きっとこんな声をしている。
地を這うように低い、怒りと殺意の混じった濁声だ。
「買うと言うたのか? あの坊主が?」
ぶちっと何かが千切れるような音がした。
それは父の堪忍ぶくろの緒が切れる音……ではなく、父が鷲掴みにした男の髪がむしられる音だった。
……やめて、やめてあげて。
鬼もかくやという怒りの形相よりも、さらに続くぶちぶちという音のほうに肝がひゅっと縮んだ。
髪は、髪は駄目。
「父上」
心底震え上がりながら、父の白い寝着の袖を引いた。
「ちちうえ」
声まで震えたのは、意図したことではない。
「ここは寒うございます。早く部屋に戻りたいです」
「お勝」
父は握っていた男の髪をぱっと手放した。
「そうだな、寒いゆえな」
雲が晴れ、月の明かりが回廊に差し込んできた。
そこで初めて勝千代は気づく。黒装束の襲撃者たちを取り囲む、その倍以上の武士たちの姿に。
身の安全は疑っていなかったが、真夜中にこれだけの人数を動員しているとは思ってもいなかった。
その中に相変わらず黒づくめの渋沢がいた。
こんな時刻なのに、きっちり襟元まで詰まった直垂を隙なく着こなし、このまま仕事に出かけても問題のない身なりをしている。
何故この男がここにいるのだ、と疑問を感じるより先に、テキパキと指示を出して襲撃者たちを無力化していく手際に、彼がこの男たちの指揮をしているのだと気づいた。
渋沢がこの夜の勝千代の護衛をしていたという事か?
「早う戻ろう。冷えて熱を出してはならん」
ひょいと抱き上げられ、もさもさのヒゲが頬に当たった。
髭にも寝癖があるのを知っているか? 父は熟睡していたところを飛び起きて、身なりを整える間もなく駆けつけてくれたのだ。
変な方向に跳ねている髭が顔に当たるのが邪魔で避けようとしてみるが、剛毛なのでその程度で直るわけがない。
二度ほど手で撫でてみてから諦め、ぽすんとその首筋に身を預けると、周囲からかなりの視線を浴びていたことに気づいた。
男たちの顔に見覚えはない。渋沢の部下かもしれない。
「渋沢」
お子様の声はよく通るのだ。
勝千代がその名前を呼ぶと、少し離れた位置で騒ぐ井坂を見下ろしていた渋沢が、さっとこちらを向いた。
手招くと、深夜の時間帯を感じさせない軽快な足取りで近づいてくる。
「尻尾切りされないよう目を光らせておいて」
井坂がお馬鹿すぎてこういう行動に出たのか、もしかするとすべての罪を擦り付けるために意図的にそう誘導されたのかはわからないが、彼が生きていては不都合な人間がいる事は確かだ。
十中八九、今夜中に狙われるだろう。




