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冬嵐記  作者: 槐
第五章

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19-2

「申し訳ございませぬ」

 部屋に入ってすぐのところで、畳に額をこすりつけているのは背の高い若い女性だ。派手ではないが物がよさそうな打掛を羽織っており、身分ある人なのだとわかる。

「幸松殿も、早う!」

 彼女の隣にちょこんと座っているのは異母弟の幸松。彼に向かって鋭く叱責する様子から、おそらく母親なのだろう。

 つまりは、父の側室だ。

 この時代の人にしてはがっちりとした肩幅に二木や土井よりも高そうな背丈。悪女がはまり役の某女優のように、ちょっと怖い感じの美女だった。


「……彦丸さま?」

 幸松の幼い口調と、縋るような眼差しは、まだ兄の死を受け入れがたいものだと感じていることが伝わってくる。

 スパン! と派手な音とともに、膝を揃えて座らされていた幸松が前につんのめる。

 ……見えたからね。今、幸松の後頭部を素早く平手打ちしただろう。

 何もなかったふりをして、再び頭を下げる母親と、畳に顔をぶつけて涙目になる幸松。

「大変ご無礼致しました。後で重々言い聞かせておきます故、どうか御赦しください」

「……いたいです」

 真っ赤になった額に手を当て、唇を尖らせる幸松は、あどけなく可愛らしい。 

 しかしそんな息子の受け答えにイラっときたらしく、母親は手を伸ばして幸松の頭を強引に下げさせた。


「まあ、そのあたりで」

 勝千代は、父によく似た幸松が叱られているのが忍びなく、口元をほころばせながら言った。

「お気になさらず」

 ちょいちょいと手招くと、不貞腐れた表情をしていた幸松の面がぱっと明るくなる。

 立ち上がってこちらに来ようとして、母親に着物の首のところを捕まれ阻まれる。それでもなお前に進もうとする威勢のよさというか、物おじのなさというか……結局最後は四つん這いのまま這い寄ろうとして、後ろから母親に押さえ込まれてしまった。

「この子はまだ礼儀も作法もわかっておりません。どうか……」

「いいんですよ」

「ですが!」

「手を放してあげて」

 そんなに嫡男である勝千代を警戒しているのだろうか。それとも、近づけたくないと思っている?

 だが個人的には小さな子供が好きだし、仲良くできるのであれば仲良くしていきたいと思っている。兄弟だしね。


 勝千代が朗らかに笑っていると、おずおずと母親の手が離され、幸松はパパパッと小走りに駆け寄ってきた。

 そしてどうしたかというと、まだ臥所の上に半身を起こしただけの勝千代の懐目掛けて、勢いよくダイブしたのだ。

 当然、受け止めきれず真後ろに転がってしまった。

「幸松!」

 母親が真っ青になって叫ぶ。

 ……そうか、普通の三、四歳児ってこういう感じなのか。改めてそう納得してしまうほど、何もかも許容できてしまう無邪気さだ。


「彦丸さま?」

 ぎゅうぎゅうとしがみつかれ、そのひと回りほど大きな背中を撫でた。

「違うよ」

 期待を込めて見上げられ、否定すると、なおもじっと見つめられた。

「……彦丸さまより小さいです」

「そうか」

 やはり自分は小柄なのか……双子の兄よりも。

 ちょっと凹んだが、こればっかりは仕方がない。将来に期待しよう。

「勝千代だ。幸松の兄だよ」

「彦丸さまも兄だと仰いました」

「そうだね。私たちは同じ日に、同じ母親から生まれたんだ。だから顔も声も似ているんじゃないかな?」

 勝千代は弥太郎に、幸松は土井に抱え起こされた。

「叔父上から干菓子を頂いたんだ。食べる?」

 子供はお菓子で釣るのが一番。そう思って尋ねると、目がキラキラと輝く。

 ちらちら母親の方を見るのは、叱られるとわかっているからだろうが、お菓子の魅力には勝てなかったようだ。

「包んであげるから、母上殿と一緒にお食べ」

「はい!」


 母親の名前は葉というらしい。

 下にまだ妹がいるらしい。

 とりとめもない幼い子供のおしゃべりに、勝千代はただうんうんと頷きながら耳を傾けた。

 兄彦丸についても色々と聞いた。兄はよく福島屋敷に遊びにきていて、幸松ら弟妹と虫取りをしたり、魚釣りをしたり、子供らしい遊びをたくさんしたようだ。

 兄の短い人生が、今川館での閉塞したつらいものだけではなかったと知り、少しは救われた気がした。


「ご不調のところ本当にご迷惑を……」

 お葉殿がきつめの顔を申し訳なさそうにしながら頭を下げる。

 喋りつかれた幸松は、勝千代の膝に顔をうずめるようにして眠ってしまっていた。

「いいえ」

 勝千代は幸松の背中を撫でながら、見た目は怖いが悪い人ではなさそうだ、と彼女を一応の味方にカテゴライズした。

「幸松殿はとても良い子です」

 親しみを込めてそう言うと、お葉殿の表情も緩む。

 父の好みのタイプが、勝千代を虐待してくれた桂殿のような女性だったらどうしようと心配してたが、駿府の屋敷にはちゃんとした人がいてくれて本当によかった。

「父が不在の間、何事もありませんでしたか?」

 たとえば、兵庫介とかその関係者とか。

 あの人も福島家の人間だから、駿府へ来た時にはこの屋敷に滞在することもあったはずだ。

 父が駿府へ到着したことを素早く今川館に伝えた者の事も気になる。

「……いいえ」

 あきらかな逡巡。

 これは何かあるなと思ったが、初対面の、幸松とさほど変わらぬ年頃の幼子に言える事でもないのだろう。

「何かあるのでしたら、父か誰かにそう伝えたほうがいいです。この屋敷には幸松もさち(幸松の妹)もいます。何かがあってからでは遅い」

 お葉殿ははっとしたように勝千代をみて、しばらくしてはっきりと首を上下させた。

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福島勝千代一代記
「冬嵐記3」
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― 新着の感想 ―
[一言] あ、ここの幸松の妹ちゃんの名前に「さち」ってふりがな入ってますね。春雷記239話の雪さんとの会話でこっちまで遡ってみました。
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