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それは、地震ほどの長さの振動で、正殿の広間でも天井からパラパラ埃のようなものが落ちてくるほどの揺れだった。
何事だとざわめく周囲に対し、勝千代は目を閉じながら、いいタイミングだ……と、段蔵たちの仕事の的確さに感心する。
万が一の時には、重たい父を抱えて今川館を脱出しなければならいと覚悟していた。
数人がかりだろうし、時間もかかるだろうから、可能な限り最大級の、目くらましになるものを考えた。
脱出の時間を稼いでくれる何か。人の目がそちらに集まり、勝千代たちのことなど頭から吹き飛んでしまうような何かだ。
一応は味方なので、人的被害は出ないよう配慮はした。
だが、それ以外の面では一切遠慮はしなかった。
忠義者の父を地下牢に入れたのだから、少しは痛い目をみるがいい。
タイミング良く刺客が来てくれたので、「これ」も連中の仕業だと思ってくれるだろう。
幼い勝千代が避難することに、誰も異を唱えないだろうし、なかなかいい匙加減じゃないか?
「東側の建屋が燃えております!」
駆け込んできた兵がそう告げ、周囲の大人たちが刀を手に一斉に動き始める。
この時代の建物は、もちろん木造建築。しかも今は乾燥した冬である。誰もがその危険性を理解していた。
ほんの小さな火の粉でも、主殿に燃え移ってしまえば被害は甚大なものになるだろう。
だがしかし安心してくれ。
池と水路を挟んだ向こう側を選んで着火させた。油も使わなかったし、夜間人がいない建物でもある。
最悪回廊の屋根を壊してしまえば、こちらまで飛び火はないはずだ。
もちろん急な風向きの変化があった場合はその限りではないが。
火をつけて地響きはしないだろうって?
いやいや、木造の建物はとかく火に弱いのだ。柱が燃え尽きてしまえば、重さのある屋根を支え切れずに倒壊する。
地響きがするほどの倒壊が起きるまで知らせが来なかったということは、思惑通り初期消火できなかったのだろう。
かなり派手に燃え上がっているはず。
「……父上」
擬音で字幕を入れるとすれば「わんわん」あるいは「おんおん」と号泣していた父が、勝千代の細い声に反応して顔を寄せてくる。
「お勝ぅぅぅぅ!」
いやそれはもういいです。
やめてください。揺すらないでください。首がもげます。
「苦しいか? 痛むのか?」
「……ちちうえ」
涙でべとべとの髭面を見上げる。
汚い。
誰が見てもそう表現できるほど、涙と鼻水で髭がすごい事になっている。
「……かえりたいです」
「わかった!」
ごくごく細い、頼りない勝千代の言葉を拾い上げ、父は任せろとばかりに頷いた。
その逞しい、どっしりとした巨躯を見上げて、生きているのだ、無事だったのだ……と、改めて強く安堵する。
「今すぐ帰るぞ! 任せておけ!!」
耳元で叫ばれて、引きつった顔をしたのは勝千代だけではない。勝千代を抱きかかえている興津もだ。
「二木! 二木はどこだ!!」
だから、声が大きすぎるんだって!
強すぎる突風にあおられるように目を伏せて、苦笑交じりのため息をつく。
どこからか様子を伺っていたのだろう。
あり得ない素早さで二木が広間の前まで来た。
そこより先に入ることはできないのか、入り口の敷居の所で片膝をつく。
勝千代は興津の腕から、無事父の腕へと渡された。
これまでの感謝を込めて見上げると、にこりと満面の笑み、ふくふくしい笑顔を返される。
父は興津に「世話になった」と、ものすごく感情のこもった礼を言い、立ち上がる。
そしてそのまま踵を返し、出口の方へ進もうとする。
え、ちょっと待って。御屋形様ここにいるんだけど、あいさつしなくていいの?
他の者たちは避難あるいは消火活動の為に忙しなく動いている。その中でも、御屋形様の側を通るときには丁寧に一礼していく。
それなのに父は会釈どころか、一瞥もくれなかった。
若干困惑気味に御屋形様を見ると、苦笑しながら首を左右に振られた。
ああ、そうか。ご自覚なさっているんだ。
父の怒りの理由はまっとうなものだ。策略に気づかれてしまえば強い反発にあうのはわかっていたのだろう。
ある意味御屋形様は父を守ろうとしていて、時丸君一派の勢力を削ぐ戦いに巻き込まないよう配慮して下さったのかもしれない。
だが結果として、一時的にせよ汚名を負ったのは確かだし、勝千代と志郎衛門叔父は負傷した。
これから先は、お互いの落としどころを探りながらの話し合いになるのだろう。
それにまあ……しっかりやり返させてもらったしね。
「火の手が激しいです! ご避難を!」
慌ただしい声が方々からしていて、御屋形様は軽く手を上げて勝千代に笑みを向けてから背中を向けた。
父の非礼を咎めず、去っていくその先は、すでに別の出入り口から去ろうとしている御台さまたちの元だ。
じっと見送っていると、龍王丸君と目が合った。
御台様によく似た面立ちの若君は、勝千代が己の父親に瓜二つな事に気づいたのだろう。
大きく目を見開き、こちらを指さして何かを言おうとしていたが、御台さまが視界を遮ったので見えなくなった。




