18-8
気を失っていたのがどれぐらいかはわからない。
思いっきり前後に揺すられて、挙句にはパンパンと頬を叩かれて、何とか意識が浮上してくる。
首筋が熱い。
血の匂いがする。
おぼろな視界に、真っ赤な何かが映る。
ここまで意識が戻ってきて初めて、わあわあと野太い怒声がそこかしこに飛び交っているのがわかった。
「よし! 意識はあるな!」
志郎衛門叔父だ。
叔父は素手で勝千代の首を掴んでいて、ゴルゴ顔をなお一層暗殺者のようにしていた。
一瞬、そのまま絞め殺されるのかと思ったが、しばらくして叔父は手を放し、傷口を覗き込んだ。
「深くない、出血も止まってきた。大丈夫だ」
ぼんやり見上げている叔父の腕が真っ赤だ。
首を切られてそんなに血が出ているなら、致命傷じゃないか。
「江坂さまも御手当てを。替わりましょう」
違った。自分の血じゃなかった。
叔父の直垂の袖口がバッサリ切り裂かれていて、むき出しの腕からどぷどぷと鮮血がしたたり落ちている。
急所を狙ってきたあの刃を、代わりに受けたのだろうか。
「待て。毒か何かを塗られているぞ。腕が痺れてきた」
それを聞いた興津の丸顔が、至近距離に寄ってくる。
「聞こえていますか? 息がしづらいとか、苦しいとか、ありますか?」
喉を抑えられているから息が上手に吸えないのだと思っていたが、違うのか。
ああ、肺に息が入っていかない。
だがしかし、体内に入った毒はごく少量だったのかもしれない。気管がぎゅうと詰まってくる感じはするものの、まったく息が吸えないわけではない。
せっせと息を吸って吐くというお仕事をこなしていると、傍らに誰かが膝をついたのが分かった。
白い寝衣に赤い羽織り……まさか御屋形様か? よく見えないが。
「匙を呼んだ。すぐに楽になる」
その医者が毒匙でなければいいのだが。
浅い呼吸を繰り返し、意識が朦朧としている態で血縁上の父親をじっと見上げる。
次第にはっきり見えるようになったその容貌は、病気だからか顔色が悪く、肌艶も良くない。
そして見れば見るほど、一度だけ鏡で見た勝千代の顔立ちとよく似ていた。
まるで同じ鋳型を使って作り上げた、生まれる年代だけを違えた双子のようだ。
兄彦丸がこのレベルで似ていたのだとすると、なるほど、目障りに感じる者は多そうだ。
「ちちうえ! そこはあぶのうございます!」
一段高い位置にある上座で、桃源院様と御台様が大勢の武士たちに守られるようにしてひとかたまりになっているのが見えた。
側付きのひとりに抱きかかえられた龍王丸殿が、こちらを見ながら大きな声を張り上げている。
父親が心配なのだろう。本来であれば、微笑ましいと感じる事だ。
「龍王丸殿、見てはなりませぬ。目が穢れます」
殺気立ってはいるものの、落ち着きを取り戻しはじめた大広間で、御台様のその言葉はやけにはっきりと響いた。
穢れか。
確かに、昔から血液は穢れと言われていた。
感染のことなどを考えると、安易に他人の血に触れるべきではないのは確か。
勝千代は冷静にそんな風に感じていたが、落ち着きを取り戻した広間に、再びざわりと良くない空気が漂う。
意外なのが、近くにある御屋形様の顔に、一瞬だが苛立たし気なものがよぎったことだ。
「奥に部屋を用意させる。運んでやれ」
あ、これはまずいヤツ。
勝千代はぼんやりしていた頭をさっと引き締めた。どうすればこの申し出を角を立てずに辞退できるだろうか。
今川館に留め置かれるなど、これまで以上に身の危険を感じるし、なにより、父に対する人質になりかねない。
「おそれながら申し上げます」
志郎衛門叔父だ。
「勝千代殿は福島家に養子に入った者です。連れ帰ります」
やけに言い方が険しい。
「この状態で動かすのか?」
「御台さまがお気になさいます」
周囲には伏せるつもりはないが、上座までは届かない音量だ。
御屋形様はちらりと自身の正室の方を見た。
「……福島屋敷も安全とは言えぬだろう」
勝千代はなかなか動かない手を上げた。
敵味方を判断するのは本当に難しい。
だがしかし、今川館にずっと居続けるのは明らかに分が悪い。
ここは叔父を信頼してみよう、そんな風に考え……
「お勝!」
正直に言おう。
真っ先に頭によぎったのは、「うっ」という引き気味の感嘆符だ。
「お勝ぅぅぅ!!」
聞き間違い? いや、そんなわけはない。
ちょっと気が遠くなりそうになりながら、回廊の方を見ると、脳内で想像していた通りの人物がそこに立っていた。
ざっと見たところ怪我などはない。ボロボロの勝千代よりも、身なりも体調もずっと良さそうだ。
父はどかどかどかと荒い足音を立てながら駆け寄ってきて、ガバリとその場に四つん這いになった。
「血が! 血がああああああっ!!」
本来は真っ先に御屋形様に挨拶するべきだし、そういうことをおろそかにする父ではない。
しかし、鼓膜への暴力ともいうべき大音声でそう叫び、ただでさえぐったりしていた勝千代に、追い打ちでダメージを与える。
「お勝ぅぅぅぅっ!!!」
伸びてきた巨大な両手が、そっと掬うように勝千代の血まみれの頬を包んだ。
「死なんでくれぇぇぇぇっ」
至近距離で聞かされた絶叫は、もはや物理的な暴力だ。
台風級の突風に吹き付けられた気分で遠くを見る。
ああ、うん。こうなると思っていた。
ボロボロとこぼれた涙が髭面を濡らしている。
真っ赤な目が、すがりつくように勝千代を見ている。
むしろ父上の大声がつらいです……とは言い出せず、勝千代は達観の思いを飲み込んで、淡い笑みを唇に浮かべた。
ドドドン! と地響きのような物音がしたのはそんな時だ。




