~六十五の巻~ 恋心
『恋とは、摩訶不思議なものでござります。』
不意に、笹野の声が脳裏に甦ってきた・・・。
◇◇◇◇
笹野と二人、いつもの様に布団に入ってから他愛もない話を止め処なくしておったある夜、話題は女子なら誰しも大好きな其の話題に自然となっていった。
私にはまだ誰かを好きになるという気持ちがよく解らぬ。
既に風矢という歳の離れた許婚がおる笹野は、其のせいか、年齢以上に落ち着いており、私より遥かに“女人”だった。
私が、恋とは如何なる気持ちなのかと尋ねると、笹野は一瞬迷うてから其の様に申したのだった。
『恋をすると、今別れたばかりの其の御方に、直ぐに又お会いしたくなりまする。』
『恋をすると、其の御方の事ばかり頭に浮かび、他の事を考えるのが嫌になりまする。』
『恋をすると、毎日がとても楽しくて、とても幸せで、そしてとても不安になりまする。』
『不安に?』
『不安になるの?』
『何故?幸せなのに?』
私は、益々解らないと更に尋ねると、
『はい、恋をすると常に幸福と不安が背中合わせでござります。』
会えぬ時は、
(今あの御方はどこで何をしておられるのだろう?)
(危険な目に遭うてはおられぬだろうか?)
(もしや今この瞬間にも、他の美しい女人と出会うてしまわれてはおらぬだろうか?)
『等々、斯様なつまらぬ事ばかり、次から次へと頭を過り、不安で不安で堪らなくなりまする。』
愚かでござりましょう?と自嘲気味に笑うた笹野の顔は、私の知る笹野の顔とは明らかに違う女人の顔だった・・・。
あの折は、
(そういうものなの?)
とただ漠然と思うただけだったが・・・、
セイにしがみつくだけしがみつきながら、私がぼんやり其の様な事を思い出しておると、
『・・ま、・・ま、たま!』
頭上で私を呼ぶセイの声に意識を引き戻され、己のはしたなき振る舞いに急に我に返った。
『全くお前は・・・、直ぐにこれ故、目が離せぬのだ。』
セイが呆れ声で其の様に申すのに私はたいそう慌てて、
『なっ、どうせ私はぼんやりしておりまする!』
急いでセイの胸に手をつき体を離そうとすると、
其の腕を取られて、
そして・・・、
『チュッ!』
何が起こったのか一瞬理解出来なかった。
(えっ?)
(えっ、えっ、えーっ!!)
私は、はっとして唇に手をやると、途端に顔から湯気が出そうな程、かぁと火照るのを感じた。
『な、な、な・・・!』
其れ以上の言葉が出てこずにセイを見上げると、まるで悪戯が成功した子供の様に口角をあげ、にやにやと面白そうに私の顔を見ておる。
『初めてか?』
(はっ?)
『初めてかと訊いておる。』
私が最早此れ以上ない程、茹でた蛸の様に真っ赤になって、
『な、な、なに、もう・・して・・・!』
と逃げようとすれば、
『答えよ、私が初めてか?』
答える迄逃がさぬとばかりに腕を掴み、顔を覗き込んでくる。
『は、離して。』
私は恥ずかしくて、セイの顔をまともに見られぬまま、必死に腕から逃れようとしたが、逆に其の腕の中に捕らわれてしまうた。
『答える迄このままぞ。』
と意地悪く申してくるセイに、
私は下を向いたまま、こくりと頷いた。
すると、
『そうか!私もだ!』
セイは嬉しそうにそう申して、私を更にぎゅっと抱き締めた。
『えっ?』
セイの胸に顔を埋めて、顔を見られまいと隠しておった私は、思わず顔を上げてしまうた。
『セイ・・も?』
『ああ、ずっとお前にこうしたいと思うておった。』
其の様な事を其の様に爽やかな笑顔で告げられて、
(もう駄目・・・、)
私は顔を両手で隠して、ずるずると其の場にへたり込んでしまうたのだった・・・。




