七話
「なんでだよぉー……」
馬の上で、だらりと項垂れたタルトがぼやいた。
「運が悪かったな。このタイミングで、愛馬の妊娠が発覚するなんて」
「他の馬借りればいいじゃないか……」
「ただでさえ火急のときなんだ。馬も矢も、いくらあっても足りないこの状況で、わざわざお前に軍用の替え馬を与えるような意味はないんだろ」
騎馬に使えるような軍馬は、遊牧民にとっても貴重である。無論、替えが不足しているわけではないのだが、手練れの戦士の馬が使えなくなった際に乗る事も考えれば、わざわざひよっこのタルトにそれを割くような無駄はできないという事だ。
今現在タルトが乗っているのは、騎馬よりも早馬向きの、スリムな馬だった。
ちなみに、ここまで走り通しだった仙太郎とエルミスも、忠吉とペリコクラダとは別の馬に跨っているが、こちらはれっきとした軍馬である。二人は民の護衛として、十分な量の矢と、三頭の軍馬を与えられている。
「くっそぉ……」
もう一度、悔しそうにぼやくタルト。
仙太郎とタルト、そしてエルミスが先導し、青空の平原を、多数の遊牧民たちが移動していた。荷物を背負った、ノノと呼ばれるずんぐりとした大きな家畜が、のそのそと移動する傍ら、馬に跨って移動する遊牧民たち。子供や馬に乗れないような老人たちは、馬車に乗って移動している。さらに、その遊牧民たちに連れられた羊などの家畜の姿もあって、三千人という数からは想像もできない程の大規模な集団となっていた。
そんな大集団の先頭で、憤懣やるかたないと愚痴るタルトと、ぼんやりと周囲を警戒する仙太郎の二人が話していた。
「まぁ、移動するみんなの護衛ってのも、一族の命運を託された、重大任務だ。そう腐るな」
「んな言葉じゃ、騙されねーっての。俺はもう、ガキじゃねーんだよ……」
いや、ガキだろうと言いかけて、口を噤む仙太郎。ここで、ただでさえ不機嫌なタルトの神経を、逆撫でするような発言を慎む程度には、仙太郎も分別が身に付いているようである。
「あーあ……。せっかくの活躍の場が……。手柄をあげるチャンスが……」
「手柄なんて、そんなに大事かね……」
仙太郎は呆れ混じりに呟く。
遊牧民の男性は、成人とともに戦士としての訓練を課せられる。だが、当然ながら兵士だけでは食っていけない。たいていのゾル族の男性は、主に畜産をする傍ら、兵士としての訓練をうけている兼業の兵士だ。常備軍ではない。無論、放牧ではない本業を持つ者や、戦士ではない者もいるが、それは少数である。
それを知る仙太郎は、本業に欠片も役立たない手柄なんかを、そうまでして求める心理というものが、理解できない。その辺は、海洋民族兼農耕民族である、日本人的感覚が色濃いのだろう。
遊牧民とは基本的に、民族皆戦士なのだ。
「そりゃあ、手柄を立てれば褒賞がもらえるだろうが、そんなの雀の涙だろ? コツコツ本業に励んだ方が、あぶく銭を求めるより、いいと思うんだけどな?」
「なに言ってんだ、センタロウ!? 褒賞なんて、どうでもいいんだよ!! 大事なのは名誉だ!」
「名誉ぉ?」
気色ばんで告げるタルトの言葉に、仙太郎は鼻白む。
名誉の為に、命を懸ける。なるほど、耳障りのいい言葉だ。だがそれは、耳触りがいいだけの、ただの言葉だ。タルトには、妻も子供もいる。そんな、かけがえのない家族を残して戦場に赴き、その身を危険に晒すというのは、なんとも無責任ではないか。
こんな子供に責任を説くのもどうかと思う仙太郎だが、タルトは遊牧民の間では、既に成人男性。成人しているというのなら、自らの行動には責任を持つべきだ。
そんなに簡単に死ぬつもりなら、初めから妻など持つな。子供など作るな。
仙太郎はついつい口をつきそうになる言葉を、やや苦労して飲み込んだ。
「旦那様?」
「なんでもない。大丈夫だよ」
心配して声をかけてきたエルミスに、微笑んで答える仙太郎。なおも心配そうに夫を窺うエルミスの視線を感じつつ、仙太郎は一つため息を吐く。
自分でも言った通り、今現在遊牧民は存亡の危機といってもいい状況だ。こんなときに、妻子を持った男たちが、全員臆病風に吹かれたとしたら、それこそパニックだ。仙太郎が最初に予想した通り、逃げ惑う住民たちが右往左往し、混乱が混乱を呼び、これ程スムーズな移動は不可能だっただろう。
そうならなかったのは、偏に遊牧民たちの気風によるところが大きい。男は質実剛健。女は夫唱婦随。なんとも男女差別的な思想だが、男はその分、自分たちが女を守るという使命感を持っているし、女は、一族の男なら、絶対に自分たちを守ってくれると絶対の信頼を寄せている。
だからこそ、この非常時にあって彼等は目立った混乱すらなく、迅速に一族をあげて大規模な移動ができたのである。
つまり、そういった仙太郎の感覚とは乖離した思想も、一定の存在価値があるという事は認めなければならない。少なくとも、他民族や魔物の脅威に晒されている遊牧民にとっては、必要なものであると。
「おいセンタロウ!」
「なんだよ?」
「なんだよじゃねーよ。俺の話、聞いてんのか!?」
「ああ、悪い。聞いてなかった」
「んだとテメェ!?」
軽くあしらわれたタルトが食ってかかるが、当の仙太郎は、面倒臭そうに視線を明後日の方向へと飛ばす。
結局、こういう価値観の違いは、どうしたって残るものだ。なにせ、生きてきた時代も、歴史も、世界まで違う。それで、同じ価値観を求める方が、この場合は間違いだ。
だからこそ、価値観が違うという事を念頭に、折り合いをつけていかなければならない。
「俺としては、お前がこっちに回されたのは幸運だったと思ってるぞ? たった二人でこの大集団を護衛しなくて済んで、ホッとしているところだ。頼りにしてるぞ、タルト」
「ふ、ふん! 護衛なんて、なにもない方が優秀なんだ。なにかあったら警戒不足! 手が足りなくなった時点で、お前が悪いんだ!」
やや照れたように捲し立てるタルト。
「そうだな。でも、もしそうなったときの備えは、あってしかるべきだろ?」
「ま、まぁ、そうだな。じゃあ、せいぜい俺を頼りにしろよ!」
「ああ、頼りにしてるよ。それに、こっちの方がお前にもよかっただろ?」
「は? どういう意味だよ?」
「後ろにいる奥さんに、いいところを見せてやれ」
「なッ!?」
照れ隠しでやや赤くなっていたタルトの頰が、仙太郎の一言で一気に紅潮する。成人とともに結婚したタルトには、三歳年上の姉さん女房がいる。仙太郎から見れば、その姉さん女房ですら子供なのだが、それはもういいだろう。
この二人の夫婦が、とにかく甘い。砂糖どころか、その三倍は甘いと言われる人工甘味料よりも、さらに甘いのだ。それこそ、一族中に知れ渡る程には。
「か、勘違いしてんじゃねーよ! お、俺は別に、奥の事なんてっ!!」
「でも、出発前に、俺に頼んできただろ? 奥さんをよろしくって!」
「だ、だからあれはっ!!」
「それは、まことにございますかっ!?」
仙太郎とタルトの会話に割り込んでくる、鈴を鳴らしたような可愛らしい声。そこにいたのは、旅装に身を包んだせいで体のラインはわからないものの、背の低い女の子だった。小柄な少女が跨るのは、農耕に適した、体格の良すぎる巨躯の葦毛馬。
ローブのような旅装では、こちらから確認できるのは彼女の顔くらいだが、そもそも彼女が何者であるかは問うまでもない。遊牧民特有の小麦色の肌に、金の髪。端正な愛らしい童顔を紅潮させ、嬉しそうに笑う少女。彼女こそ、タルトの妻、ラピスだった。
「センタロウ殿! 今のお話は、まことにございますかっ!?」
なおも繰り返すラピス。
「ああ、本当だ。戦支度でてんやわんやのさなかに、わざわざ俺のところに足を運んでな。自分も忙しかったろうに」
「まぁっ!」
「違っ! あれは、お前に自慢してやろうとっ! 奥の事は、そのついでだっ!!」
「ああ、わかってるさ。そういう建前で、奥さんの事を俺に頼みにきたんだろ?」
「なッ!? ち、ちっち、違——――」
「まぁまぁまぁっ!」
赤い顔で焦るタルトと、同じように顔を赤くして、頰に手を添え身悶えるラピス。
「だ、だいたい、なにしにきたんだよ、ラピスはッ!?」
「無論、旦那様の様子を伺いに」
「ガキじゃねーんだから、いちいち見にくるなよ!」
「ええ、ええ。勿論存じておりますとも。しかし、愛する旦那様が近くにいるとわかっていてなお、じっとしていられなかったのです。お腹は減っておりませんか? 怪我などは?」
「だから! そういうのをガキ扱いって言ってんだ! だいたい、フォティはどうした!?」
フォティというのは、タルトとラピスの愛の結晶。つまりは、愛娘の事である。
「ババ様が、この母から取り上げて構っております。抱き癖がつくと苦言を述べているのですが、初孫ですから……」
「あのババァ……」
子供の抱き癖か……。なんだか、そんな発言がでると、途端に二人が大人に思えてしまう仙太郎。
「私のように子を産んで間もない者は、あてがわれる仕事も少なく、暇を持て余しているのです」
あれ? と首を傾げる仙太郎。ラピスがフォティを生んだのは、もう一年近く前だ。子を生んで間もない、と言っていいのだろうか? 疑問に思った仙太郎だが、誰に聞く事もなく、まぁいいかと聞き流して、なおも続く夫婦喧嘩を傍観する。この光景が、夫婦喧嘩に見えるか夫婦円満に見えるかは人それぞれだろうが……。
「だからって、仕事の邪魔しにくるなよ!」
「邪魔だなんてっ! ラピスはただ、旦那様が勇猛に馬を駆る姿を、この目に入れたかっただけにございますっ!」
「ゆ、勇猛……?」
「ええ、勿論! 格好いいですよ、旦那様っ!」
「そ、そうか?」
鎧姿で馬に跨るタルトの姿は、格好いいというよりも可愛い部類だと思う仙太郎。岩手県名物、チャグチャグ馬コのようだ。まぁ、あれは着飾るのは馬の方なのだが……。
なんにせよ、イチャつくおしどり夫婦にあてられてはたまらんと、馬の速度を落として距離をあける仙太郎。途中、すれ違うラピスの口から「ああ、可愛い……」という台詞が聞こえた気がするが、タルトの為に空耳という事にしておこう。
タルトとラピスの夫婦から距離をとり、エルミスと並んだ仙太郎。二人の間に流れるのは、やや気まずい沈黙だった。仙太郎としては、エルミスの再三にわたる子作りの催促をスルーしている手前、少々バツが悪い。エルミスとしては、自分と仙太郎の夫婦関係が、タルトとラピスのような甘ったるいものでなくてよかったと思いつつ、やはり少しの羨望を持ってその光景を眺めていた。
「エルミス……」
「はい、なんでしょう、旦那様?」
仙太郎がおずおずと声を掛けると、エルミスはいつもの笑顔で応える。
「俺と――――」
「センタロウ!! 魔物だッ!!」
タルトの声にそちらを見れば、進行方向を指さす姿があった。その指の先、緑の草原に点々と影。仙太郎でも、気配を感じ取れないような遠方にある影は、注視すればそれが巨体の狼である事がわかる。
「グレイハティだな……」
「よっしゃ! 俺が先行して――――」
「いや、俺が行く」
そう言って、仙太郎は慣れない馬に拍車をかける。
「おい、センタロウ!!」
「お前とエルミスは、集団の周囲を警戒していろ!!」
「警戒って言っても……」
不満そうなタルトは、周囲を見回す。背の低い草が生えた草原は見晴らしがよく、近付いてくる獣が他にいない事は、一目でわかる。だからこそ、雑談に興じる余裕まであり、あれ程離れた魔物も、早期に発見できたのだから。
仙太郎がタルトを残したのは、単純にその実力に信頼が置けないからである。絶対に、仙太郎かエルミスのどちらかと一緒でなければ、危なっかしくて戦いに参加させられない。おまけに、仙太郎からすれば、やはりタルトは子供なのだ。
危ない橋は渡らせたくないのだ。
「そろそろいいか…………」
灰色の大狼にある程度近付いた仙太郎は、どこからともなく巨大な弓を取り出す。一射目はあっさりと、音もなく空を切り、一頭の頭を射抜く。その矢が到達するまでに、仙太郎は二の矢、三の矢を放っていた。
「キャン!」「ギャウ!」
さらに二頭の狼を射抜いた矢だが、一頭は首を貫いたものの、もう一頭は矢を回避した拍子に脚に命中するだけにとどまった。無論、動きの鈍った大狼を射抜く事は、それ程難しくはない。あっさりとその狼も仕留めた仙太郎だったが、難しい表情を浮かべて獲物を見る。
こちらに気付いた狼たちは、一斉に仙太郎目がけて駆けてくる。それ等に向けて矢を放つ仙太郎だが、流石に真正面から矢を放つだけでは避けられてしまう。相手がこちらに気付いていなければ、いくらでも仕留められる自信がある仙太郎だが、こちらに気付かれた状態で、これ程までに距離のある状況では、必中は難しい。
なので仙太郎は、矢を二本手に持ち、まずは一射――――当然避けられるが、それこそが仙太郎の狙いである。そこへ、もう一本の矢を素早く番えた仙太郎が、二射目を放つ。回避の途中だった狼は、向かってくる矢を睨みつけながら、額を射抜かれる。空中にいたせいで、踏ん張る事も、身を翻す事もできなかったのだ。
それからも、一射目を囮に、二射目で避ける狼を、次々と射抜いていく。無論、都合よく跳びあがる狼ばかりではないが、正面から向かってくる矢を回避する方向は、ある程度決まっている。狼がどこに避けるかを確認してから素早く矢を射れば、避ける余裕はほぼない。
十頭近くいた大狼だが、仙太郎のところまで辿り着けた狼はいなかった。




