十五話
遊牧民たちの元へととぼとぼ歩きで戻ってきた仙太郎は、その心の内とは正反対ともいえるような、明るい歓声に出迎えられた。
彼等からすれば、今まさに危機から脱したのだから、その立役者である仙太郎を讃え、凱旋を祝福するのは当然の行いだった。しかし、当の仙太郎から見れば、それは自分の怪物性を皆が目の当たりにしたという事であり、ともすれば一層落ち込んでしまいそうですらあった。
ただ、遊牧民たちの先頭で待つ一人の姿に、仙太郎は人知れず安堵の息を吐いた。
離れていたのは僅かな時間であり、先程雰囲気を出して別れたにしては、実にあっさりと再会できたわけだが、それでも妻の無事な姿に安心する仙太郎。
「お帰りなさいまし。無事のご帰還、大変嬉しく思います……」
「ああ、ただいま」
馬上で再会の挨拶を交わした夫婦。慈母のような優しい笑みを湛えるエルミスと、やや照れたように視線を逸らす仙太郎。そんな二人に、周囲は一層の歓声で祝福を送る。
老人や子供が多い集団だが、その次に女も多い。歓声は自然と黄色いものも含んでいたのだが、仙太郎とエルミスの仲睦まじい姿に、秋波を送っていた者はやっかみ混じりの祝福をぶつけていた。
「…………」
「……まぁ、なんだ……」
心底嬉しいと、言葉にせずとも伝わるエルミスの笑顔を直視できず、仙太郎は目をそらしたまま、たどたどしく言葉を紡ぐ。
「エルミスも、無事でよかった」
「はい。旦那様のおかげで、エルミスは無事です。タルト殿から窺ったのですが、朧月銀狼を倒されたとか。誠ですか?」
「ああ、たぶんな。体毛は銀色だったし、他の大狼よりも大きかった。なにより、姿を消すって能力は伝説の通りだ。おそらく間違いないだろうが、俺は専門家じゃないからな。断言はできない」
「左様ですか……。私も、おそらくは間違い無いだろうとは思いますが……」
腑に落ちないといった表情を浮かべるエルミス。その顔に、仙太郎は首を傾げる。
「なにか気になる事でもあるのか?」
「……はい、少々……」
そう言って口籠もったエルミスが、さらにしばし考えてから、意を決したように口を開く。
「朧月銀狼がここにいるのに、どうして父上たちの方が大きな群れだったのでしょうか?」
「……なるほどな……。そりゃ、たしかに気がかりだ……」
エルミスの言葉に、仙太郎も大きく頷いた。
朧月銀狼は、間違いなく伝説級の魔物だ。驕りでなく、仙太郎が相手でなかったら、遊牧民たちでは太刀打ちできなかっただろう。あるいは戦士団なら勝てるかも知れないが、その場合も、多くの犠牲を覚悟しなくてはならない。
だというのに、そんな伝説の魔物が率いる群れが約二千で、別の群れが約五千だ。
普通に考えれば、群れの本隊は群れのボスが率いるのが常である。本隊より倍も多い別働隊など、もはや意味不明である。むしろ、そちらが本隊で、こちらが別働隊だという考えの方が信憑性がある。
しかし、こちらの群れに朧月銀狼がいたのは事実だ。この動かしがたい事実に、仙太郎もエルミスも揃って首を傾げているのであった。
「まぁ、俺たちだけで考えても仕方ない。今から主だった者を集めて、今後の方針を決めよう」
「そうですね……。状況が変化した以上、このまま当初の目的地に向かうのが得策とは限りません」
「そういう小難しい事は、年長者に決めてもらおうぜ。幸い、知恵袋には事欠かねえ状況だしな」
そう言って、仙太郎は観衆の老人たちを見やる。ここにいるのは、馬に乗れる老人ばかりだ。つまり、皆矍鑠としており、耄碌などという言葉には程遠い面々である。彼等の知識と経験から下される判断であれば、仙太郎という若造が一人で判断するよりも、正しいものの見方ができるだろう。
「とはいえ、エルミスはその会議、欠席だけどな」
「え?」
仙太郎の言葉に虚を突かれたエルミスが、呆気にとられた表情を浮かべる。
「約束だ。俺が先に寝たら、次はエルミスの番」
「ああ、そういえば……」
そんな約束をしたのが、随分と前の事に思える。不安と安堵の応酬という濃密な感情の動きは、エルミスの心に、数時間前の事をまるで一日前の事のように錯覚させるだけのものをもたらしていた。
「しかし、旦那様も十分に休息がとれたとは言い難く、またたった今戦から戻られたばかり。休まれるべきは、やはり旦那様ではありませんか?」
「しかし、二人が睡眠をとる時間を捻出する余裕は、俺たちにはない。タルトだけに会議を任せるわけにもいかない。であれば、一度休息をとった俺よりも、エルミスが優先だ。約束だしな」
「……。そうですね……。仕方がありません。約束ですし……」
そう言って、渋々頷くエルミス。
夫の体は心配だが、たしかに少々無理をしている自覚はあった。いざというときに自分が戦えなければ、この集団は一気に危機に陥るのだ。仙太郎の言に、この場合は覆し難い理がある。
エルミスが首を縦に振った事に安堵した仙太郎は、そうとなれば善は急げとばかりにエルミスを促す。
「時間がない。俺とタルトは、長老たちを集めて会議を開くから、エルミスはちゃんと休んでろよ? 寝れなくても、横になるんだぞ?」
「はい」
「体を冷やさないようにな」
「かしこまりました」
「あとは……あー……」
「旦那様? エルミスは子供ではありませんよ?」
「……。そうだな」
そう言って、ちょっとばかりお節介が過ぎたと照れる仙太郎。頰を掻きながら、明後日の方を向く不器用な姿に、エルミスは微笑んで馬首を翻す。
「では旦那様、お言葉に甘え、エルミスは休んで参ります」
「ああ」
こうして、不器用な夫婦の再会は、特に感動的なやりとりもなく、しかし当人たちは満足しつつ、再び別れる事となった。周囲の遊牧民たちから見れば、タルト夫妻程でなくとも、もう少しなにかあるだろうと言いたいところであったが、それでも口を出す者はいない。夫婦のあり方にまで口を出すのは、遊牧民の風習では行き過ぎた干渉だからだ。
「よしッ」
エルミスの背を見送った仙太郎は、気合いを入れ直して前を向く。果たしてそちらが、本当に前なのかを知らぬままに。
●○●
「つまり、千五百の大狼を常に警戒するのは無理だと、そういうわけじゃな?」
「そうだ。相手が野生動物だけならば、例え千五百頭が犇めいている場所だろうと、俺とエルミスとタルトの三人に加え、弓を引ける者が何人かいれば対処は可能だろう。少数の魔物であっても同じだ。だが、流石に千五百の大狼が確実にいる地域を抜けるには、今の戦力じゃ全然足りない。俺一人でカバーできる範囲には、限りがある。それはわかるだろ?」
仮設された天幕の中、数人の老人と仙太郎とタルトが角を付き合わせて会議を設けていた。
「たしかにのぅ……。女子供を危険に晒すのは、得策ではなかろうて……」
「しかし、センタロウ殿がいれば、大狼程度はどうとでもなるのではないか?」
「大狼を舐めたら、痛い目にあうぞい。やつ等は狡猾じゃて。センタロウを引きつけつつ、多方向から攻められれば、対処は間に合わん。儂も、もう十年若ければのぅ……」
「たしかにの。儂も、昔はもっと強い弓が引けたのだが……。歳は取りたくないもんだのぅ……」
どうやら彼等の意見は、仙太郎のものと概ね同じらしい。そこでさらに、仙太郎は付け加える。
「それと、朧月銀狼の事もある。あれがいた事、あれが率いていた群れが二千程度であった事、戦士団が対峙してるのが五千もの大群である事。すべてがおかしい」
「……ふむ……。なるほど、の」
「パテラス坊たちが対峙してるのが囮なら、そう問題もあるまい。しかし……」
「そうでなかった場合……」
そこで言葉を区切ると、誰もが次の声を出せずに、重苦しい沈黙が場を支配する。だがそこで、仙太郎は軽い調子で口を開く。
「そんなわけで、俺としては、このまま今朝出発した場所まで戻る事を提案する。このまま当初の目的地に向かうのは危険であり、また戦士団たちも危険かもしれない。こんな状況で、無理に前に進むのは無謀だ」
その言葉に、老人たちはそれぞれ頷く。仙太郎の意見は尤もだ。一つ問題があるとすれば、既にかなりの距離を踏破し、時間、体力、食料を浪費してしまった事だ。戦士団と合流を遂げたあと、再び移転をするのには、それなりの時間と用意が必要になるだろう。
「このまま進めば、少なくとも目的地にはたどり着けるであろうな……」
一人の老人が、そう述べる。その声音には、鬱々とした色が窺えた。
「じゃが、その為には幾人かの犠牲を、覚悟せねばなるまい……」
「その犠牲が、我等老人である保証はないぞい」
「かといって、五千の群れが確実にいる方に向かうのも、危険がないわけではない」
「子は宝ぞ。我等一族の繁栄になくてはならん、子共等の命を危険に晒してなんの退避か!?」
紛糾する老人たちを後目に、言うべき事は言ったと黙る仙太郎。まるで我関せずとでも言いたげな雰囲気だが、別に興味がないわけではない。
団体競技に身を置いてきた仙太郎にとって、最善の策を全員で考える事には慣れている。最善だと思える意見をだしたあとは、方針決定は監督やキャプテンに任せる。例え自分の意見が取り入れられなかったところで、その決定に従い全力を尽くす。自分が全力をだし、チームメイトも全力を尽くせば、それがチームワークである。
向いている方向がバラバラにならなければ、チームはその時々の最高の成果が期待できるというものだ。
とはいえ、彼等の意見は概ね出揃ったようである。
「で、どうすんだ?」
「戻ろうぞ。ひよっこどもだけでは、心許ないしの」
「そうじゃのぅ。頼りない姿を見せるようならば、儂が代わりに戦ってやろうぞ!」
「ひょひょひょ。それはそれで、面白そうじゃのぅ」
「……そうか」
安堵の息を吐く仙太郎。仙太郎は勿論、彼等長老の意見に異を唱えるつもりはなかった。自分がだした意見が却下されても、それに従うつもりはあった。
仙太郎がだした意見も、嘘偽りなく本心だ。だがそれでも、そこに一抹の私情が混じっていた。
エルミスが、まるで父親の事を口にしない事。
きっと心配だろう。だというのに気丈に、毅然と振る舞うエルミスの心情を慮れば、その私情を抜きにものを考えるなど、不可能である。だからこそ仙太郎は、最後の判断を他者に任せたのだ。冷静な判断が降せる自信が、なかったのだ。
だが、どうやら仙太郎の希望通り、戦士団とは合流できそうである。
この大氾濫にダンタリオンの干渉があった可能性がある以上、仙太郎は自分が矢面に立とうと決意を新たにしていた。
「五千の群れ、だけだったらいいんだがな……」




