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ハーレムコンプライアンス  作者: 日曜
一章 大氾濫
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十四話

 推定数百キログラムの巨体が、宙を舞う。銀色の毛並みがキラキラと太陽の光を反射し、光の線を残して数メートル進み、思い出したかのように重力に引かれて地面へと向かう。空中で蓄えた運動エネルギーは、地面に接触すると同時に、その暴威を振るう。地響きが轟き、激しい振動が大地を揺らし、地面は捲れ、舞い上がった土砂は、黒い雨となって降り注ぐ。

 仙太郎は拳を振り抜いた姿勢のまま、その様子を見つめていた。仙太郎だけではない。いまや大狼たちも、固唾を飲んで、一人と一頭の化け物の動向を注視していた。

 やがて、地響きと振動が治まり、さらにしばし時を経て土煙も薄れていく。そこには、小さなクレーターと化した地面の中心に横たわる、朧月銀狼シルバームーンハティ。先程までの躍動感はそこにはなく、微動だにせず、ただただ太陽の光を反射して佇んでいた。

 沈黙。

 周囲に、痛い程の沈黙が降り注いだ。まるで風さえも止まってしまったかのように、世界は音をなくした。

 そう、音がしないのである。大狼たちの足音すらも。仙太郎が止めにかかった、大狼の大群の行進は、その目論見通り止まっている。全ての大狼が足を止め、仙太郎と朧月銀狼シルバームーンハティの動向を探っている。

 足音どころか、鳴き声や唸り声の類も聞こえない。まるで、仙太郎に聞きとがめられてはたまらんとでも思っているのか、息遣いすら潜められている。


「……ふぅ……」


 ようやく拳を下ろし、体勢を整えた仙太郎が吐いたため息が、やけに大きく響く。仙太郎に隙ができても、朧月銀狼シルバームーンハティに動きはない。起き上がりもしなければ、消えもしない。微動だにせず、倒れ伏している。

 しゅらりと音が響き、仙太郎が帯刀していた三日月刀シャムシールを抜き放っても、変化はない。


「……——シッ!!」


 再び爆発的な踏み込みで距離を詰めた仙太郎が、朧月銀狼シルバームーンハティの首をめがけて、その鈍色の刃を振るう。

 ——ずぶりという手応え。間違いなく、その肉を切り裂いた感触を手に覚え、仙太郎はようやく警戒を解く。


「どうやら、さっきので死んでたみたいだな……」


 必要のないとどめだったと、仙太郎は血のついた三日月刀を血振りしながら呟く。仙太郎も、この世界にきて約三年である。獲物にとどめを刺す事の必要性は重々承知しているのだが、それでも過剰な攻撃で朧月銀狼シルバームーンハティの亡骸を損壊させた事に、幾ばくかの罪悪感を感じていた。

 その白銀の体毛に触れ、一撫でした仙太郎は、巨大な朧月銀狼シルバームーンハティの死体を〝ストレージ〟へ収める。——と、同時に、それまで沈黙に包まれていたはずの平原に、軽い地響きと『ドドド』という音が響き始めた。

 仙太郎が目を向ければ、多くの大狼たちが三々五々、文字通り算を乱して逃走を始めていた。それはもう、一目散という言葉がぴったりな遁走であった。

 誰がどう見ても、そこに〝群れ〟という統率はない。力で彼等を統率してきた朧月銀狼シルバームーンハティが倒された事により、彼等はその影響下から解き放たれたのである。


「よかった……。全部倒さなくてすみそうだな……」


 これでなお、大狼の群れが遊牧民を狙うようなら、仙太郎は残り千五百頭あまりの大狼を駆除しなくてはならなかった。魔力切れが目前の今、一頭一頭撲殺していくのは、実に気の滅入る作業だった。……不可能ではないが……。

 千を超える魔物の大群は脅威だが、この広い平原に千五百程度の魔物が点在する程度であれば、脅威度は格段に下がる。無論、平原が魔物の領域にならないように、いずれは駆除しなくてはならないが、それは騒動が一段落してからでいい。

 遊牧民たちの年若い戦士たちの、いい的となるだろうと、仙太郎はどうでも良さそうに考えた。


 安堵した仙太郎は、一つ大きなため息を吐くと、地面に膝をつき、がっくりと肩を落とした。


「ああ……。……俺、マジでバケモンじゃねぇか……」


 さっきから自称している事ではあるが、それはあくまで自虐や自嘲の類であった。しかしこうして、伝説の魔物を拳の一撃で倒してしまうという怪物性を発揮してしまった仙太郎は、冗談が冗談にならない現実に、打ちひしがれていた。

 そんな折、仙太郎の頭の中に無機質で機械的な声が響く。


『仙太郎のレベルが、二十二に上がりました』

「うるさいッ!!」


 仙太郎の怒声が響き渡り、既に遠く離れていた大狼たちの逃走速度が、一段上がる。しかし、そんな事はつゆ知らず、仙太郎は落ち込み続けていた。


「二十二……」


 仙太郎が繰り返した数字は、つまりまた、仙太郎が人間という存在を踏み外した宣言である。これで仙太郎は、二十二段も人間から怪物への階段を登ってしまったのである。

 なにより、今回大量の大狼と伝説級の魔物を倒してしまったせいで、二十にとどめていたレベルが、一気に二も上がってしまったのだ。これが、落ち込まずにいれようか。


《レベル》


 全ては、やはりダンタリオンが仙太郎に授けた、この恩恵が原因である。

 ダンタリオンの言う通り、この《レベル》という恩恵は、本来ここまで劇的な効果を発揮する恩恵ではない。その者の本来の能力をある程度数値化し、魔物を倒す度に経験値という名の値を高め、一定のポイントに達したらレベルを上げ、元の能力値の数パーセント分、成長という名目で上乗せするのがこの恩恵だった。無論、レベルを高めていけばその分、能力の伸び代も大きくなるのだが、最初の方はゲームと同じように、大きな変化はない。

 事実、これまでこの世界に送られた日本人の多くが、仙太郎レベルの戦闘能力を持っていたかというと、答えは明確な否である。つまりこれは、恩恵を授けたダンタリオンにとっても、想定外の事態だったのだ。

仙太郎は、たしかに特筆する程運動能力が高かったわけではない。全国レベルでは上の下から上の中レベルだし、大人や他のスポーツも含めたアスリート界で数えるなら、下位に属す程度のものだ。


 しかし、東城仙太郎は、れっきとしたアスリートなのだ。


 その身体能力は、普段から特に体を鍛えていない一般人とは一線を画す。腕力も、足の速さも、持久力も、ただの帰宅部とは比べるのも馬鹿馬鹿しい程に。

 仙太郎にとって一時間のランニングという運動は、毎朝行なっている程度の、体を温め汗をかく為のものだ。軽いものとは言えないが、それでもランニングのあとに疲労困憊するようなものでもない。事実、仙太郎は毎朝のランニングのあと、部活の朝練にでているのだから。

 だが、それまでなんの運動もしてこなかった人間が、一時間という長時間走り続ければどうなるか、言うまでもないだろう。

ダンタリオンにとって十把一絡げであろうと、人間には明確に差があるのだ。その差こそ、仙太郎を常軌を逸した化け物にしてしまっていた。


「あ? おいコラ、なにやってんだテメェ等?」


 ふとそこで、仙太郎の目に容認しがたいものが飛び込んでくる。

 仙太郎から逃げる大狼の一部が、事もあろうに遊牧民の方へとその鼻先を向けて逃げているのだ。仙太郎がなんの為に、使いたくもない魔法を使い、心底毛嫌いしている化け物性を発揮したと思っているのか。

 仙太郎は〝蔵〟から、愛用の長弓を取り出す。二十人張りの強弓は、仙太郎が矢を番えると、キリキリという耳心地のいい音色を奏でる。

 仙太郎は息を止めると、目標に狙いを定める。耳たぶを打つ心臓の音の間隔が、段々と大きくなっていく。世界がゆっくりと回り、大狼の一歩はあくびがでそうな程ゆっくりと踏み出される。音は遠くなり、世界には仙太郎と目標だけが残る。

 目標の大狼が、地を蹴る瞬間――仙太郎が矢を放った。


「――ッ!!」


 鋭く息を吐き、仙太郎は次の矢を番える。放つ。もう一矢番え、放ったところで、最初に放った矢が先頭を駆けていた大狼の頭を捉えた。同時に、世界が元の早さを取り戻す。

 第二矢も命中したところで、遊牧民の方へと向かっていた大狼たちは、進行方向を変えて逃げ惑う。残念ながら三矢目は外れてしまったが、なおも遊牧民の方へと逃げようとした大狼に矢を打ち込むと、いよいよその大狼の群れは進行方向を変え、狼でありながら脱兎のように逃げていった。


「……ふぅ……」


 仙太郎がため息を吐く。そこには、先程あったような暗い色はない。あるのは一種の達成感と、満足感だけだ。仙太郎が浮かべている表情も、まるで三併殺を決めたかのような、晴れ晴れとしたものだった。


「やっぱり、弓はいいな」


 そう言って、仙太郎は左手の長弓を見つめる。ゾル族秘伝のこの弓は、しかし仙太郎が現れるまでは、誰もまともに引く事もできなかった強弓だ。この世界にきて約三年、仙太郎はこの弓を扱う為、弛まぬ努力を注いできた。

 なぜなら、弓術こそ仙太郎に残された、最後の人間らしい戦闘手段なのだから。

 たしかに仙太郎の使っている弓は、常人には引く事のできない強弓だ。これを引けるその力は、やはり《レベル》の恩恵によるものといえる。

 しかし、それでもった矢が対物ライフル並みの威力になる事もなければ、音速を超えるような速さを持つ事もない。目標を追尾したりもできなければ、一度に射れる矢の数はひとつきりで、当然外れる事だってある。仙太郎の持つその弓が、いかに優れた強弓であろうと、流石に三百メートルも離れた場所に矢を届けるのは至難の技であり、三百五十メートル先に届かせようと思えば、弓がもたない。

 仙太郎の肩を考えれば、いっそ足元にある石でも拾って投げた方が、威力も高く、射程も広い。長年野球に心血を注いできた仙太郎にとっては、そちらの方が有効な戦い方といえるかもしれない。


 だが、それでは駄目なのだ。


 望まぬ化け物性を手にしてしまった仙太郎にとって、純粋に技術のみで勝負できるという事は、この上なく喜ばしい事だ。弓と矢という道具を用い、技術を磨き、その技能のみで敵と相対する。その、なんとも人間らしい戦闘方法は、仙太郎にとって一種の逃避であり、安らぎでもあった。

 仙太郎にとって弓術と馬術こそ、この世界に送られてから、自らの手で培い、手に入れた唯一のものだと思っている。非凡な魔法の数々よりも、常軌を逸した化け物性よりも、仙太郎は自分で努力して手に入れた技術であるこの二つを、なによりも信頼している。

 与えられただけの恩恵は、いかに自由自在に操れようとも、仙太郎にとって自分のものという感覚は薄い。そのような不確かで不安定なものに頼るより、拙くも自分で培ったものの方が、遥かに信頼が置ける。そう思っているからこそ、仙太郎は土壇場まで魔法や直接戦闘という手段を取らないのである。


「はぁ…………」


 しかしそれでも、やはり人間のできる事には限界がある。

 極力ダンタリオンの思惑に乗りたくない仙太郎だが、こうまで不可避の危機を演出されては、その脚本に乗らざるを得ない。脚本通り、ヤツの手の平の上で踊り、魔法を使い、伝説の魔物と戦い、レベルを二十二にまで上げてしまった。

そもそもこの二年、仙太郎は弓術と馬術の修練に明け暮れ、遊牧民の世話になりながらも、目標達成の為にほとんどアクションを起こしていないのだ。今回の大氾濫は、いわばダンタリオンからの矢の催促だったといえる。


「迷惑、かけちまったなぁ……」


 仙太郎がこの平原で長らく暮らしてしまったばかりに、世話になった遊牧民たちに迷惑をかけてしまった。その事に、仙太郎は酷く落ち込んでいた。無論、仙太郎の第一目標が地球への帰還である以上、いつまでも安穏としているつもりはなく、また、その為に王国のベルク子爵領に向かったわけであるが、それでも居心地がよかったのは事実だった。

 そんな、世話になった遊牧民たちの生活を、仙太郎が危機に晒してしまった。


「やっぱり、予定通り活動拠点を王国に移した方がよさそうだな……」


 王国であれば、情報は集まりやすい。少々気は進まないが、魔法や仙太郎の戦闘能力があれば、ある程度深い情報を手に入れる地盤は手に入るだろう。なんなら、朧月銀狼シルバームーンハティの死体を使ったっていい。


「——って、そこまで狙ってじゃ、ねーだろうな……」


 自分で口にした可能性の高さに、心底辟易とした仙太郎が、吐き捨てるように呟いた。


「クソ化け物が……ッ」


 ●○●


「…………」


 悍ましき魔物の群れを、絶望的な眼差しで見守っていたタルト。しかし今は、喜ぶ事すら忘れて別の思いで魔物の群れを見つめていた。否。そこにいるのは、既に魔物の群れではない。バラバラになって逃げ惑う、獲物になってしまった哀れな肉食獣である。

 弱者の作法すら心得ていない、その無様な遁走劇は、しかし誰に邪魔される事もなく、タルトの目の前で繰り広げられている。

 不可避に思えた絶望との邂逅は、果たして一人の戦士によって、退けられた。

 その事を、タルトは未だ信じられず、馬上で呆然と後方を眺めている。背後の勝利に気付いた遊牧民たちが、歓声を上げるに至っても、心ここに在らずのタルトに、声をかける一人と一頭の影があった。


「タルト殿、どうしました?」


 エルミスである。


「……エルミス。いや……」


 声をかけられ、そちらを振り向いたタルトは、なにかを言いかけてから口を噤み、再び後方に視線をやる。既に方々に散ってしまった大狼たちは、遠方にちらほらと見える程度。だが、タルトの視線の先には、一つの影がある。いうまでもなく、仙太郎だ。


「なぁ、エルミス……?」

「はい、なんでしょうか?」


 タルトはそこで、先程聞けなかった事を、エルミスに問う。


「センタロウって、なんなんんだ……?」

「なんだと問われましても……。私の夫で、我等がゾル族の客人ですが?」


 タルトの声音に、やや不穏なものを感じたエルミスが、釘を刺す。しかし、茫然自失のタルトは、エルミスのその言外の意図に気付かず、言葉を続けてしまう。


「だって、あんなのもう、人間業じゃねーだろッ!?」


 タルトが先程目にしたのは、空を飛び、大地を崩落させ、水の鞭を操り、炎の柱を発生させて戦う仙太郎の姿だ。それだけならまだしも、事もあろうに仙太郎は、あの伝説の朧月銀狼シルバームーンハティと相対し、素手で——どころか一撃で倒してしまったのだ。

 仙太郎があっさり勝利を収めたあの魔物は、場合によっては都市一つを滅ぼしかねないような、世にも恐ろしい怪物だったのだ。

 信じられないというタルトの言葉も、なに一つおかしなものではない。

 しかし——


「タルト殿……」


 タルトの言葉を受けたエルミスは、その声を一段低くして忠告する。


「旦那様の前で、同じ言葉を吐かないと、ここにお誓いください。でなければ、二度と旦那様に関わらないでください」


 あまりに強い言葉に、流石にタルトもハッとエルミスの顔を見返す。


「仙太郎が、誰の為に戦ったと思っているのですか?我々の為でしょう!?もしそのような恥知らずな言葉を、事もあろうに旦那様に聞かれる事があれば、我等ゾル族は永代後ろ指を指される事となりましょう!恩知らずという誹りに、なんの反論ができるでしょうか!」

「ご、ごめんっ、そんなつもりじゃ——」

「また、仙太郎の妻としても、到底看過できるものではありません。もし次があれば、私はあなたを討ちます!」

「わ、わかった。肝に銘じる」

「お願いします」


 タルトにそう言ったエルミスは、やはり仙太郎へと視線を向ける。その胸中には、やはりタルトに対する怒りが渦巻いていた。自分と同じく、仙太郎に助けられた身でありながら、あのような事を言うなど信じられないと。

 なにより、仙太郎に『人間業じゃない』『人間離れしている』『人知を超えている』などという表現は、厳禁なのだ。夫は、そういった言葉に、ひどく心を痛める。それも、態度に出さず傷付くから、周囲は褒めてるつもりでも、仙太郎はどんどん心労を重ねてしまうという事が、往々にしてある。

 だからこそエルミスは、タルトに強い言葉で忠告をしたのである。


 しかし、エルミスのその言葉に籠められた思いは、少々筋違いであった。この感覚の違いこそ、仙太郎とエルミスのすれ違いの原因なのだが、当の二人はまだ、それを知らない。

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