十一話
「た、倒すって! そんなのできるわけねーだろっ!?」
仙太郎の言葉に、焦って言い募るタルト。仙太郎はそれに答えず、ただまっすぐ大狼の群れの方を見ていた。
「エルミス。万が一俺が負けたときは、みんなを頼む」
「……はい」
「今から引き返せば、今日の夜中までには今朝出発した場所までは戻れる。そこからは、族長たち戦士団に守ってもらえ」
時刻は昼をやや過ぎた頃。今から引き返すという事は、これまで稼いできた時間と体力を無駄にする事になる。だが、それでもここから別の場所に向かうよりは、時間もかからない。向こうの群れに出会う可能性はあるだろうが、このまま目の前の群れに呑まれるよりはマシだろう。
水場や牧草地の心配も、今朝まで使っていた場所なので問題ない。既定の目的地や、別の牧草地を目指すよりは、生存の可能性は高いはずだと仙太郎は判断して、エルミスに託したのである。
仙太郎が負けるという事は、あの群れがまっすぐ民たちに向かってくるという事だ。そうなれば、エルミスとタルトの二人では、とても民たちを守りきれれない。だからこそ、仙太郎がいなければ、戦士団と合流するより他にない。
「……。……はい」
物言いたげなエルミスは、しかし言葉を呑み込んで頷いた。不安に崩れそうになる表情を引き締め、毅然としたエルミスの応答に、仙太郎は優しく微笑む。
エルミスは知っている。
自分の夫が、万夫不当の傑物である事を。神に愛され、天に祝福され、まるで御遣いがごとくこの世にもたらされた、希望である事を。
エルミスは信じている。
いずれ夫は、世界を救う英雄になる。幼き頃、寝物語に聞かされた、数多の英雄たちが誰一人――否、束になってもかなわない、世界を負って立つ唯一無二であると。
しかし――いざ仙太郎が危機に立ち向かおうとしているとき、エルミスの胸に飛来するのは、渇望した英雄の登場に対する歓喜ではない。
不安と後悔。
あのような魔物の群れへ、たった一人で立ち向かわねばならない夫。その道に、自分は帯同する事ができない。どう考えても、自分では足手纏いだ。無邪気に夫の活躍を願っていた自分は、なんと愚かだったのだろう。
誰にもできない事を成すという事は、その傍らには、誰も立てないという事ではないか。英雄となる夫の未来に馳せた思いは、なんとも身勝手で、独りよがりだった。
「……どうか……」
言葉を紡ぐ。
「……どうか、ご無事で……」
そこに込められた思いは、自己嫌悪でも不安でもなく、ただひたすら、仙太郎を心配する思い。無事で、どうか無事でと、ただそれだけの願いを込めた、妻の言葉。受け取る夫は、ぎこちなく笑顔を浮かべる。
「ああ」
それだけだった。
妻の気持ちに気付いていないわけではない。しかし仙太郎には、その思いに応えるだけの能力がない。答える言葉を、持たない。
しばし見つめ合った二人は、やがて視線を外し、前を見る。それぞれの前を。仙太郎はじっと戦場を眺めると、馬を走らせ――ようとした。
「…………」
「…………」
ふいに、背中に感じる温かさが、仙太郎の動きを止めた。背後から微かに香る、エルミスの匂い。温かく、小さな感触。沈黙が二人を包む。
触れ合っている場所は、ほんの僅かだった。仙太郎からは見えないが、おそらくエルミスが仙太郎の革鎧に触れている。エルミスが、引き止めたい思いに駆られ、つい伸ばしてしまった手。それが、鎧に触れている。
引き止めたい。しかし、ここで引き止めては、仙太郎の決意に水を差す。夫は民の為、そして自分の為に、戦場に赴こうとしている。それを引き止めては、ゾル族の女として面目が立たない。なにより、エルミスの思い描く理想の妻からは、程遠い姿だ。とても、夫に見せられたものではない。葛藤の末が、戦場に赴こうとする夫の鎧に、そっと触れるという行為だった。
勿論、矢をも通さない革鎧越しの感触が、仙太郎に伝わるはずはない。エルミスも、気付いて欲しかったわけではない。しかし仙太郎は、たしかにエルミスの温もりを感じていた。
「……。行ってくる」
「はい。御武運を……」
ほんの少しの沈黙が二人を包んだのち、最後にそう言った二人は、今度こそ別の方を向いて駆け出した。
●○●
一定のリズムで蹄を鳴らし、駆ける馬。その背に揺られる仙太郎の視線の先には、千を越える大狼の群れが犇いている。しかし、仙太郎の思考は、目の前の群れではなく、別のところにあった。それは――――
「――は、恥ずい……ッ」
先刻のエルミスとのやり取りに、赤面する仙太郎。
エルミスの想いは、たしかに感じ取った。それは仙太郎にとって、本当に嬉しく、また愛しいものだ。だが仙太郎には、それに応えるだけの、恋愛経験がないのである。
東城仙太郎、年齢=彼女いない歴。
それに加えて、東城仙太郎は愚かしいまでに草食男子なのである。熱い想い、強い思いを、言葉や態度にして示す事が、生来苦手なのだ。ぶっきらぼうでドライなのは、なにも格好をつけているわけではない。単に、不器用なのである。
「……でも……」
しかし、そんな朴念仁を絵に描いたような唐変木である仙太郎にも、流石にあのエルミスの想いは感じ取れた。触れられていた革鎧の背中には、今も温かな感触が残っている気がする。あるいは、その想いがまだ、その場所に宿っているのかもしれない。
久しぶりに漲る気力と、全身が沸騰するような感覚。だが、頭の中はむしろ冴え冴えとしており、まるで清廉な小川のせせらぎのように澄んでいた。
これは、あれだな……。試合前の、昂りに似てるな……。
自らの経験から、そう定義する仙太郎。試合当日の朝に感じる、不安と期待が綯交ぜとなった、高揚感。それを思い出した仙太郎は、大狼の群れから視線を外し空を仰ぐと、大きく息を吐く。風に嬲られ、火照った頬から熱が抜けていく感触を楽しむと、気持ちを落ち着けて再び前を見る。
今は、目の前にいる敵を、なんとしても退けなければならない。馬蹄の音が響くたびに、少しずつ、少しずつ近付いてくる、大狼の群れ。仙太郎もそちらに向かって駆けているとはいえ、向こうの群れの足も相当に速い。
「ようやく、群れの全貌が見えてきたか」
土煙を上げて近付いてくる、魔物の大群。その数は、仙太郎がざっと見た感じでは、約二千といったところか。パテラスたちが戦っているはずの群れより小規模ではあるが、十分に大氾濫規模の魔物の群れである。
「ったく、どうなってんだか……――っとッ!」
突然馬が嘶き、その足を止める。どうやら、迫る群れに恐れをなして、立ち竦んでしまったようだ。
「やれやれ……。もうちょっといけるかと思ったんだけどな……」
仙太郎の愛馬忠吉は、今はペリコクラダと一緒に世話をされ、昨日の強行軍の疲れを癒している最中である。忠吉であれば、恐らくこのままあの大群に突っ込もうとも、仙太郎と一緒に戦ってくれただろう。だが、今仙太郎が跨っているのは、今日会ったばかりの軍馬だ。とてもではないが、一緒に死地に赴いてくれるだけの信頼関係はない。
「ま、仕方ない……」
始めから、この馬であの群れに突っ込もうとは思っていなかった仙太郎は、あっさりとその背から降りると、その尻を叩く。駆け出した馬は、一目散に魔物の群れから逃れ、遊牧民たちの集団へと戻っていく。取り残された仙太郎は、その見事な逃げ足に苦笑する。
広い平原にただ一人、ぽつんと佇む仙太郎。迫るは、二千の魔物の群れ。一対二千という、絶望的な数の差に、しかし仙太郎は怯まない。
「さて……。じゃあ、とくと見てろよ化け物ども。本物の化け物がどういうものか、教えてやる」
仙太郎は、駆け出した。
●○●
「お、おい! エルミス!」
「どうしました?」
撤退の準備を始めたエルミスとタルト。きた道を引き返すという事に、多少の反対がないでもなかったが、それでも迫ってくる魔物の群れを見てなお、進もうとする者はいなかった。戦力が足りない以上、撤退以外の選択肢がなかったので、すぐに行動に移れたのは僥倖だったが、パテラスがいない事で多少の混乱はあった。
しかし、一度意思決定を行えば、彼等の行動は早い。すぐさまきた道を引き返し始める、家畜と遊牧民の集団。その撤退作業の中、詰問するようなタルトの声が、エルミスへと投げかけられた。
「どうしましたじゃねーだろ! なんで、センタロウを一人で行かせたんだよっ!?」
タルトから見れば、仙太郎の行いは無謀の一言に尽きた。たった一人、幾千の魔物の群れに突撃するという行いに、どのような意味も見出せなかったのだ。たしかに、普通に考えれば自殺と同義。たった一人では、殿としてすら有意義な働きは期待できない。
「旦那様がそう決断したからです。戦士の覚悟に水を差すは、女の矜持にもとります」
「い、いや……、そうだけどよ。それじゃあ、センタロウは……」
「無駄死にじゃないか」という言葉を、タルトは呑み込んだ。戦士としても、殿を貶めるような言葉は、とても口に出せるものではないからだ。だが、やはり仙太郎一人で突っ込んでいったところで、あの大群がどうにかできるとは思えないタルトは、逡巡してから再び口を開く。
「な、なぁ! 俺も一緒に行って、少しでも敵を引き付けられたら、センタロウの助けになれないか!? そしたら、センタロウならかなりの数と時間、敵を足止めできるだろ!? な!?」
自分にも、囮として死ぬくらいならできるのではないかと進言するタルトだが、エルミスは首を振る。ゾル族の女としてではなく、残された戦士の一人として。
「タルト殿。恐らく、タルト殿があそこに加わる事と、加わらない事に、そうさしたる違いはございません」
「そ……、うか……」
ハッキリと『いてもいなくても変わらない』と言われ、肩を落として唇を噛むタルト。自分の実力不足は理解しているつもりでも、この危機に際してなにもできないという事に、忸怩たる思いを抱えているのだ。しかし、エルミスはそんなタルトに構わず、撤退している人々を見つめながら続ける。
「それに、旦那様がこれからしようとしている事は、足止めではございませんので」
「…………?」
エルミスの言葉に、首を傾げるタルト。初陣の戦士に、先達の女戦士は、言葉少なに告げる。
「見ていればわかります」
民たちの撤退作業を見守っていたエルミスが、その言葉と同時に振り返る。視線の先には、夫が、そして敵がいる。一瞬、不安に歪みそうになった表情を気力で抑えると、エルミスは再び前を向く。
「ええ、見ていればわかります。どうして我々ゾル族が、掟を曲げてまで仙太郎を一族に取り込もうとしたのか。その理由が……」
●○●
自らの足で駆ける仙太郎。足の裏が地面を捉える感触、正面から体にぶつかってくる風の感触を楽しみつつ、仙太郎は駆ける。グングンと迫る狼たちの群れ。その速度は、先程馬に乗っていたときよりも、明らかに増している。
後ろに蹴り出した地面が抉れ、仙太郎に正面衝突された風は、背後で小さな突風を生んで被害を訴える。
尋常ならざる光景だった。とても、常人にできる所業ではない。
「さて、そろそろ射程圏内かな……」
呟く仙太郎は、走りながらその手を正面へと翳す。
仙太郎は、魔法を毛嫌いしている。その理由は基本的には、単なる意地である。ダンタリオンによってもたらされた、なんの努力も知識もなく行使できてしまう超常の力が、仙太郎は嫌いだった。これを使うたびに、あの悪魔の思い通りに踊っているような気がして、自分や仲間の身に危険が迫るまでは、決して使おうとしなかった。
しかしそれは、裏を返せば危機が迫れば使うという事である。いくら仙太郎が意地っ張りで、ダンタリオンの事を嫌っていようとも、だからといって意固地を拗らせて死ぬつもりも、仲間を見殺しにするつもりもなかった。危機を切り抜ける力があり、仲間を助けられる力があるのに、意地だけでこの恩恵を使わないという選択は、仙太郎には愚かに思えた。そして仙太郎は、愚者に甘んじる程、恥知らずではない。
そして、今も――――
「〝水竜の尾〟」
翳した腕から、陽炎のように魔力が迸る。以前はふっと消えてしまったその陽炎が、今回は形となって顕現する。無色透明の陽炎から、無色透明の水へと。一気にその質量を増した水は、仙太郎の右腕に絡みつき、振りかぶられる腕に合わせてしなる。
「そぉーれッ!!」
仙太郎の掛け声とともに、唸りを上げて振るわれる。
ゴオッという風を切り裂く音とともに振るわれた水の鞭は、しかして大狼たちの群れの鼻先――草原へと到達し、その地面を削り取る。
「チッ。やっぱ、まだ足りなかったか」
ピッチャーの放った白球であれば、仙太郎はかなり高いミート率を誇る。だが、魔法という、勝手も射程も違う道具を使っての打撃は、仙太郎本来の打率とはいかないようだ。そもそも、魔法をあまり使い慣れていないせいで、射程すら把握していないのである。
しかし、突然自分たちの眼前の地面を抉られた大狼たちは、速度こそ落とさないものの、その意識には明確に戸惑いが窺えた。仙太郎の抉った地面を飛び越え、休まずそちらに向かっていく大狼たちだが、仙太郎には、それはどこか怯えを孕んだもののように感じられた。
「……いやまぁ、どっちが本物の化け物か教えてやるとは言ったけどよ……」
本当に化け物に化け物扱いされると、傷付く仙太郎だった。
「はぁ……。化け物かぁ……」
若干気落ちしつつ、仙太郎はこれまで駆けていた足を止める。ブレーキをかけた靴底が地面を抉り、柔らかい黒土に轍を作る。
ここまでくれば、もう速度はいらない。あとは、どこまで魔力が持つかだけだが……。
そこまで考え、まぁ、なるようになるかと仙太郎は次の魔法を発動させる。
「〝風竜の翼〟」
今度は仙太郎の背中の辺りから陽炎が漂い、それが全身へとまとわりつくと、ふわりと仙太郎の体が宙に浮く。一メートル、二メートル、五メートル。どんどん地面から離れていく仙太郎を、迫る大狼たちは見上げながらも駆け続ける。
先程までの仙太郎の速度には及ぶべくもないが、それでも十分高速で空を飛ぶ仙太郎が、今一度大狼の群れへと右手を翳す。
「さて、じゃあ本格的に出鼻を挫いてやる。人の嫁に手を出すのが悪いんだからな?」
普段より饒舌な仙太郎。そのテンションが高いのは、戦いの興奮ゆえか、先程の妻とのやり取りゆえか。それは当人にもわからない以上、神のみぞ知るというものだった。
「〝土竜の踏みつけ〟」
崩落。
大狼たちのいた地面が轟音とともに崩れ落ち、五十を超える大狼たちが大地の顎門に呑み込まれる。
仙太郎の持つ六つの魔法の内、最も広範囲攻撃に適した魔法が、この〝土竜の踏みつけ〟である。とても強力な魔法なのだが、難点は魔力消費が大きい事と、射程が短く、使う際には絶対に仙太郎が攻撃範囲内にいないといけないという点だろうか。もし仙太郎に〝風竜の翼〟という飛行魔法がなければ、自爆紛いの攻撃魔法である。
「できれば、白竜の息吹と黒竜の爪は使わないで済ましたいもんだな……」
そう独り言ちた仙太郎は、次なる目標へ向けて右手を翳す。
「〝土竜の踏みつけ〟」
再び起こる崩落。その上を駆けていた大狼たちは、母なる大地という足場を失い、奈落へとその身を投げ出す。土砂に、岩礫に咀嚼され、大地へと還っていく大狼たち。しかしそれでも、彼等の足は止まらない。なにかに急き立てられるように、大狼たちの群れは走る。
地を駆ける大狼たちに、空を飛ぶ仙太郎に対する攻撃手段はなく、固まっているところを〝土竜の踏み付け〟が一網打尽にするという事が繰り返された。そんな仙太郎に対し、大狼たちはおおいに怖れ、怯えるものの、決して足を止めようとはしない。
「……どういう事だ……?」
いくらなんでも、ここまでの力の差を見せつければ、敵も逃げていくだろうと思っていた仙太郎は、疑問を口にする。大狼程頭のいい魔物なら、もうとっくに家畜や遊牧民たちを襲うのは割に合わないと、判断していなくてはおかしい。それなのに、愚直に遊牧民たちへと迫る魔物の群れ。
そもそもがおかしいのだ。
パテラスたちが群れの本体を抑えているはずなのに、そこから離れているはずの仙太郎たちの元に、これ程の大群が迫るという事自体が。五千の群れが囮で、こちらが本体という可能性も考えないではないが、そもそそも七千の群れで行動すればいい。わざわざ群れを二つに分ける意味がない。
大狼は、頭のいい魔物だ。だからこそ、その行動には一定の原理がある。だが、仙太郎の前で繰り広げられている死の行進は、その原理から著しく逸脱しているように思えた。
「まぁ、いいか……」
今考えても仕方がないと、仙太郎は慣れたように右手を翳す。
どうせ、あとから誰か頭のいいやつが、解明してくれるだろ。俺がやるべきは、遊牧民たちを守るって事だけだ。
そう結論付け、もう一度土魔法を使おうとする仙太郎。その背後に、金の双眸が迫っている事に気付かず……。




