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第7章。 『難しい決断――生か復讐か。』

港での救出作戦、そして六甲山での監視任務。

二つの作戦は静かに進み始める――はずだった。

乃亜との再会は、思わぬ緊張と微妙な火花を生み出す。

短いやり取りの中に垣間見える、それぞれの過去と立場。

しかし、月明かりの下で練られた計画は、ある一報によって一瞬で覆される。

『その男が、ここにいる――』

予想外の言葉が、仲間たちの動きを一変させる。

使命か、復讐か。

限られた時間の中で、翔は自分の選択と向き合わざるを得なくなる。

そして、再び満月の下で流れる血の匂いが近づいてくる――


天宮・翔(あまみや・しょう)  

相沢・小百合(あいざわ・さゆり)  

佐伯・健三(さえき・けんぞう)  

佐伯・乃亜(さえき・のあ)  

藤川・雅人 (ふじかわ・まさと)  

渋木・廉次郎(しぶき・れんじろう)  

渋木・命(しぶき・みこと)  

谷口・健太郎(たにぐち・けんたろう)  

神崎・隆文(かんざき・たかふみ)  

月輪教団(がちりんきょうだん)  

龍炎会(りゅうえんかい)


新開地・神戸。【相沢小百合の視点】

2016年11月7日・午前9時。


月曜日の朝、鉄橋を渡る電車の金属的な音が、栄光通りの狭い建物の間を反響し、遠くのこだまのように聞こえてきた。

せわしなく行き交う会社員たちの足音と、短い会話のざわめきの中に、半ブロック先の屋台から漂ってくる揚げ物の温め直した匂いが混じっている。

事務所の中では、朝の光が少しほこりをかぶったブラインド越しに差し込み、不規則な線を描いていた。その光は、翔さんが持ち込んだ小さなホワイトボードを照らしていた。そこには関西沿岸の走り書きや略図がびっしりと記されている。その前の机の上には、大きく広げられた地図がほとんどのスペースを占めていた。

翔さんはその地図に身を乗り出し、自分で描いた赤い印や青い円を何度もなぞっていた。黒いシャツの襟は外され、きちんと身なりを整える時間――あるいは気力――がなかったのが一目でわかる。肩がわずかに震えていたが、それは注意深く見なければ気づかないほど微かなもので…私にははっきりと見えた。

翔さんが不安の色を見せるのは珍しい。彼はいつも冷静沈着な計算家だったからだ。

私はいつも通りのカジュアルで整った服装をし、道中の朝の風で乱れた髪を下ろしたまま、腕を組んで彼を黙って見つめた。これが本当の緊張なのか、それとも何かを隠すための仮面なのか、心の中で問いながら。

「おはようございます、翔さん」

「おはよう、小百合さん。よく眠れたか? 今日は忙しくなるぞ」

「ええ…今日はその日ですね。もう何か計画はありますか?」

「まあな…もうすぐ佐伯さんが来る。そこで最終的に詰めるつもりだ」

ソファでは、アスタロトが漫画をぱらぱらとめくっていた。脚を組み、まるでこれが退屈な日常作業でしかないかのように、周囲に関心を払っていない。

その時、廊下から足音が聞こえ、数秒後にドアが開いた。

先に入ってきたのは佐伯さん。カジュアルながらも隙のない服装に、五十代らしい落ち着いた眼差しをしている。手には黒い鞄を持っていた。

その後ろには、翔さんが助力を得るために拉致してきた龍炎会の藤川雅人 が続いた。両手は縛られ、タバコの匂いが染みついたジャケットに、しわだらけの服、深いクマ、そして無精ひげが彼の荒んだ印象を際立たせていた。

「ご厚意でいただいた宿泊はどうだった?」と、翔さんが地図から視線を大きく外すことなく問いかけた。

藤川さんは皮肉げに笑った。

「見りゃわかるだろ…寒いし、湿気はひどいし、ネズミはいるし…まあ、タバコだけはくれたがな」

彼の言葉で、私の脳裏には兵庫ピアの古びた倉庫が浮かんだ。暖房もなく、錆びた金属の壁に囲まれ、空気の中には古臭い匂いが漂っている。

昨夜、酒井から戻った時に翔さんと一緒に彼を倉庫まで連れて行ったが、私は車から降りなかったため、中がどうなっているのかは知らなかった。

その後の挨拶は短く、どこか張り詰めたものだった。冗談めいた言葉の裏で、翔さんは藤川さんを警戒と切迫が入り混じった目で見ていた。藤川さんの世界では、忠誠心は自分の組の中だけに存在し、それ以外はすべて一時的な利害関係にすぎない。

私は全員にコーヒーを淹れ、机の横に腰を下ろした。翔さんが口を開いた。声は抑えられていたが、その中にどこか私情を含んでいるように感じた。

「――ついにこの日が来たようだな。俺の情報源によれば、渋木命は今夜中、午前0時前には六甲山へ移送されるらしい。目的は、ある儀式だ。それまでに救出できる機会は一度きりだ」

翔さんが情報源と口にした時、その視線は藤川さんへと向けられた。彼が拷問によってすべての情報を吐かせた相手だったからだ。

佐伯さんはうなずき、鞄を机に置きながら、藤川さんを兵庫ピアからわざわざ連れて来た理由を説明した。鍵となる情報を提供させるためだ。

そして彼は、大阪湾全域を詳細に記した地図を広げた。特に神戸から和歌山までの港湾地帯が強調されている。

翔さんは髪を手ぐしで乱し、短く息を吐いた。

「ちっ…頭の中がごちゃごちゃして、どこから手をつければいいのか分からねぇ…」

私にとって、それは聞き慣れない翔さんの弱音だった。彼と知り合ってからの短い間で、焦る彼を見たことは一度もなかった。だが今は、まるで重荷を背負い込んだ人間のように見えた。

「まずは安全なルートと危険なポイントを割り出しましょう…カメラ、警備員…とにかく避けるべき場所です」

私は藤川さんを見ながら言った。彼こそが酒井港湾地区を熟知している人物だったからだ。

彼は地図の上で指を動かしながら説明した。

固定および移動式カメラの設置場所と、それらの死角。

警備員が常に巡回している区域と、そうでない区域。

北波止町地区にある古い倉庫への横手口。ほとんど警備がいないため、侵入経路として最適。

龍炎会の構成員が必要に応じて身を隠すために使う、コンテナや貨物トラックの陰。

さらに彼は現場の状況についても説明した。湿気、早朝の薄い霧、区間によって視界が悪くなる場所。そして何より重要なのは、渋木命が囚われている倉庫の位置だった。

私は藤川さんが口にする場所を、すべて地図に素早く書き込んでいった。なぜか、時間が私たちの敵であるような感覚があった。藤川さんは後頭部をさすり、指先で机を軽く叩きながら話していた。翔さんを見ようとはせず、翔さんもまたどこか上の空だった。

アスタロトが私の肩越しに地図を覗き込み、冷たい吐息を首筋にかけた。ぞくりと、背筋が粟立つのを感じた。

「…はぁ、早く終わってくれないかな…もう退屈してきた…」

アスタロトがソファからぼそりとつぶやいた。

佐伯さんはそこで、慎重な侵入計画を提案した。藤川さんを通行許可の口実として利用する。可能な限り戦闘は避け、渋木命を人知れず救出するというものだった。私の視点からすれば、これ以上の策はなかった。

翔さんはうなずいた。しかし同時にこう付け加えた。

「いい計画だが…もしあいつらが人質の移送を控えているなら、普段よりも人員が多いはずだ。場合によっては、月輪教団のトップがそこにいるかもしれない…」

「なるほど…確かにその可能性はあるな、翔くん。では、この計画を遂行するための別案はあるのか?」

佐伯さんが尋ねる。

「正直、具体的な案はねぇ。ただ…倉庫の外で騒ぎを起こしてやればいいと思う。その混乱に紛れて俺が潜入する。もし中に教団のトップがいるなら…その場で始末する」

私は彼をじっと見つめた。想定していた答えとは違いすぎて、言葉を失った。

「それで…渋木命を救出するのは、いつのつもりですか、翔さん」

彼は何も答えなかったが、その仕草から、今回の潜入の本来の目的を完全に忘れていることが分かった。

「翔さん、はっきり言います。優先すべきは命さんの救出です。あなたの個人的な復讐じゃない」

これ以上言う必要はなかった。彼は理解していた。

ソファのアスタロトが、火花を楽しむように口元を歪めて笑った。

翔さんは空になったカップを机に置き、

「…悪い、少し外の空気を吸ってくる」

そう言って、机の引き出しからライターとタバコの箱を取り出し、部屋を出て行った。

「ごめんなさいね、佐伯さん。準備を続けてもいいですか?」

私が尋ねると、彼はうなずき、作戦の細部を説明し始めた。

「阪神高速を使えば、酒井港までの所要時間は約45〜55分だ。北波止町から入れば、藤川くんが言っていた廃倉庫に直行できるし、検問も回避できる」

「なるほど…あとは細かい部分の調整だけですね」

私が顎に手を当てながら言うと、

「その心配はいらない。車も、装備も、武器も全部、俺が手配する」

そう言って佐伯さんは、孫に話しかけるような柔らかい笑みを浮かべた。

「…そうですか。佐伯さん、一つお聞きしてもいいですか?」

「もちろんだ。何だ?」

「どうしてそこまで翔さんを助けるんですか? 高額な報酬を受け取っているわけでもないのに」

三宮で命さんの父と夕食を取った夜に、翔さんが渡した札束以外、彼が佐伯さんに渡した金はなかった。それは私が金の管理をしているからこそ分かっていた。

「ああ、そのことか…まぁ色々あってな、ははは。ただ一つ言えるのは、俺は翔くんに一生返せない借りがあるということだ」

佐伯さんは嘘をついているようには見えなかった。一瞬だけ、彼に『レジデュアル・エコー』を使って過去を覗きたくなったが、それは倫理に反すると分かっていたので、その考えは頭から追い出した。

ちょうど二人の過去について聞こうとしたその時、翔さんが事務所に戻ってきた。

アスタロトが鼻を鳴らす。

「チッ…一番いいところで…」

「話を遮って悪かったな。どうやら佐伯さんは、説教の機会を決して逃さないらしい」

先ほどより落ち着いた声で翔さんが言った。

「ははは…お前も昔は絶対に逃さなかったじゃないか、翔くん」

佐伯さんが笑いながら返す。

翔さんは机の上の地図に歩み寄り、一本のボールペンを取り、ある一点――六甲山――を突き刺すように示した。

「重要な点を一つ忘れていた…月輪教団は六甲山で儀式を行う。あの場所も押さえておく必要がある…」

その口ぶりを聞いて、私は彼の意図に薄々気づき始めたが、とりあえず続きを聞くことにした。

「この状況を踏まえて、二つの班に分かれることを提案する。一方は渋木命救出を担当し、もう一方は六甲山の様子を監視する…どうだ?」

「どうやって班を分けるつもりですか?」

説明を続けようとする彼を遮り、私はまっすぐに問いかけた。

「うーん…そうだな。六甲山に行く第一班はお前が率いる。佐伯さんと彼の部下が一人同行する。もう一方の班――酒井港に行く第二班は俺が率い、藤川と佐伯さんが連れてくる残りの二人で構成する…」

何を狙っているのか、私はすぐに察した。私を遠ざけ、自分が自由に動けるようにするためだ。

「…それは全くもって馬鹿げてます」

声が少し荒くなってしまった。

代わりに答えたのは翔さんではなく、佐伯さんだった。

「小百合さん、落ち着いてくれ…翔くんの言っていることは、必ずしも的外れじゃない」

「でも、佐伯さん…」

「小百合さん…お願いだから聞いてくれ」

翔さんが割って入る。

私は深く息を吸い、腕を組んで彼の言い分を待った。

「もし全員で酒井に向かって、それで既に人質の移送が終わっていたらどうする? 戻るのに一時間近くかかる。その間に命が殺されたらどうする?」

その理屈は恐ろしく説得力があったし、正しいとも思えた。だが同時に、それが彼の思惑を隠すための口実であることも分かっていた。

「…ここからでも最速で三十分はかかります」

私は納得できなかった。翔さんが冷静さを失い、命さんの命と自分の命を危険に晒す可能性が頭から離れなかった。

「小百合さん、そんなに心配なら、翔くんを監視するのに絶対の信頼を置いている奴を送る。その人物が誰か…翔くんももう分かっているだろう」

佐伯さんがそう言って翔さんを見ると、彼は諦めたように鼻を鳴らした。

深く息をついて、私は渋々うなずいた。

ようやく緊張が和らぐかと思った矢先、藤川さんが新たな問題を持ち出した。

「おい…知っての通り、俺は龍炎会の構成員だ。港での仕事は表向きの顔にすぎねぇ。本当は今日の午後からあの女が閉じ込められてる倉庫の見張りに入る予定だった。もし決められた時間に顔を出さなかったら、何かあったって疑われるぞ」

この時点で、計画が全て台無しになるかもしれないという苛立ちが胸に広がった。

「病欠って報告しろ…」

翔さんが前夜に没収していた携帯電話を返しながら言った。

「本気ですか? あまりにも怪しくないですか?」

私は半信半疑で問い返す。

「それ以外に方法はねぇ…この時間に港に現れたら、衝突が起きる可能性が高くなるし、周りに無関係な人間が多すぎて危険すぎる」

「……」

私は何も言わなかった。翔さんは驚くほどの強い口調で、全てに対して即座に答えを返してくる。

『あの煙草に何が入ってたんだろう…』

外で一服して戻ってきた彼は、まるで別人のようだった。

結局、藤川さんは電話をかけ、歯の痛みで熱があると嘘をついた。ラインで送られた写真には、昨日翔さんに拷問された際に殴られて割れた口元と、まだ残っている腫れが映っていた。

電話口の声は冷たく短かった。通話を切ると、全員が安堵の息をついた…ただ一人、アスタロトを除いて。彼女は何かが火をつけられたかのように、不敵な笑みを浮かべていた。

佐伯さんは逃走経路を再確認する。港からは同じ高速道路で引き返し、六甲山からは表六甲ドライブウェイを使って直接市街地へ下る。それ以外の選択肢はほとんどなかった。

「で、私は何をすればいいの?」

アスタロトが口を開く。

「ふぅ…お前はいつも好き勝手にやるだろ。好きにしろ」

翔さんが答える。

アスタロトは私の方へ歩み寄り、肩に手を置いた。

「ふふ…あの退屈な港はもう飽きたし、今回は小百合ちゃんに付き合うことにするわ」

「好きにしろ…」

翔さんは特に気にする様子もなく、鼻を鳴らすだけだった。

正直、アスタロトが私と行動を共にしたいと言い出したのは意外だった。彼女はどんな退屈な場所でも、必ず翔さんのそばにいる方を選ぶはずだからだ。

最終的に、地図のポイントを全て確認し、それぞれが自分の役割を頭に叩き込んだ。

「じゃあ…今夜は忙しくなる。少し休んでおこう。18時半にここで集合ってことでいいか?」

佐伯さんはうなずき、藤川さんを連れて穏やかに去っていった。

「小百合さん、家まで送って、それから17時半に迎えに行くが、それでいいか?」

「はい、問題ありません。じゃあ行きましょう」

私は事務所を出ながら答えた。

戸を閉める前に、まっすぐ翔さんを見た。

「翔さん、もう一度言います…もし無茶をしたら命さんを失います。失敗すれば、私たちの魂も失うことになります」

「信じろ…うまくやる」

そう答えたものの、彼は私の目を見返さなかった。代わりに、まだ事務所の中でブラインドの隙間から外を覗いているアスタロトに視線を送る。

「おい、悪魔。そこに籠もるつもりか? 行くぞ」

「先に行ってて。つまらなすぎて、ちょっと散歩してくるわ。鍵は閉めていいわよ。ドアなんて私には関係ないし」

いつもの調子で答える彼女。

鍵をかけながら、私は彼女が中で呟く声を耳にした。

「ふふふ…今夜は面白くなりそうね。どんな顔をするのか、楽しみだわ…」

「……?」

***

中央区・神戸—兵庫県警本部。【アスタロトの視点】

2016年11月7日・午後12時15分。


退屈だ。

午前の事務所での打ち合わせのあと、この静けさと温め直したコーヒーの匂いにもう耐えられなくなった。だから、ちょっとした遊びを探すことにした。

…そう、私のもう一つのおもちゃ――健太郎くんを。

『健太郎って呼ぶべき? それとも苗字で呼び続けた方がいい? ま、どうでもいいか…』

目の前にそびえる県警本部は、灰色で魂のない外観。刑務所に見せかけた何か…ってところね。正面玄関は無駄に広く、靴底と忍耐を削り取るために作られたようなコンクリートの階段。その先には自動ドアのガラスが、入ってくる哀れな連中を咀嚼するみたいに開いたり閉じたりしている。

横には、パレードみたいにきっちり整列したパトカーの列。制服組も事務方も、書類を抱えていたりコーヒー片手だったり…秋の冷たい昼下がりにはよくある光景。

中に入ってみたけど…映画みたいな刺激的な展開なんてどこにもない。がっかりだわ。

健太郎くんも、自分のデスクで特に何をするでもなく座っているだけ。想像してたよりつまらない。

「はぁ…わざわざ来たのに、からかう気にもならないわ」

そう鼻を鳴らした矢先、健太郎くんが立ち上がり、事務所を出ていった。

今日は制服じゃなく、仕立てのいいスーツ姿。神戸どころか、この地域全体の警察でもかなり上の立場だってことは見ただけで分かる。まるで選挙中の政治家みたい。

上着の下には、支給品の拳銃の膨らみがわずかに見える。

通りすがる警官も事務員も、みんなが深く敬意を込めて挨拶していく。

――大阪府警沿岸部対策課のトップ。港や湾を使って裏の荷物を動かしながら、自分の手を汚さない…そんな役職にはぴったりの男。

『この男、一体誰に尻尾を振ってるのかしら? ここじゃ彼の上なんていないように見えるけど…』

彼は外に出ると、部下たちのようにパトカーに乗ることもなく、歩き出した。足を伸ばすため…? それとも、誰かに見られたくない相手と会うため…?

私は気づかれないよう、少し距離を置いて後を追った。

下山手通からフラワーロードへと曲がる。車の騒音と、角でじゅうじゅうと音を立てる焼き鳥屋の香ばしい匂いが混ざり合う。私のエナメルの靴底が舗道を小気味よく叩きながら、人通りの多いエリアへと進んでいった。

昼の三ノ宮は人の波で溢れていた。ショーウィンドウには商品がぎっしり並び、正午の薄い陽射しの下でもネオン看板がぎらつく。店先では売り子たちが命懸けみたいに声を張り上げ、特売を叫んでいる。

健太郎くんは、まるでこの通りが自分の持ち物であるかのように歩いていた。私はハイヒールの音を響かせながら、その影のように後を追った。

やがて彼は『ヤマワ・グリル』に入った。ちょっとでも金と趣味のある人間なら誰でも知っている店だ。

濃い木目の壁に大きな窓、温かみのある照明はまるで舞台のよう。黒いベスト姿のウェイターたちは、よく訓練されたチェスの駒のように滑らかに動いている。そのうちの一人が、妙に親しげな会釈をした。私の好みじゃないわ、その距離感。

健太郎くんは窓際の席に腰を下ろし、メニューをざっと眺めてから、彼のレベルにしては控えめな注文をした――和牛ハンバーグに炒め野菜、味噌汁。

1万円のワインを頼める男が、あえて目立たない選択をする…そういう計算高さ。

私は目をくるりと回した。

彼がトイレに立った瞬間、私は動いた。

店内に入り、まるで自分の店かのようにホールを横切り、勝手に彼の席へ腰を下ろす。メニューを開く。

戻ってきた彼は、私が値段を眺めているのを見て、呆れたようにため息をついた。

私は、まるで一生彼を待っていたかのように笑顔を向ける。

「やっほ〜。ご主人様を食事に招待しないつもり? 女王様を待たせるなんて、礼儀知らずにも程があるわよ?」

甘く毒のある声で言い放つ。

彼は観念したように息をついた。

私は迷わず、メニューの中で一番高い料理――A5ランク和牛のフルコースを注文した。この機会に最高級の肉を味わいながら、ついでに健太郎くんを苛立たせる。

「汚い金で食べる料理って、どうしてこんなに美味しいのかしら…ねぇ?」

ウェイターが去ったあと、私はニヤリと笑った。私が本気で言っているのか冗談なのか…それを判断できないのが面白いのよ。

やがて料理が運ばれた。

彼の皿も美味しそうだったけど、私の肉は…脂と香りが奏でる詩みたいな一品。

彼はすぐに切り出した。

「で、何の用だ? わざわざ俺に会いに来た理由は何だ」

「冷たいのね、健太郎くん。私が会いに来ちゃダメなの?」

「お前が何の理由もなくここに来るはずがない」

「ふふ…まぁ、食べ終わってからにしましょう? 空腹の私に優しくされたいなら、その方がいいわよ」

フォークを弄びながら答えると、彼は諦めたように肩を落とした。

「退屈だったのよ……警察官ごっこの一日がどんなものか見てやろうと思ってね。署を出るあんたを見つけて、つけてみたの。意外だったわ。高級車もなし、勤務中は派手な真似もしない…あんたの散財癖は、どこに隠してるのかしら?」

私は唇の端を上げ、悪戯っぽく笑った。

彼は、自分の日常は大した動きはないと答えた。『特別な仕事』を除けば、だ。

以前は科捜研にいて、もっと事件の現場に近いところで働いていたらしい。

今のポストでは、大阪湾に出入りするすべて――神戸や堺の沿岸を含め――を監視できる立場にある。

私は身を乗り出し、彼をじっと見つめた。

「ねぇ、署にいるあんたを見てて、ふと思ったの…警察の中で、あんたは誰に従ってるの?」

健太郎くんは、その質問をかわすように、わざと食べ物でむせたふりをした。自然に見せかけていたが、少しだけ緊張が滲んでいた。

「ふふ…言わないなら、あんたの頭の中を覗いてあげてもいいのよ? 一番深くて暗いところまで…それとも、正直に教えてくれる?」

観念したように、彼は答えた。

「関西管区警察局の副局長、神崎隆文…あいつが全部の裏仕事を仕切ってる。ただし、イメージを守るために、滅多に表に出てこない」

「あら、大物じゃない。つまり、日常の業務には直接口を出さないってこと? それはそれは…ふふふ」

「お前…警察で何か企んでるのか?」

彼は私の腹の内を探ろうとした。

「今のところは何も。ただの好奇心よ…でも、私の信頼できる人間がその席に座るのも悪くないわね…」

私は意味深に笑った。

健太郎くんは冗談だと思ったらしく、そのまま食事を続けた。今はまだ、警察の土台を揺るがすタイミングじゃない。

私は二口ほど食べ、フォークを置き、まっすぐに彼を見据えた。

「今日、あんたに二つ頼みたいことがあるの」

「どうせ断れないんだろ?」

彼は諦めたように言った。

まず一つ目――今夜19時から翌朝6時まで、六甲山周辺の警察パトロールを止めさせること。

彼は表情を固くした。

「待て…今夜? つまり、月輪教団の儀式に誰もを介入させるなってことか?」

「できるか、できないかを聞いてるのよ」

「正直、既に決まってる巡回ルートや時間を変えるのは難しい。だが…巡回する人間を入れ替えることはできる。俺の信頼できる連中に差し替えるってことだ」

つまり、見て見ぬふりをする腐った警官たちのことだ。

「もし衝突が起きたら、その連中はあんたを援護する?」

「もちろんだ。ただし――お前が月輪教団や龍炎会と真っ向からやり合うつもりなら無駄だ。神崎さんの耳に入った瞬間、俺の首は飛ぶ」

「ふふふ…あんた、私よりもあのジジイが怖いのね?…まぁいいわ、その件はいずれ片付けるとして。とりあえず今夜は、あんたの連中を私服のヤクザ風にして、ナンバーもサイレンもない車で回らせてくれる? そうすれば、誰も警察だと気付かないわ」

「ちっ…今夜は部屋でウイスキーでも飲みながら満月を眺めるつもりだったのによ」

健太郎くんがため息をつく。

「ふふ、まぁまぁ…全部うまくいったら、ご褒美をあげるわ」

そう挑発すると、案の定、健太郎くんの目がギラリと光った。欲深い男は分かりやすくて助かる。

「じゃあ、話がまとまったところで…二つ目のお願いよ。今夜、私と小百合ちゃんと一緒に六甲山に来てもらうわ」

三宮でのあの夜の件があるせいか、『小百合ちゃん』の名前を聞いた瞬間、健太郎くんはわずかに身を固くした。無理もない。

だけど、何も言わずにうなずくだけだった。

「安心しなさい。まだ何も言ってないし、言うつもりもないわ…ちゃんと大人しくしてくれればね」

そう言いながら、私は彼の頭の中を軽く覗く。

「…お前、俺の心を読まないって言っただろ」

不満げに唸る声を無視して、私は微笑んだ。

指示は簡単だった。――夜20時に表六甲ドライブウェイの入口に来ること。部下たちは近くで待機し、常に連絡を取り合うこと。あとのことは私がやるから、余計な詮索は不要。

その後、健太郎くんは会計を頼んだ。金額は一万八千円。

「おい、お前の料理だけで会計の七割占めてるんだが…本気か?」

「ふふふ、それが成功の代償ってやつよ、健太郎くん」

彼は文句を言いながらも支払い、人生で一度もデートですらこんな額を使ったことがないとぼやいた。

「ふふふ…今夜お利口にしてれば、最後にご褒美をあげるかもね」

私はそう言って席を立つ。

店を出ると、時刻はすでに午後二時近く。彼は警察署へ戻り、私は翔くんのアパートへ戻ることにした。

「ふふ…いいわ、すべて計画通り」

六甲山での『健太郎くんと小百合ちゃんの再会』を思い浮かべながら、私は笑みをこぼした。

***

北野町・神戸。【天宮翔の視点】

2016年11月7日 ・午後5時30分。


エンジンは静かに唸り、太陽はすでに西へ傾き始めていた。十一月の乾いた冷たい空気が車内にも入り込み、朝は曇っていた空も今では一片の雲もなく、満月が昼間から白く鋭い光を放ちながら高く吊るされている。まるで街全体を見下ろす灯台のように。

「…なるほどな。あの野郎が今日を選んだ理由はこれか」

そう月を睨みながら呟いた。

後部座席のアスタロトは、漫画を読みながらクッキーを頬張っていて、俺の独り言など聞いていない様子だった。仮に聞こえていたとしても、どうせ茶化してきただろう。

北野町の小百合さんの家の前で車を停める。約束の時間ぴったりに玄関が開き、足取りの迷いない小百合さんが姿を現す。黒いタクティカルパンツに軽量の黒いベスト、動きを妨げないフィットしたシャツ。今回は黒い手袋に、飾りのない低い位置のポニーテール。そして真剣な眼差し。中途半端な空気を許さない日だが、それでもどこか女性らしさを纏っている。

『…こういう姿は初めて見るな。普段はもっとカジュアルなのに…これが警察だった頃の姿か』

助手席に乗り込むなり、挨拶もせずに言った。

「集中する気はできてるんでしょ?」

「今朝も言っただろ」

「何度でも言うわよ…復讐は忘れて、今日は命さんだけを考えるの。約束したでしょう」

シートベルトを整えながら、冷静に釘を刺してくる。

俺は何も返さず、シフトレバーを入れる音だけが返事になった。車は静かに動き出す。

北野の細い道を抜け、広い道へと出る。この時間になると交通量も増え始め、信号の灯りや広告看板の光が、冷たく輝く満月の光と入り混じる。まるで月に導かれているようだ。

窓を少しだけ開けると、どこか近くのパティスリーから甘い匂いが流れ込み、同時に湾岸からの潮の香りも混ざってきた。店先ではネオンが灯り始め、遠くで高架を渡る電車の音がかすかに響く。

小百合さんはそれ以上何も言わなかったが、視線はずっと前方を見据えている。俺もまた、港への侵入経路、最悪のケース…そして復讐のタイミングを頭の中で繰り返していた。

18時10分、進路を新開地近くへと取る。この辺りは空気が違う。密度のある都会の匂い。橙色の街灯が並ぶが、その光ですら、巨大に膨らんだ冷たい満月の輝きには及ばない。

事務所の前には佐伯さんが藤川と、さらに三人の人間を連れて立っていた。

そのうち二人は暗い色のスーツにネクタイ、背筋をピンと伸ばした典型的な堅物タイプ。

だが三人目――いや、彼女を見た瞬間、思わず足を止めた。

「……この人は――」

短めのボブカット、赤みを帯びた銅色の髪が夕方の光を受けて燃えるように輝く。

ヘーゼルの瞳に、明るく生き生きとした表情。

最後に見たときから、ずいぶん成長していた。

「久しぶりだな……乃亜」

車を降りながらそう声をかけると、彼女は首をかしげて笑った。

「五年ぶりだね……もう私は大人の女よ、翔……『お兄ちゃん』」

横にいた小百合さんが、その『お兄ちゃん』という一言でわずかに肩を強張らせたのが分かった。

乃亜は明らかに狙って言った。俺と小百合さんが一緒に降りてきた瞬間、その目が光ったのを見逃さなかった。

昔助け出した、まだあどけない少女とはまるで別人だ。

今回の再会は、どうやら静かに済みそうもない。

空気を変えるため、軽く咳払いをした。

「小百合さん、彼女は佐伯乃亜だ。乃亜さん、こちらは相沢小百合さん」

何年ぶりかの再会に、どう接すべきか一瞬迷った。

「はじめまして」小百合さんは軽く会釈。

「こちらこそ」乃亜は口の端だけで笑う。

「それにね、翔兄ぃ、私にそんなにかしこまる必要ないよ? 昔からの仲じゃない」

『昔からの仲』――言葉だけ聞けばいくらでも誤解を招く。

確かに知り合ってからは長いが、あの時の彼女はまだ十四になる前で、今は十九歳。俺はロリコンじゃねえ。

案の定、小百合さんは俺と乃亜を交互に見て、妙な間を置いた。

「ああ……わかった。でも誤解されるようなことは言うなよ」

アスタロトはその様子を見て、クッキーを片手に俺へ近寄り、耳元で囁く。

「かわいい子ね……面倒なことになりそうじゃない、翔くん……ふふふ」

相手にせず、小さく鼻を鳴らすだけに留めた。

事務所に入ると、テーブルの上には開け放たれたアタッシュケースが並び、中には拳銃、懐中電灯、タクティカルグローブ、携帯無線機、軽量ベストなどが揃っていた。

過剰装備ではないが、今夜の仕事には十分だ。

小百合さんが一挺の拳銃を手に取り、落ち着いた手つきでチェックし、ホルスターに収める。そして弾倉は一つだけ取った。

「それだけか?」

眉を上げ、机に整列している残りの弾倉を顎で示す。

「これで足りるわ」

「慎重に越したことはねえぞ。今回はただの尾行じゃない、衝突の可能性が高い」

「私が行くのは六甲山。港に行くのはあなたでしょ?無茶するのはそっちなんだから」

黒い手袋をきっちりと締めながら言い返してくる。

「……それでも、予備を持ってけ。万が一ってこともある」

少しだけ語気を強めた。

アスタロトは壁にもたれかかった。

「私だったら言うこと聞くけどね、小百合ちゃん…」

佐伯さんも低い声で口を挟んだ。

「装備は多い方がいい。何も起きなければそれでいい…だが、もし起きたら――その時きっと感謝することになる」

それまで黙っていた乃亜が口を開く。

「ふーん…この手の仕事はあんまり慣れてないみたいね」

小百合さんが振り向く。笑みは礼儀正しいが、目つきは鋭かった。

「経験について子供に言われる筋合いはないわ」

ノアは首を傾げ、笑みを崩さないまま机の上からマガジンを三つ、ナイフを一本、そしてタクティカルピストルを取った。

「……まあ、すぐ分かるわよ」

空気が少し重くなる。だが佐伯さんが再び声を上げて断ち切った。

「よし、簡単に確認するぞ。第一班――藤川くん、翔くん、乃亜ちゃん、そして俺の部下一人。港へ向かえ。指示に従って目標を救出し、移送前の怪しい動きを探知して報告だ」

俺の方を見やる。

「第二班は六甲山へ行き、儀式の可能性がある場所を監視する。無線で常時連絡を取る。二十時には全員持ち場につけ」

佐伯さんが小百合さんを見る。

小百合さんが頷いた。

「六甲山から堺までは無線が届かないわ。だから翔さん、電話で逐一知らせて」

「分かった…」

「もう一度言うわ、翔さん。約束を忘れないで」

「……ああ」

腹はもう決まっていた。あとは頭を戦闘モードに切り替えるだけだ。

午後八時過ぎ、事務所を出る。秋の夜の乾いた冷気が肌に刺さる。空には、街の明かりをかすませるほど白く、完璧な満月が浮かんでいた。

ビルの前には黒い車が二台。

一台目――小百合さん、佐伯さん、アスタロト、そして部下一人。

二台目――藤川が運転、助手席の俺、後部座席に乃亜ともう一人。

ドアを閉めた瞬間、ポケットの中で携帯が震えた。

「…もしもし」

『翔くん、どうだ?あの夜から体調崩しててな、連絡できなかった』

渋い声――渋木廉次郎だ。

「これから始める。うまくいけば、夜明けまでに娘は戻る」

『本当か?手を貸す者を送ろうか?』

渋木が誰かを寄越せば、間違いなく報酬を値切るつもりだ。即座に断った。

「いらねぇ…その代わり、札束を詰めた鞄を二つ用意しておけ。俺の連中はタダじゃ動かねぇ」

『分かった、金に問題はない。何かあればすぐ連絡をくれ』

「……ああ」

通話を切った。言うことはもうなかった。

藤川がエンジンをかけ、俺たちは新開地を出た。

街は湿ったアスファルトに反射する信号や街灯、金属の光が入り混じった景色を広げながら、前方に延びていく。

窓の外、ビルの隙間から覗く月が、まるでこれから俺たちがやることを見届けようとしているかのように、ずっとついてきていた。

「ねえ、翔兄い。お父さんがね、あたしにも翔兄ぃを見張るようにって言ったの。あたしがここにいれば、無茶しないだろうって」

後部座席から乃亜がそう言った。

すぐには答えなかった。その一言が、五年前の夜を鮮やかに引き戻してきたからだ――。

路地裏の煙、鉄の匂いを帯びた血の匂い、そして目の前で傷を負った佐伯さんがしゃがみ込み、俺の肩に手を置いていた光景。

『翔くん……頼む、俺がいない時は、乃亜ちゃんを何があっても守ってくれ。あれは……俺にとって一番大事な存在だ』

あの時、俺は迷いなく頷いた。佐伯さんには大きな借りがあったし、断る理由なんてなかった。なぜなら、佐伯さんがその夜に死ぬかもしれないと思っていた。だが今日に限っては……もし乃亜が俺の目的の邪魔をするなら、果たせる自信はなかった。

「……チッ。お前の親父、俺を買いかぶりすぎだな」

前を向いたまま、低く呟く。

「翔兄ぃがあたし達のためにしてくれたことを考えたら、命を預けるくらい平気だよ」

乃亜は淡く笑みを浮かべながらそう返した。

藤川は煙草をくわえ、黙ってハンドルを握っている。

「……ところで、お前、どうやってこの世界に足突っ込んだんだ?」

「んー、あの出来事のあと、お父さんに頼んだの。もし何かあった時、あたしがお父さんの跡を継げるようにって……で、こうしてここにいるわけ」

「それだけか? せめて銃の扱いくらいはできるんだろうな」

「正直に言うと……危険が伴う仕事は今回が初めて」

返事はしなかった。冗談だろうと思いたかった。まさか佐伯さんが、本当に経験ゼロの自分の娘をこんな仕事に送り込むなんて……信じられなかった。

俺たちは神戸を出て、海沿いのルートで堺へ向かった。

左手に見える海は、建物や防波壁の切れ間から、現れては消えていく。

霧で湿った路面は、街灯の光を不規則に跳ね返していた。

潮の匂いに混じって、軽油や錆びた鉄の匂いが漂い――それは古びた港町の空気そのものだった。

地平線近くに浮かぶ満月は、俺たちと並走するように電線や止まったままのクレーンの隙間を抜けて、淡い光を落としていた。

堺に近づくにつれ、景色はより工業的になっていった。

不透明な窓を持つトタン張りの倉庫、色あせた積み重なったコンテナの列はまるで鈍色の城壁のようで、整然と並ぶトラックは眠れる獣の群れのようだった。

広く滑らかな舗装路は速度を出しやすいが、車内に漂う沈黙はエンジン音よりも重かった。

午後9時15分、俺たちはついに見えない市境を越え、古い油と鉄の匂いが染みついた倉庫や資材置き場が入り組む迷路のような一帯へと入っていった。

予定通り、北波止町の出口で高速を降りる。

心臓の鼓動がわずかに早まり、身体の奥にアドレナリンが走る。

でも、胸の奥のどこかで――何かがおかしい、と告げる感覚があった。第六感と呼ぶべきか、今夜に限って港に漂うはずの緊張感が、完全に消えている。妙な胸騒ぎが拭えない。

それでも、その感覚を無視して前へ進む。

『やっとだ……やっと、顔を拝めるぞ。あのクソ野郎』

母を殺した男を思い浮かべながら、心の中で呟く。

旧堺港のエリアに入る寸前、ポケットの中で電話が震えた。

画面に表示された名前を見た瞬間、肩が強張る。

「……小百合さん?」

低く抑えた声だったが、緊迫感が滲んでいる。

『翔さん……計画変更です。すぐ戻ってください』

「……は?」

『今は説明できません。ただ……戻って。あの男がここに来てます。命さんを連れています』

「……ッ!?」

思わずダッシュボードを叩いた。

短い沈黙。受話口の向こうから風の音が微かに聞こえる。苛立ちがじわじわと胸の奥に広がるが、必死に冷静を保とうとする。

「……分かった。絶対に無茶するな。できるだけ急ぐ。状況は逐一知らせろ」

『……間に合わなければ、私がやります』

小百合さんの声は、緊張を孕みながらも決意を帯びていた。

電話を切り、深く息を吐く。

冷静に考えようとしても、内側から燃え上がる苛立ちがそれを阻む。

――この日のための準備も、待ち続けた時間も、全てが……水の泡だ。

「藤川……」

「ん?」

「お前、高速運転の経験はあるか?」

「……あんまりないけど? なんでだ?」

「……ふん、席を代われ」

「でも──」

「いいから、代われ‼」

藤川は無言で路肩に寄せ、港の外れの暗い通りに車を停めた。車外には降りず、そのまま座席を入れ替える。

数メートル進んだ先、道幅が少し広がった瞬間、映画のワンシーンみたいな動きをした。

急ブレーキ。湿ったアスファルトの上でタイヤが甲高い悲鳴を上げ、車体は鋭くUターンする。ヘッドライトの光が工業地帯の金属壁を横切り、エンジンの唸りと遠くのサイレンが重なり合う。その瞬間、視界の真正面に、月が大きく、白く浮かび上がった。まるで俺たちの一挙手一投足を見下ろしているかのように。

「翔兄い……どうしたの?」後部座席の乃亜が困惑した声を上げる。藤川も、佐伯さんの部下の男も同じ顔をしていた。

「計画変更だ……どうやらあの野郎ども、先回りして六甲山にいるらしい」

「……はぁっ!?」乃亜と藤川の声が重なる。

「俺も驚いてる。たぶん……藤川の通話を追跡されたんだろうな……ちっ」

「父さんと小百合さんがそこに……無事だといいけど」

「安心しろ。佐伯さんは歳は食ってるが、こういうのは百戦錬磨だ。それに出来るだけ俺たちを待てと言ってある……人質に手を出さなきゃいいがな」

「……前みたいなことにはならないよね?」

「今度は違う……絶対に」

ハンドルを握る手に力を込め、再び高速へと戻る。

ルームミラー越しに見た乃亜の顔は、やっぱり緊張が滲んでいた。あの言葉──『危険な仕事は初めて』──は嘘じゃないと、その表情が物語っている。まぁ、無理もない。本来ならこんな展開になるはずじゃなかった。いや……本当はこうなる可能性も考えておくべきだったんだ。だが、俺は復讐のことばかり考えて、その想定を捨てていた。

もう後戻りはできない。

『昔の翔が見たいって? ……いいだろう、見せてやる』

速度計の針が一気に跳ね上がる。

車外では、月がただ静かに俺たちを追い、黙ってこの夜を見守っていた──再び俺の手が血に汚れる瞬間を。






次回:『満月の下で明かされる真実…』


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