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第6章。 『予想外の展開、動き出す時。』

長田区の静かな朝、目覚めた小百合の視界に広がったのは、見覚えのない天井と男物のパジャマ。安堵と戸惑いの入り混じる中、悪魔アスタロトの軽口が事件の核心を暴き出す。港湾ヤクザ『龍炎会』と、純潔を生贄に捧げる宗教団体『月輪教団』。誘拐された渋木命は、堺旧港の古い倉庫に監禁され、二日後に六甲山で儀式が行われるという。翔と小百合は南京町で一時心を落ち着けた後、岡本、そして堺へ。偽の警察手帳と拷問で引き出した情報から、救出作戦の輪郭が見え始める。しかし、教団の教祖の到着は目前――そして翔の胸に秘めた復讐心もまた、動き出していた。

天宮・翔(あまみや・しょう)  

相沢・小百合(あいざわ・さゆり)  

佐伯・健三(さえき・けんぞう)  

渋木・廉次郎(しぶき・れんじろう)  

渋木・命(しぶき・みこと)  

谷口・健太郎(たにぐち・けんたろう)  

藤川・雅人 (ふじかわ・まさと)  

千田・勝(せんだ・まさる)  

月輪教団(がちりんきょうだん)  

龍炎会(りゅうえんかい)


長田区・神戸。【相沢小百合の視点】

2016年11月6日・午前7時。


目を開けると、まず目に入ったのは見覚えのない天井だった。

白く、飾り気もなく、隅に小さなひびが入っている。灰色がかった壁。漂うのは淹れたてのコーヒーの香りと、フライパンで何かを炒める音。

私はゆっくりと身を起こした。着ていたのは男物のゆったりしたパジャマ――もちろん私の物ではない。そして両手にはまだ手袋が。心臓が一気に高鳴った。

「……ここは、どこ?」小さく呟く。

最後に覚えているのは――あの路地裏での谷口さん。それから先は真っ暗だ。

数秒間、頭の中で点と点を繋げていく。そして、最もあり得ない考えがよぎった。

『……まさか、谷口さんと一晩……? そんなはず……ない!』

ベッドから降り、裸足のまま床を歩き、部屋のドアをそっと開けた。

コーヒーの香りがさらに濃くなる。

食卓の向こう――翔さんが小さなノートパソコンに向かって座っていた。まるで私の存在に気づいていないようで、集中した眉間の皺と、その隣に置かれた湯気立つコーヒーが印象的だった。

なぜだか分からないが、谷口さんの部屋ではなく翔さんの部屋で目覚めたことに、心底安堵していた。

彼はあまりにも自然体で、無表情で、けれども妙に絵になる。その姿に、私はしばし見惚れてしまった。

その瞬間――ドアの枠に足を引っかけてしまい、小さな音が響く。

すぐに翔さんが顔を上げ、視線が交わった。

「ああ、おはよう、小百合さん」

その声を聞いた途端、頭の中が真っ白になり、無数の考えが一気に押し寄せた。

――気づけば想像してしまう。私が眠っていて、翔さんの刺青のある胸に抱かれている光景。

その温もり、親密さ、肌の感触まで、あまりにも鮮明で――

「……っ!」

顔が一気に熱くなり、思わず両手で覆った。

「あ、えっと……おはようございます、翔さん……えっと……お手洗いはどこですか?」

「……奥の右側だ」

「ありがとうございますっ……!」

早口すぎて自分でも驚くほどだった。

私はまるで戦場で敵弾を避けるかのように駆け込み、洗面所で顔を洗った。

乱れた思考を必死に整える。――今はこんなことを考えている場合じゃない。

意を決して戻ると――既に少し遅かった。

食卓の椅子にはアスタロトが腰掛け、トーストを食べていた。

キッチンでは、もう使われていないはずのフライパンがまだ小さく音を立てている。用意されていたのは洋風の朝食――トースト、スクランブルエッグ、ベーコン、そしてコーヒー。

あまりにも現実離れした光景に、私は入口で固まった。

「その引き締まった体のわりに、けっこう重いのね、小百合ちゃん」

アスタロトは私を見もせず、口元に笑みを浮かべながら言った。

「……は?」

意味が分からず、思わず声が漏れた。

「昨夜はあんたを抱えて帰る羽目になったのよ、可愛い子ちゃん」

アスタロトは、まるで当然のことのように言った。

「エコーを使いすぎるだろうなって思って、念のため後をつけてたの。駅に着く少し前で倒れたじゃない? 谷口が救急車を呼ぶ前に、あの人の記憶をいじって駅であんたと別れたって思い込ませておいたわ」

私はしばらく黙って、その言葉を頭の中で整理した。

「それで、ここに連れてきたの。あ、そうそう、翔くんのパジャマがそこらにあったから……ちょっと面白そうで着せちゃった。目が覚めたとき、『翔さんと一晩過ごした』って思ったでしょ? ふふふ」

翔さんは深くため息をついた。

「……おい、お前な、いい加減にしろよ、悪魔」

「アハハハ!」アスタロトは楽しそうに笑った。

「小百合さん、俺はソファで寝た。君は俺の部屋だ……安心しろ」

『……安心?』

何もなかったと知り、なぜか胸の奥が少しだけチクリとした。

『……どうして私、がっかりしてるの?』

「それより――仕事の話だ。小百合さん、谷口から情報は取れたか?」

翔さんが話題を切り替えた。私は気持ちを切り替え、うなずいた。

「はい……不思議でした。一見すると普通の人で、感じも良くて、いつも通りでした。最初は関わっているなんて信じられなかったんです。でも、あの人の時計に触れた瞬間……見えました。コンテナ、たくさんの金、誘拐に関する会話……渋木命さんの件かは分かりませんが、確実に何か黒いものに関わっています」

アスタロトが舌打ちする。

「甘いわね、小百合ちゃん……まあ、人間だから仕方ないけど」

翔さんはコーヒーを一口飲み、すぐに言葉を続けた。少し早口で、わずかに緊張しているのが分かった。

「昨夜、渋木から追加情報が入った。港の従業員と元従業員で、経歴が怪しい人物のリストを手に入れた。それと、佐伯さんに、渋木命への脅迫があった番号の追跡を頼んである。今、動いてもらってる」

「……それって合法なんですか?」

「合法じゃないから、佐伯さんに頼んだんだ。通常なら令状が必要だ。渋木が許可しても、発行まで最低一週間はかかる。それに、この件に関しては、腐った警察が令状を通すはずがない」

私が腕を組み、返事をしようとした瞬間、アスタロトが割り込む。

「あーあ、退屈。車で街を回る方が楽しいのにー」

「誰もお前に聞いてないし、ここに住む許可も出してない」翔さんが冷たく返す。

まるで兄妹げんかの前触れだった。

「翔くんの魂はもう私のもの。つまり翔くんの物は全部私の物よ……ふふふ。ま、今日は特別にお休みあげるわ。やることあるから出かける」

立ち上がったアスタロトは、バルコニーへ向かう前に、わざわざ余計な一言を残した。

「じゃ、二人きりになったことだし、好きにイチャイチャしていいのよ。ベッド壊したり、騒ぎすぎて近所に怒られない程度にね、ふふふ」

顔が一気に真っ赤になり、穴があったら入りたい気分だった。

翔さんはというと、パンをちぎってアスタロトに投げつけた。彼女はそれを空中でキャッチし、一口で食べてしまい、そのままバルコニーから消えた。

二人きりになったところで、私は再び話題を戻した。

「……翔さん、本当に、私が寝ている間に全部やったんですか?何か隠してることは……ないですよね?」

「……何を言ってるんだ。あのデータは昨夜、近くの場末のバーで渋木から直接受け取ったんだ」

「ふーん……」

翔は視線を逸らし、そして短く言った。

「……小百合さんが、まだ知るべきじゃないこともある」

その場の空気が一気に重くなった。私は席を立ち、バルコニーへ向かった。

朝の冷たい風が頬を撫でる。長田区の街並みは静かに広がり、煙突から上る煙、JR山陽線の電車の音、そして薄い灰色の空が広がっていた。

一瞬、アスタロトがまだここにいれば…と思った。きっと彼女なら、この張り詰めた空気を軽く吹き飛ばしてくれただろう。でも、今は二人きり。余計に息苦しかった。

しばらくして、翔さんがバルコニーへやってきた。

「……小百合さん、自分の能力を無茶して使うのはやめた方がいい。体を酷使すれば、倒れるだけじゃ済まなくなる」

「翔さんだって、私に隠し事をしないでください。チームなんですから。あなたのやり方が気に入らなくても、私が何に巻き込まれてるのか知る権利はあります」

怒りが込み上げていた。理由は自分でもよく分からないけれど、とにかく彼が隠すことが許せなかった。

翔さんは数秒黙ったあと、静かに言った。

「……すぐに分かる時が来る」

私は視線を再び遠くへ向けた。屋根の上をカモメが滑るように飛び、海風に混じった神戸特有の潮の匂いが鼻をかすめた。

「佐伯さんからの情報を待っている間……家まで送って着替えてから南京町へ行かないか? 頭を冷やすのも大事だ」

沈黙を破るように、翔さんが提案してきた。

「……誘拐事件を追ってる最中に中華街に行ってもいいんですか?」

「だからこそだ。冷静な判断には、心を緩める時間が必要だ」

私はほんの少しだけ笑った。

「分かりました。でも今回は、私が食べるものを決めますから」

そして――雲の切れ間から神戸の街に朝日が差し込み始める中で、私たちの朝が、そしてもしかするとそれ以上の何かが、静かに動き出していた。

***

六甲アイランド・神戸。【アスタロトの視点】

2016年11月6日・午前9時30分。


人間ってどうして何にでもドアを付けたがるのか、昔から理解できない。簡単に通り抜けられるくせに。しかも、ちゃんと閉めもしない者までいる。

谷口の場合もまさにそうだった。約束通り彼のマンションに来てみれば、ドアが半開きになっていたのだ。

「あら? 悪魔の力で通り抜ける覚悟をしてたけど、その必要はなかったわね……開けっ放しだなんて、ふふふ」

私は軽く押して中に入った。

誰にも気付かれずに高層階まで来るなんて、いつものことだ。別に彼らが盲目なわけじゃない。ただ、私が見られないことを選んでいるだけ。まあ、仮に見られても、記憶を弄って『何事もなかった』と思わせるのは簡単だし。

室内は高級ウイスキーの香りで満ちていた。ダイニングテーブルに突っ伏すように寝ている谷口。その横には半分空いたボトル、緩んだネクタイ。普段は張り詰めた表情をしている顔も、今は無防備で、どこか色褪せて見える。権威的な輪郭も、この時ばかりはただの疲れ切った哀れな人間のものだった。

静かに近づき、耳元で囁く。

「起きなさい、お姫様。あなたを救いに来たわよ……」

彼は針で刺されたかのように飛び起き、私を見るなり、その顔色が死人のように真っ白になった。

「あ、あ、あんた……」

「驚いたふりはやめなさい。今朝来るって言ったでしょ? 新しいご主人様を迎える態度じゃないわね」

「ゆ、夢かと思ったんだ……」

「ふふ……人間はいつも、罪から逃れられると思ってるのよ。酒と夢の中でね」

現実を叩きつけてやるため、部屋に私の気配を落とした。照明が瞬く。空気は一気に重く、冷たくなり、冬が入り込んだかのよう。私の両目――片方は紅、もう片方は黄金――が妖しく光り、脅威と戯れの入り混じった視線を彼に向けた。彼の身体が震えるのが分かる。

「わ、分かった……信じる、信じるから、もう二度とそれは……やめてくれ……」

私は肩をすくめて笑った。

「まあ……あなたに他の選択肢なんてないけどね」

部屋をゆっくり歩きながら観察する。ミニマルデザインの家具、控えめなアート、最新式の家電。パノラマの窓からは、神戸港が朝の靄の中に広がっている。港のクレーンたちは、まるで巨大な昆虫が時間を止められたかのように見えた。

「ふぅん……いい暮らしね。毎朝こんな素敵な景色で目覚めるなんて。警察の給料でギリギリ生きてるはずなのに、よくこんな所に住めるわね……」

皮肉を込めて、私は口角を上げた。

「沿岸対策課の課長に昇進して、収入も増えたんだ……だから払えた」

「おやおや……まだ就任して四か月じゃない。利口な子なら、私に嘘をつかない方がいいわよ、健太郎くん……ふふふ。私ね、人間の思考なんて、まるで子供の落書きみたいに丸見えなの。善人ぶったその顔で他人は騙せても、私には通用しないわ」

彼は歯を食いしばり、やがてうなだれてため息をついた。

「……で、俺に何をさせたい?」

「あなたにできないことなんて頼まないわ。私の目になって、警察内部のことを全部報告してもらう……ほら、人間が欲に溺れる姿って、とても面白いじゃない? 私の娯楽だと思って」

「……俺は、その見返りに何をもらえる?」

私は彼に顔を近づけ、額が触れそうな距離まで迫った。

「あら? 私が黙っていてあげることじゃ足りない? ――警察の幹部様が、意識を失った女の子をラブホテルに連れ込もうとしたなんて、世間に知れたら……悲劇よね?」

彼の顔が固まり、動けなくなった。その反応に私はくすくすと笑った。

「ふふふ……落ち着きなさい。私に従えば、今まで通りの生活ができるわ。働き次第では、何かご褒美をあげてもいいかもね」

ソファに腰を下ろす。

「じゃあ、最初の任務だけど……渋木命の件に関する情報を全部ちょうだい」

「……は? なんでその事件なんだ?」

彼の驚きは演技じゃなかった。さっき人間の欲云々と言ったせいか、軽い世間話でもすると思っていたらしい。まったく、この手の人間ほど後で厄介になる。

「理由なんてどうでもいいわ。質問は私がする。さあ、話して」

谷口は深く息を吸い、肩を落として視線を伏せた。その姿は、二十歳は老け込んだように見えた。

「港の組織内部に分裂がある。前はただの暴力団相手だったが、最近は宗教団体が入り込んでる……月輪教団っていう名前だ」

――やはり。昨夜、翔くんと小百合ちゃんが見たあの落書きは、この教団と関係があったのだ。

「それが渋木命と何の関係があるの?」

「大ありだ。大阪の港をいくつか仕切ってる『龍炎会』って組が、この誘拐を使って彼女の父親をゆすろうとしていた。渋木廉次郎は手を引くつもりだったんだが、また借りと貸しを背負わせて縛るつもりでな……それがあいつらのやり口だ」

「……それで?」

「つまり、月輪教団が途中で介入したわけだな。最初は組と手を組んでたが、娘を見た途端、脅迫はやめて儀式に使うと言い出した」

私は片眉を上げた。

「生贄? またそういう馬鹿げたこと?」

「また……?」と谷口。

「……何でもないわ。続けて」

「やつらは『月の神』を崇めていて、その神は純潔を求めるらしい。娘は処女だから、儀式にはうってつけだと。二日後に高司祭が神戸に戻り、その時に六甲山で儀式を行うと聞いた」

――千田勝の件を思い出し、口元が勝手に歪む。人間が悪魔の真似事とは……笑わせる。

「ひとつ引っかかるわ。宗教団体が、なんでわざわざ暴力団と組むの?」

「思ってるよりよくある話だ。こういう連中は資金源が必要でな、結局は裏稼業と繋がるしかない」

「でも……元々組が仕切ってたエリアを、なんで宗教が取れるの? そんなに影響力があるの?」

「理由は詳しくは知らんが、警察や政治家にまでコネがあるらしい」

谷口の思考を読み取りながら聞く。嘘は混じっていないようだ。

「もうひとつ。渋木命の誘拐、誰がやったの? やっぱりあいつら?」

「龍炎会の連中だ……少し、俺も手を貸した」

「どうやって?」

「父親が、娘が脅迫を受けていると通報してきた。俺たちはそれが組からのものだと知ってたから、『警備を強化しろ』と忠告した。だが渋木は人手不足だと言って、そのまま娘は無警護で出歩いていた。たぶん、やつは過信してたんだろう……まさか手を出されるとは思ってなかった」

「それで?」

「そこに龍炎会が俺に接触してきた。警察の身分証とバッジを二つ用意しろと……もちろん、いい金になったから引き受けた。何に使うかまでは知らなかったがな」

彼が話す間、私は冷蔵庫からアイスクリームを取り出し、スプーンを突き刺す。再び向かいの椅子に座り、頬杖をつきながら食べ始めた。

「渡したのは夜で、翌日の午後には、連中がその身分証を使って私服警官になりすまし、渋木命を高校から連れ出したと聞いた」

谷口はグラスにウイスキーを注ぎ、一気にあおる。酔いに沈む彼と、アイスを頬張る私――なんとも奇妙な絵面だ。

「なるほど……そうやったのね。なかなか頭を使ってるじゃない」

「ああ。娘の恐怖心を利用して、暴力を使わずに車に乗せたんだ」

「――で、今はどこにいるの?」

「最初は堺泉北の港湾地域にいたんだけど、あそこは労働者の出入りが多くて、いずれは何が起きているのか気づかれるだろうから、倉庫火災という口実を作って、その区域を封鎖し、立ち入りを禁止した上で、堺旧港の北波止町にある古い倉庫へ移したんだ」

「なるほど…そういうことか」

『じゃあ、翔くんが火事なんてなかったって言ってたのは正しかったのね』と思った。

「でも、そこに長くはいない。教団のリーダーが到着したら山へ連れて行く…もしくは、不審な人間が周囲に現れたら、別の場所に移すだろう」

私は黙ったまま立ち上がり、窓辺まで歩み寄って神戸の湾を見下ろした。

──これは翔くんが思っている以上に大きなゲームね。

少女を助けるためには、月輪教団、警察、そして龍炎会を相手にしなければならない。

彼が必死に避けようとしているもの、全部をね。

そう考えると、思わず笑みがこぼれた。

「じゃあ、教団のリーダーが来るまでは少女には手を出さない、そういうことね?」

谷口はうなずいた。

「それは保証できるの?」

「よほどのことが起きない限り、そのつもりだ」

──完璧。まだ時間はある。

翔くんと小百合ちゃんに救出を試みさせてみようかしら。

成功するか、失敗するか…見物ね。

「もうひとつ。六甲山に連れて行かれるその日まで、渋木命の安全と無事を確保する役目を、あなたに任せるわ。できる?」

「正直、難しいとは思うが…やるしかないだろうな」と彼は諦めたように答えた。

「ふふふ…いい子ね、健太郎くん。全部終わったら、ご褒美をあげるかもしれないわよ」

私はウィンクをして、まるで最初から存在しなかったかのように、扉の向こうへと消えた。

手に入れた情報をもとにすぐ翔くんと小百合ちゃんを呼び出し、命ちゃんを救い出すのが一番合理的なはず。

──でも、それじゃ面白くないわね。

だからもう少し、様子を見ることにした。

日曜を含めて、あと二日あるんだし。

「ふふふ…翔くん、自分の母親のキラーが二日後に神戸へ来ると知ったら…どんな顔をするかしら。あぁ、楽しみだわ…ふふふ」

***

南京町・神戸。【天宮翔の視点】

2016年11月6日・午前11時。


俺は小百合さんの家のリビングで腕を組んだまま、ただ待っていた。

別に居心地が悪いわけじゃない。ただ、手の置き場に困っていた。視線は無意識に部屋の隅々をなぞる。好奇心からじゃない。

ただの癖だ――目に入る情報は全部、頭に入れておく。

室内は清潔だが、完璧に整頓されているわけじゃない。

棚には推理小説や犯罪学のエッセイが並び、その横にコーヒーの輪染みが残ったマグカップ、そして少し薄い跡の紅茶らしきカップ。

窓際には細長い葉の観葉植物。数日水をやっていないのか、緑は少しくすんでいた。

壁には神戸港の夜景を写した写真。クレーンと船が光に照らされている。

感傷的になっていたわけじゃない。ただ、いつものように観察していただけだ。

――玄関の扉が開く音がして、視線をそちらに向ける。

小百合さんは膝丈までのクリーム色のワンピース姿だった。

腰に濃い色のリボン、髪は高めのポニーテールで首筋が見えている。

手にはいつもの茶色の革手袋。

普段は意識していなかった顔立ちなのに、その瞬間、何かが胸の奥で揺れた。

いつもと違う…いや、女らしい。

一瞬、言葉が出なかった。

「どうしたの? …似合ってない?」と彼女が不安げに聞く。

「いや…今日はよく似合ってる」

軽く笑った彼女が「ありがとう」と返す。

「じゃあ、行くか」

家のドアも、車のドアも開けた。

古臭い紳士気取りじゃない。ただ、護衛のような気持ちで。

それくらいしか俺にはできない礼儀だった。

北野町から南京町へ向けて車を走らせる。

洋風の邸宅が並ぶ住宅街を抜け、山手幹線を越え、

元町方面へと下っていく。途中、小さなカフェやベーカリーの前を通り過ぎる。

日曜の昼前、道はそこそこ混んでいた。

10分もかからず、赤と金の牌坊の下に到着した。

車を停めると、空気は一変する。

点心の蒸気、串焼きの肉、甘栗の香り。

中華ポップと中華鍋の金属音、

『熱々の肉まん!』や『ジャスミン茶どうですか!』と叫ぶ店員の声。

観光客がカメラを提げて歩き、地元客は袋を両手に下げて足早に通り過ぎる。関帝廟の前には赤い提灯が列を成し、空に浮かんでいるようだった。

俺たちは小さな屋台の丸椅子に腰掛けた。

俺は麻婆丼を大辛で、小百合さんは胡麻ダレの蒸し餃子を注文。

「…仕事中にこうして歩くのって、なんか変な感じね」と小百合さんが周囲を見回す。

「気持ちが張り詰めてると、いい判断はできない」

ここは日曜の昼。人混みと騒音で、自然と声も大きくなる。

彼女は少し黙ったあと、別の話題を切り出した。

「佐伯さんから情報は来たの?」

そう聞かれ、ポケットからスマホを取り出す。ちょうど新しいメッセージが届いていた。

「ああ。渋木命への脅迫が送られてきた発信元の場所だ。予想通り、番号は未登録。しかも発信は神戸、西宮、芦屋、大阪…と色んな場所からだ」

「じゃあ…待ってた甲斐がなかったってこと?」と、小百合さんが少し不満げに言う。

「いや、そうでもない。その中の一つが、渋木からもらったリストに載っていた港湾関係者の住所と一致している」

彼女がじっと俺を見る。

「じゃあつまり…」

「そうだ。もう一度堺に向かわないと」

急ぎではあったが、昼食を終えて少しだけ歩く。さっき言った通り、頭を落ち着けておくことは大事だ。これからやることを考えればなおさら。

車に戻り、彼女に告げる。

「その前に、岡本へ寄る」

「…え? どうして?」

「記録にはもう一つ、渋木命の携帯にほぼ毎日かけたりメッセージを送った番号があった。候補を絞り込む必要がある。それに、堺よりは近い」

「…なるほど、確かにそうね」

南京町から岡本まではすぐだった。海岸通を抜け、阪神高速を東へ。岡本ICで降りると、静かな住宅街が広がっていた。二階建ての家が並び、手入れされた庭、白い外壁、灰色の瓦屋根。大学生が多く住むエリアとして知られている。

俺は白壁のモダンな家の前に車を停めた。

「時間はかからない。俺の能力で誰か確認するだけだ」

最初に現れたのは、二十二歳前後の女子大生。思考を読む、

――『試験』

――『レポート』

――『友人との些細な揉め事』

無関係だ。

次に現れたのは、中年の女性。買い物袋を下げている。これも違う。

そして最後に、痩せた十代半ばの少年。視線は落ち、思考には心配と苛立ち。だがその理由は別のものだった。

――『やっと付き合い始めたのに…こんなことになるなんて』

――『警察、早く見つけてくれよ…』

――『俺に何かできれば…』

そこで読むのをやめ、息を吐く。小百合さんが表情で察し、笑いながら言った。

「思考を覗くのって、時々損ね。高校生の方が大人より恋愛充実してるなんてね」

「…確かにな。じゃあ、堺に向かうか」

阪神高速を大阪方面へ走らせ、淀川を渡り、湾岸沿いを進む。やがて堺に入り、旧港近くの江波寺町に差し掛かる。工場や倉庫に混じって、古い木造家屋が残るエリアだ。

とりあえず該当の家の前で能力を使い、中を探るが、空き家状態。車を少し下がらせ、視界に入らない位置で張り込む。

空が橙色に染まり、潮風が少し冷たくなり始めた午後五時頃、ようやく男が現れた。四十代ほど、無造作に家へ入っていく。

「…あいつか?」と小百合さん。

「恐らくな。少なくとも、俺が持ってる情報ではそうだ」

「じゃあ、何を待ってるの?」

小百合さんがドアに手をかけ、やけにやる気を見せる。

「待て。その前に…ほら」

俺は千田香織の取り調べで使った警察手帳を渡す。説明は不要だ。今回も警官になりすますつもりだというのは一目瞭然。

小百合さんは迷わずうなずき、手帳を受け取った。

「もう一つ、小百合さん」

「何?」

「これからやること…お前は気に入らないはずだ。嫌なら車で待っててもいい」

「そんなわけないでしょ。相棒なんだから、一緒にやるわ」

その即答に、思わず笑みがこぼれる。

俺はグローブボックスから針の入った小袋を取り出し、ポケットへしまう。そして玄関に向かって歩き出した。チャイムを押すと、男が出てきた。

「大阪府警です。少しお時間よろしいですか?」

手帳をほんの一瞬だけ見せる。詳細までは見せない。そこには『神戸市警』と書かれているからだ。

男は訝しげにしながらも家に招き入れた。ドアが閉まった瞬間、俺はその腕を極め、奥の部屋まで押し込む。畳の色は褪せ、低い家具と壁に染みついたタバコの臭い。正直、昔のヤクザ映画の尋問場所としては及第点にも届かないが、今は環境を選んでいる場合じゃない。

椅子に座らせ、両手足を縛る。妙に静かだ。普通なら叫んだり暴れたりするはずだが…それも計算済みで、俺はもう一発入れる気でいた。

能力を使い、思考を読む。頭の中は腐った絵巻物だ、

――『密輸』

――『恐喝』

――『麻薬』

だが、肝心の情報はまだ見えない。

「渋木命……この名前に心当たりは?」

「…知らねぇな」

ぶっきらぼうに答えるが、俺の能力からは逃げられない。その瞬間、記憶が鮮明に流れ込んでくる。

――携帯や公衆電話から繰り返される脅迫。無防備な彼女を見たときの、汚らしい欲望までも。

――こいつ、本物のクズだ。

拳で顔を殴る。唇が裂け、次に蹴りで鼻をへし折りかけたところで、小百合さんの気配が変わったのに気づく。彼女の視線が鋭くなり、少し身構えている。

そこで手を止め、ポケットから針を一本取り出す。男の顔のすぐ近くまで寄った。

「なぁ… 俺は昔、ヤクザだったんだ… 俺たちはな、嘘をつかれるのが一番嫌いなんだよ」

そう言いながら、椅子の後ろで縛られている男の右手を掴み、人差し指の爪の下にゆっくりと針を突き立てる。

ヤクザが昔から使ってきた拷問方法――単純に見えるが、耐えられる者はほとんどいない。二本目を打たれる前に大抵の人間は心を折られる。

男は耐えきれず、今にも叫びそうな顔になった。呼吸は荒く、脈は跳ね上がり、冷や汗が額から滴る。

「…シーッ…叫ぶなよ。それも俺たちは嫌いなんだ」

痛みに耐えきれなくなった男は、ついに白状した。龍炎会は渋木を再び協力させるために命を誘拐しようと計画していた──俺が予想していた通りだ。だが、月輪教団が途中で介入し、指示を変更したという。渋木命は堺旧港の倉庫に監禁されており、教団の教主が到着し、月曜の夜明けから火曜にかけて儀式を行う予定だそうだ。それ以上のことは何も知らないらしい。

教祖が神戸に上陸する、と聞いた瞬間、俺の脳裏に母が殺された時の光景が蘇った。

胸の奥から、怒りが噴き出す。気づけば拳を振り上げていた。

――『殺してやる』

そう思ったその時、小百合さんが俺の腕を掴んだ。

「翔さん…数日前に言ったこと、忘れてないでしょ…」

あの日、俺は命の救出を復讐より優先すると約束した。

その言葉が、俺を現実に引き戻す。

深く息を吐き、港の警備について尋ねる。

男の答えは『入口までしか行けない。それ以上は無理だ』というものだった。

「それで十分だ…お前は俺たちの入場券だ。一緒に来てもらうぞ」

男は黙ってうなずくしかなかった。

俺たちは奴を車まで連れ出し、後部座席に押し込む。

そして神戸へ戻る前に、佐伯さんに電話をかけた。

『翔くん、今度は何を手伝えばいい?』

「友達を一人、泊めてやりたい。手配できるか? それと、火曜の夜に最低でも四人は必要だ。いけるか?」

『もちろんだ。友達の件は兵庫ピアに連れて行け。ちょうどいい場所がある。それと、四人の件も問題ないが…あいつらはタダじゃ動かんぞ?』

「わかってる。心配すんな。うまくいけば渋木がたっぷり払うさ。あの男ならわかるだろ?」

『あぁ…了解だ。じゃあ明日の朝、また会おう。今は家族と一緒だから、すぐに兵庫ピアに連絡して準備させとくよ』

「了解だ。それじゃあ、またな」

高速道路を走り、神戸へ戻る頃には、空は橙から紫へと染まり、夜の訪れを告げていた。高架からは、少しずつ灯り始める港の光が見える。

「覚悟しろ。これから一気に動きが激しくなる。あの新しい『友達』がいないことに気づかれる前に動くぞ」

「…この段階で怖がってる暇なんてないわよ」小百合さんは窓の外を見ながら笑った。

俺はバックミラー越しに囚人を見やった。

「なぁ、そういえば…名前は?」

返事はない。

「協力した方が身のためだぞ。俺はお前の組の仕事に首を突っ込むつもりはない。興味があるのはあの子を助けること…それと、お前が言ってたあの教団のリーダーに、俺個人のケリをつけることだけだ」

「本気であいつらに一人で立ち向かうつもりか?頭おかしいだろ。あの連中の力は異常だ。短期間であそこまで大きくなった理由がわからん」

「俺が一人だと、誰が言った?」そう言って小百合さんを見やり、信頼しているという意思を示す。

「まぁ、実際にぶつかってみなきゃどうなるかはわからねぇ…」そう締めくくった。

「…藤川…藤川雅人。それが俺の名前だ」

彼はため息をつき、俺が組に興味がないとわかったのか、少し落ち着いた様子で窓の外に目を向けた。

俺は口元をわずかに歪めた。──本当のゲームは、ここから始まる。







次回:『難しい決断――生か復讐か。』


最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

よければ評価していただけると、今後の励みになります!

これからもどうぞよろしくお願いします!

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