第5章。 『古い知り合いとの再会。』
第5章:『古い知り合いとの再会。』
誘拐事件の真相に近づくため、相沢小百合はかつての同僚谷口刑事との再会を決意する。
一方、翔とアスタロトはそれぞれのやり方で裏の真実に迫っていく。
腐敗した警察、動き出す謎の宗教組織、そして港を支配する見えざる手。
交差する過去と現在。
静かな街の夜に、感情と陰謀が混ざり合う。
これは、正しさを問う物語。
そして、『何を守るべきか』を選ぶ物語。
『信じていたものが崩れる時、人は何を選ぶのか』
天宮・翔
相沢・小百合
佐伯・健三
渋木・廉次郎
渋木・命
谷口・健太郎
伊藤警部
料亭・有栖川
新開地・神戸。【天宮翔の視点】
2016年11月5日・午前10時05分。
淹れてから随分と時間が経ったはずなのに、デスクの上のコーヒーからはまだ微かに湯気が立っていた。
朝からこの空間には、言葉にできない重苦しさが静かに漂っている。
左隣では小百合さんが資料に目を通し、アスタロトはソファに寝そべりながら、恐らく興味もないファッション誌をパラパラと捲っていた。
そして俺は──港の火災の件について、頭の中で何度も同じ思考を繰り返していた。
「なあ……」
声を張らずに沈黙を破る。「あの港の件、どう考えてもおかしくなかったか?」
小百合さんはわずかに視線を上げる。
アスタロトは何も言わず、雑誌のページを一枚捲っただけだった。まるで、俺の続きを聞いてから茶化すタイミングを見計らっているかのように。
「火災って言ってたよな、あの倉庫」
俺は壁にもたれながら言葉を続けた。
「覚えてるか?あの時警察に止められて、ガス漏れがあったから危険だって言われた。でも俺たち、裏から回って中に入ったよな?……何か匂ったか? 燃えた痕跡は?」
小百合さんは、ゆっくりと首を横に振った。
「煙もなかった……焦げ跡も。働いてる奴らも、怯える様子なんてこれっぽっちもなかった。むしろ、退屈そうだった」
「私も能力を使ってみたけど……火事の痕跡なんて、何一つ感じられなかったわ」
彼女は、まるで自分に言い聞かせるように小さく呟いた。
「そうだ。あの話はでっち上げだ。何かを隠すためのカモフラージュ…そしてそれを成立させるには、内部に協力者が必要だ……力のある人間がな」
アスタロトが雑誌をテーブルに置き、面倒くさそうに片眉を上げた。
「で? 警察が嘘をついたって驚いてんの?そんなの、よくある話じゃん。誰かが上から糸引いてるってだけのこと……ただの上司じゃなくて、手を汚さずに済むレベルの連中よ。スーツ一着で、サラリーマン十人分の給料飛ぶような奴ら」
「……まあ、どっちにしろ関係ない」
俺は彼女を見ずに言った。
「俺たちの仕事は、正義の味方じゃない。制度を正すことじゃなく、渋木命を──生きたまま見つけることだ」
「そして、もしその制度が腐ってるなら、こっちにとっては都合がいい。こういう仕事は増えるだろうし……お前にとっちゃ、願ったりじゃないか?」
アスタロトが乾いた笑いを漏らした。
「ほんっと、やることなすことヤクザ丸出し。今さら探偵なんて名乗っても、化けの皮すら貼ってねーじゃん、あんた」
それを聞いて、小百合さんが腕を組み、眉をひそめた。
「……それでも、間違ってると思う。翔さん…私たちは、そんなやり方じゃ──」
「じゃあどうしろって言うんだ?」
声は上げなかったが、俺は真っすぐに彼女を見据えて遮った。
「警察を浄化しろって?腐った組織を、俺たち三人で?追放された元ヤクザと、理想ばっかりの元刑事、あと気まぐれで動く悪魔一匹……無理に決まってるだろ、小百合さん」
小百合さんは何も言い返さなかった。
正義と現実の狭間で、彼女の心が揺れているのが分かった。だけど、立ち止まってる時間はもう残されていなかった。
俺たちは、すでにあっち側に足を踏み入れているんだ。
俺は、これまで集めた写真や地図、メモを貼り付けた即席のボードに目を向けた。
「谷口健太郎……こいつがどこまで関わってるか、調べたい」
「港の件に関係あると思うの?」
小百合さんが、いつになく真剣な表情で尋ねた。
「そう考え始めてる。ただ、一つ引っかかる点がある。堺港は神戸の警察の管轄外だ。もし谷口があそこまで手を伸ばしてるなら、ただの捜査官じゃない。もっと上の立場にいるはずだ。都市をまたいで動けるような……沿岸部全体を掌握できるようなポジション」
小百合さんは目を伏せて、記憶を探るような仕草をした。
「大阪府警の沿岸部対策課……」
彼女は低い声で呟いた。
「あの部署なら、名前に反して神戸の海域も対象範囲に入ってる。もし谷口がそこに異動・昇進していたら、港の動きすべてにアクセスできる。誰にも怪しまれずに」
「……なるほどな」
俺は唸った。
「買収されてたって可能性は高い。彼は昔から出世欲が強かったから……その野心に付け込まれたんだろうな」
アスタロトが小さく口笛を吹いた。
「ほらね、警察が腐るとヤクザよりタチ悪くなるって言ったでしょ?あいつら、ルールも仁義も関係ないんだから」
俺は何も言わなかった。だが、胸の内には不快な感情がぐつぐつと煮え立っていた。正義感なんてものじゃない。ただの嫌悪だ。
……裏切りと欲まみれの世界から抜け出したはずだったのに、また同じようなクソに囲まれてるだけだ。
「佐伯さんに電話する……」
俺はそう言って、スマホを取り出し番号を押した。
数秒のコールのあと、彼が出た。
『翔くん、どうしたの?』
「昨日、渋木が言ってた谷口って警官。あいつの情報、何か掴めたか?」
『ああ、あの男ね。部下たちに調べさせてるけど……正直、手応えはゼロに近い。壁にぶつかってる感じ。全方向からガッチリ守られてて、違法な手を使っても情報が出てこないのよ』
俺は眉をひそめた。
「財務関係は?」
『完璧。まるで、すごく上の誰かが彼を庇ってるみたいにね』
俺は苛立ちで鼻を鳴らし、通話を切った。椅子にもたれ、深く息を吐く。
「警察に近づくだけで、俺みたいなのはすぐに警戒されちまう」
「……過去のせい?」
小百合さんがそっと尋ねた。
「……どう思う?」
「元ヤクザの俺が警察に近づけば、それだけで余計な注目を集めちまう」
しばらくの沈黙のあと、小百合さんが息を整えて言った。
「……私が行く」
俺は彼女を見た。何を言いたいのか察しながらも、あえて聞き返す。
「どういう意味だ?」
「谷口とは、刑事課で一緒に仕事してたの。彼……私に少し好意を持ってた節があった。何もなかったけど、仲は悪くなかった。再会を装えば、接近できるかもしれない。もし彼の私物に触れられたら、エコーレジデュアルにアクセスできるかも」
アスタロトが手を叩いて笑った。
「おおお~、ついにラブコメ展開きたー!? 三角関係のはじまりぃ?ふふっ」
小百合さんはアスタロトの言葉を無視した。
「警察が関わってる可能性は高いけど……もしこの計画がうまくいけば、彼らが本当に誘拐に関与してるのか、それともただ隠蔽してるだけなのか、判断できるかもしれない。だって、事件を担当してるのは谷口さんなんでしょう?」
彼女はスマホを手に取り、少しだけ迷った後で番号を押した。
スピーカーからコール音が鳴り、数秒後、驚いたような男性の声が返ってきた。
『……もしもし?』
「ほ…ほんとにお久しぶりです、谷口さん。覚えてますか?」
『えっ……冗談だろ?小百合さん?マジかよ、今日まさに君のこと考えてたんだ……』
「そ、そうですか……ははあ……」
彼女はぎこちなく笑ってみせたが、演技としては十分だった。
『もちろん覚えてるさ。あんなに頭の切れる監察医、あれから一人も見たことないよ、ははは』
「はは、そんな……嬉しいです。最近また神戸に戻ってきたんです。ふとあなたのことを思い出して、それで……今夜、お時間ありますか?」
『もちろん!今夜はちょうど空いてるんだ。どこで会おうか?』
二人は時間と場所を決め、小百合さんは通話を切った。
そして、俺たちの方に向き直る。
「……会うって。今夜、三宮で」
俺はゆっくりと立ち上がり、玄関の方へ歩いた。
「じゃあ、今日はこの辺で切り上げよう。準備が必要だろうしな……俺は家にいる。あまり目立ちたくない」
「……うん。分かった」
小百合さんがこちらを見た。何かを言いたそうな目だったが、何も言わなかった。
俺も、ただ黙ってその視線を返す。
《……なんだ、この感覚は。嫉妬?いや、まさか……》
胸の奥にチクリとした痛みが走る。それが何なのかは、まだ分からない。
小百合さんが玄関に手をかけた瞬間、俺はようやく口を開いた。
「……小百合さん。本当に大丈夫か?」
彼女は振り返り、静かに微笑んだ。
「ええ……心配しないで。私は大丈夫。全部あなたに任せっきりってわけにもいかないし……相棒でしょ?」
俺は無言でうなずいた。
「何かあったら、すぐに連絡しろよ」
彼女もまた、黙ってうなずいた。そしてドアを開け、静かに出ていった。
ドアが閉まると、またいつもの沈黙が部屋を満たした。
***
長田区・神戸。【天宮翔の視点】
2016年11月5日・午後4時45分。
カーテンの隙間から差し込む夕陽が、部屋の中をあのくすんだ橙色で染めていた。この街の秋は、どこか煤けた色をしている。
デジタル時計の表示は午後4時45分。
『ピッ、ピッ、ピッ』と秒を刻む音が、やけに耳に残るのは――
それ以外に何の音もない、静まり返った部屋のせいかもしれない。
キッチンは珍しく片付いていた。
……まあ、それもアスタロトがちょっかいを出していたからだろう。
料理は彼女にとってのリラックス手段らしい……だが、実際のところは、俺の生活にもう一歩踏み込むための手段に思える。
「ねえ、いつまでベランダから通りを見下ろして魂抜けたみたいな顔してんの?お茶、冷めちゃうよ……てか、テレビ買いなよ。あんたの部屋って、マジでつまんない」
キッチンから聞こえるその声に、俺はすぐには返事をしなかった。
手にした湯呑みからは、まだ湯気が立っていた。
香りは悪くない。だが、胃の奥にあるこの重たい感覚を癒すほどではない。
アスタロトが盆を持ってリビングに現れた。
甘いトーストに、ジャム。むき方が完璧すぎて不気味なミカン一つ。
「そんな顔してるぐらいなら、とりあえず口動かしなよ。最近、どんどん痩せてきてるし……そういうあんた、あたし好みじゃない」
そう言って彼女は向かいに腰を下ろす。
その目は、いつものように、からかいと本音の間で揺れていた。
「で……何があったか教えてくれるの?
……ま、あたしには心当たりあるけどね」
口元をいたずらっぽく噛みながら、彼女は言った。
「小百合ちゃんがデートするから、嫉妬してるんじゃない?」
無表情のまま彼女を見返すと、彼女はクスッと笑った。
「……黙れ、悪魔」
「はーい、図星ね~」
「嫉妬じゃねぇ。問題はミスが許されないってことだ。今日、小百合さんが谷口と会ってる間に……俺は俺のやるべきことをする」
ようやく湯呑みを机に置いて、俺は言葉を続けた。
「何をするつもり?……小百合ちゃんを尾行するとか?」
「……しねぇよ。最初から言ってるだろ」
「じゃあ何?あたしもついてっていい?また堺?それとも、あのジジイ……渋木に会いに行くの?」
俺は軽くうなずいた。というより、彼女の質問攻めを止めたかっただけだ。
「アイツは何か隠してる。……誘拐の件、全部は話してねぇ。少しばかり揺さぶらねぇと、口割らねぇ気がする」
「ふうん……そう思うんだ?」
「昔からの知り合いだからな。どうせどこかの組と組んで甘い汁吸って、都合が悪くなって切ろうとして、今になってツケが回ってきただけだ……
……で、こっちを巻き込んでやがる。ふざけた野郎だ」
「なるほどね……で、小百合ちゃんのことは放っとくの?」
今度のアスタロトの声は、少しだけ真剣だった。
「……俺が彼女を追うわけにはいかねぇ。警察が本当に絡んでて、谷口が小百合さんの目的に勘づいたら……
全部が水の泡になるどころか、彼女が危険に晒される」
俺はそう答えた。
「俺の顔は知られてねぇが、それでも俺みたいな奴は目立つからな。それに…」
窓の外を見やった。
遠くで、JR山陽線の列車が通過する音が空気を震わせる。
「お前に頼みてぇ。もし何かあったら……さりげなく助けてくれ。介入は最終手段だ。小百合さんは能力を使うつもりでいる。だが、あれを使いすぎれば……また倒れるかもしれねぇ」
俺は茶をひと口すすりながら続けた。
「もし道端で倒れでもしたら……誰かに悪意で近づかれるかもしれねぇ。酔ってるとでも思われたら、なおさらだ」
アスタロトはすぐには返事しなかった。
ゆっくりとパンを噛み、飲み込んでから、少し低い声で呟いた。
「ふぅん……やっぱり、小百合ちゃんのこと、気にしてるんだ」
「……話を捻じ曲げんな」
彼女はニヤリと笑った。
「安心しなよ、ヤクザさん……あたしなら何にでもなれるからさ。猫でも、影でも、風でも。もし何か起きても、絶対に守ってみせるよ。小百合ちゃんに触る奴がいたら……その瞬間に終わりだよ?ふふふ」
彼女は立ち上がって、しばらく使っていなかった黒いゴシック傘を手に取った。
「なぁ、おい……いつも同じ服で飽きねぇのか?」
初めて会った時から、アスタロトは黒のヴィクトリア調ドレスに
丸いボタンとレースをあしらった服を着ていた。白いハイソックスにエナメルの靴。銀髪と白い肌によく似合ってる……が、たまには着替えてもいいんじゃねぇかと思った。
「まぁ……ひょっとして、着替えるとこ見たいわけ?もしかして、ロリコンさんだったりして~?ふふふ」
「……チッ、やっぱ黙れ、クソ悪魔」
「じゃあ、全部終わったらお礼として、買い物連れてってよ?新しい服、選んでくれるんでしょ?」
そう言って、彼女はベランダに向かった。
「さて、行くね。これ以上いるとさ、あんたが本音言い出しそうで気まずくなるから~」
そう言い残して、ベランダから軽やかに飛び出した。
『……普通にドア使えねぇのかよ……』
アスタロトが去ると、部屋にまた静寂が戻った。
俺はベランダに歩み寄り、沈みきった太陽の名残りが
長田のビルの間に消えていくのを見届けた。
街の明かりが一つずつ灯りはじめる。まるで、闇が取り戻しに来たかのように。
母親を殺した奴を追ってたはずなのに――
いつの間にか、誰かを助ける側になってた。
……人生なんて、思い通りにいかねぇもんだ。
***
三宮・神戸。【相沢小百合の視点】
2016年11月5日・午後7時30分。
列車は、いつも通りの正確さで到着した。時計は午後7時31分を指していた。ここは三宮駅。
ドアが鈍い音を立てて開く。
ホームに足を踏み出すと、冷たい風が頬を撫でた。11月、夜の色は深まる青。ネオンに染まった空が広がっていた。
私はゆっくりとベージュのコートの襟を直した。
今日の服装には気を配ったつもりだ。派手ではないが、程よく自然体に見えるように。
ネイビーのロングワンピースに、ダークブラウンのブーツとタイツ、革の手袋。
少しだけ、舞台に立つ女優のような気分だった。
西口から出ると、元町の灯りが石畳を温かく照らしていた。
土曜の夜だけが持つ、特別な光。
遠くには手を繋いで歩くカップル、居酒屋の前で笑い合う友人たち。
すべてが普通に見えた。……私を除いては。
数分歩いて、目的の店にたどり着いた。
『料亭 有栖川』
淡い木の外装に、濃紺の暖簾がかかっている。
控えめで、上品な佇まい。谷口さんが選んだ店だった。
彼はすでに来ていた。
私の姿に気づくと、立ち上がって笑顔を見せた。
髪型は昔のまま。背中は少し広くなったような気がした。
その笑顔は、まるで磨かれた鏡のようだった。
「小百合さん……久しぶりですね。今日のあなた、とても綺麗ですよ」
「お褒めいただき、ありがとうございます。谷口さん」
私たちは、彼が予約していた席に腰を下ろした。
味噌の香りがほんのりと漂っている。
私は緑茶と刺身、ご飯を頼み、彼は味噌汁にコロッケ、そして日本酒を注文した。
昔話に花が咲いた。まるで警察にいた頃に戻ったみたいだった。
同僚のこと、過去の事件、定年を迎えた伊藤警部のこと。
私がヨーロッパに行っていたという設定も話した。
心の整理のためにしばらく海外に滞在していたと。
あながち嘘ではない。けれど、本当の理由ではなかった。
それはどうでもいい。
今日の目的は、たった一つ――彼に触れること。
驚いたのは、谷口さんの演技力だった。
この人が汚職に関わっているだなんて、誰も思わないだろう。
……いや、それもまだ確認中だったけれど。
「小百合さん、もう会えないと思ってました」
「正直、私もあなたがまだ警察にいるとは思わなかった。働くの嫌いでしたよね、給料のためだけに動いてたって印象でした」
「今もいるんですよ。しかも昇進しました。今は大阪府警の沿岸部対策課してます」
「大阪?少し遠くないですか?」
「そんなことありません。あの課は神戸の沿岸も管轄に入ってますから」
「なるほど…今は昔より忙しいんでしょうね」
「まぁ、そうですね。慣れればどうってことはないですけど」
「そう……ちゃんと働くようになったんですね。おめでとうございます」
彼は微笑んで、コートのポケットから何かを取り出した。
使い古された、革のベルトがついた腕時計だった。
「この時計、覚えてますか?巡回中もいつもつけてたやつ。あれからずっと使ってるんです。なんか……縁起物みたいで、手放せなくて。運を呼んでくれる気がして。ははは」
私は笑顔の裏で奥歯を噛み締めた。
……今しかない。
左手の手袋をそっと外し、わざと咳き込んだ。
「……すみません、ちょっと…」
彼は反射的に手を差し伸べてきた。
その瞬間、袖が少し上がり、例の腕時計と共に、彼の手首が露わになった。
私はそっと指先をそこへ触れた。
——時間が止まった。
そして、波が押し寄せた。
「エコー」
——『谷口さんの声。電話で何かの指示を出している』
——『港での密会。複数人。夜』
——『グレーのコンテナ。ゆっくりと閉まる扉。中に……誰か、あるいは何か。沈黙』
——『金。書類。名前が並んだリスト。移送命令』
そこまでだった。
——ちょうど十秒。私に許された限界。
「少し…お手洗いに行ってきますね」
「うん、大丈夫」
立ち上がると同時に、私は手袋を元に戻した。もう、無駄に何かに触れるわけにはいかない。
トイレの鏡の前でバッグから小さな櫛を取り出し、風で乱れた髪を整える。
ついでにメイクも軽く直してから、大きく深呼吸。
そして、またテーブルへと戻った。
……まるで何事もなかったかのように。
——たった十秒だった。
それだけなのに、まるで何時間も精神を削られたような疲労感だった。
テーブルの下で震える指先。腕の奥からじわじわと力が抜けていく感覚。
《あと少しだけ…あと、もう少し……》
何度も何度も心の中でそう繰り返した。
幸いなことに、谷口さんは何も気づいていない様子だった。
彼は刑事課への懐かしさや、私ともっと会いたいといった話を続け、ついには『前よりも綺麗になったね』なんて軽い調子で口説き文句まで…
私は、笑って、頷いて、聞いているふりをした。
……すべてが順調に進んでいるように見えた。
そして、二時間ほどの会話の末、ようやく一番待ち望んでいた瞬間が訪れた。
帰宅の時間だ。
限界だった。頭の奥がズキズキと痛み、目の焦点すら合わなくなってきていた。
伝票が木の小さなトレーに乗せられ、静かにテーブルに置かれた。
金額を見る余裕はなかったが、注文の内容を考えれば、おそらく四千円前後だろう。
谷口さんは、当然のように『ここは僕が』と支払いを済ませてくれた。
店を出ると、夜風が容赦なく私の体に吹きつけた。
冷たさが骨にまで染みる。
いや——
それは、私の体がすでに限界だったからかもしれない。
「駅まで送ろうか?」
彼は丁寧にそう言ってきた。
「……ありがとう、お願いします」
本当は一人になりたかった。翔さんに電話して、迎えに来てもらいたかった。
このままじゃ、家まで辿り着ける自信がなかった。
でも、断る余力なんて残っていなかった。
二人で駅に向かって、いくつかの通りを歩いた。
何を話していたのかは、もうほとんど覚えていない。
視界の端がぼやけ始め、空気は重く感じられ、足の感覚は薄れていった。
最後には、街角に立つ一本の街灯がはっきりと見えた。
白く、冷たい光が、私たちの足元を照らしていた。
——そして、彼の声。
「小百合さん? 大丈夫ですか?」
……そのあとは、何もなかった。
ただ、闇だけ。
***
三宮・神戸。【アスタロトの視点】
2016年11月5日・午後11時。
なぜ私がこんな頼みを受けたのか、未だに分からない。
小百合ちゃんのベビーシッターなんて、私がこの世界に来た理由じゃない。
せめて誰かにぶつかるとか、爆発が起きるとか、バッグを盗まれそうになるとか……何か、何でもよかったのに。
でも違った。
ただのデート。しかもドラマの欠片もない、平凡なデート。時間の無駄だったわ……
私は彼女が入っていた居酒屋の向かいにある、ちっぽけな寿司屋の木製ベンチに腰掛けていた。
古びた提灯が軒先に揺れ、年季の入った大将がまるで外科医のような手つきで握り寿司を出してくれる。
熱燗と、ウニと和牛の握りを二貫だけ頼んだ。
料理が運ばれてくる前、『お酒は君の年齢にはまだ早いんじゃないのか?』と聞かれたけど、もちろん記憶をちょっといじっておいた。
だって、私は千年以上生きてる悪魔なんだから、未成年かどうかなんて意味がない。
何時間も、食べるかどうか迷っていた。やっと一口食べようとした、その瞬間……晩餐は台無しになった。
小百合ちゃんとあの谷口って男が、店から出てくるのが見えた。
彼女の様子はどう見てもよくなかった。きっと、また無理して力を使ったに違いない。
「はあ……いつになったら学ぶのかしらね……」
ため息をつきながら、大将に料金を尋ねた。「千五百円だよ」と言われたので、ポケットから一万円札を出して、「お釣りは要りません」とだけ言って席を立った。
「チッ……ウニと和牛なんて、滅多に食べられないのに……台無しね」
──本当は、いつでも食べられるけど。
気が付けば、人間の悪い癖みたいに、何にでも文句を言うようになっていた。
駅へ向かう二人の背中を追いながら、私は彼女のオーラがどんどん弱まっていくのを感じていた。
嫌な予感がした。
そしてついに、小百合ちゃんが路地を通りかかったところで、崩れるように倒れた。
「ふん……やっぱり翔くんの言った通りだったわね。さてと……あの男の本性、見せてもらいましょうか」
低くつぶやいた私の目が、一瞬だけ光を放った。
谷口が彼女を抱きかかえた。その手の震え……わざとらしい心配顔……
演技が下手すぎて、盲目のキツネでも見抜けるレベルだったわ。
携帯を取り出し、躊躇い……そして止まる。迷っている。
次に浮かべたのは、かすかながらも、はっきりと気持ち悪い笑み。
「……で、救急車は呼ばないのかしら、谷口刑事?」
口には出さなかったけれど、心の中で呟く。
思考を探った。簡単すぎるわ、人間の脳なんて。
『ちょっと休ませるだけだ…何もしない…けど、もし何かあったとしても、俺のせいじゃない…』
『家は遠い…近くにラブホテルがあるな…』
『何もしない…けど、もし彼女が望むなら…』
「はぁ……人間って本当にくだらないわね。欲望に支配されて。本当はやりたくないのに……こういう時はお腹が空いてくるのよ」
口元に笑みを浮かべながら、一歩前へ出る。
彼が小百合ちゃんを抱き上げ、ちょうど近くのラブホテルに向かおうとした時だった。
突然、空気が変わった。
気温が急激に下がり、マンホールから立ちのぼる蒸気が濃くなっていく。
街灯がチカチカと瞬き始めた。
三宮の喧騒はまるでスイッチを切られたように、静まり返った。
まるで、この世界そのものが、沈黙という名の結界に包まれたかのように——
そして、あの男がラブホテルの入口を越えようとした、その瞬間。
私の声が響いた。
冷たい刃のように、静かに。
「……それ以上はやめときな。地獄を見たくなければ、ね」
谷口は瞬きをした。
次の瞬間には、私はすでに彼の目の前に立っていた。
小百合ちゃんを軽々と抱き上げて。
彼は、自分の腕から彼女が消えたことすら気づかなかった。
闇の中で、私の目が彼を見つめる。
ひとつは深紅、もうひとつは金色。
路地全体が、どこか異様な青白い光に包まれていた。
壁には影が揺らめき、空気は冷たく、ねっとりと肌にまとわりついてくる。
「な…なんなんだ、お前は……?」
彼が一歩退きながら、かすれた声で言った。
「私?ただの退屈しのぎの観客よ。でもね、登場人物がラインを越えると……出番が来るのよ。意味、わかるでしょ?」
「い、意味なんて……わからない……私はただ……彼女を安全な場所に連れていこうと……」
「ふふふふふふ……安全ねぇ?」
私は彼の顔を覗き込むように笑った。
「ネオンが光るラブホテルで?安っぽい壁紙の部屋で?あら、たしかに安全ね。誰にも見られずに、やりたいことができるから。そういう意味では……最高に安全かも」
一歩、踏み出す。
彼はまた下がった。
けれど、私の影は床を這うように伸びて、まるで生きているかのように彼の足元まで届いた。
ドクン。
世界の心臓が、一度だけ強く脈打ったような音が響く。
「ち、近寄るな!お前なんか……ただの子供じゃないか……!」
「ふふふ……この姿を見ても、まだただの子供に見えるの?」
私はさらに近づいた。
目が闇の中で怪しく光る。
壁が微かに震える。
物理的な世界の裂け目から、何か大きなものがうごめいているようだった。
灯りは次々に消え、音も消えた。
残ったのは、私の目の光と、彼の荒い息づかいだけ。
そして、彼は膝をついた。
「お願いだ……殺さないでくれ……」
小さく、震える声で懇願する。
私はしゃがみ込み、彼の耳元に顔を寄せて、甘い声で囁いた。
「あたしのこと、怒らせたくなかったら……命令には逆らわないでね?」
その後、私はちょっとした提案を思いついた。
少しでもこの退屈な夜を楽しむために——
「ねぇ、今ちょっと面白いことを思いついちゃったの、健太郎くん……」
「な、何を……?なんでもする!だから……だから殺さないでくれ!頼む!」
「うふふ……そうそう、その従順な態度、気に入ったわ。じゃあね、これからお前には私の耳になってもらう。警察組織の中で起こっていること、全部、私に報告してもらうわ……わかるわよね?」
——腐敗した警察内部のことを指しているのは明白だった。
「そ、それって……」
「そう、その通り。やっぱり頭は悪くないみたいね。なら、細かく説明する必要もなさそう」
彼は何も言わなかった。
その顔には、現実を受け入れられないという絶望が浮かんでいた。
「それと、もう一つ……もしその口を余計に開いたら……その時は——」
私は彼を見下ろしながら、冷たく微笑んだ。
「お前の体、バラバラになった後……どこを探しても見つからないようにしてあげる。神様だって助けられないほどにね。うふふふ」
その目で彼の魂を射抜いた。
契約書なんて必要ない。
言葉はすでに、炎のように彼の意識に刻み込まれた。
——小百合ちゃんや翔くんの時とは違う。
この男は腐ったゴミ。苦しむ価値さえない人間。
「契約成立……これでまた、面白くなってきた」
私は彼に背を向けた。
「さ、帰りなさい。明日、お前のところに遊びに行くから。変な真似をしたらどうなるか……わかってるわよね?これは夢じゃない。現実なのよ」
谷口は、影の中をほとんど這いながらその場を後にした。
私は小百合ちゃんをもう一度見下ろした。
彼女はまだ気を失っていた。
頬に触れると、冷たかった。
「はぁ……やっぱり翔くんの言った通りになったじゃない……一体、あんたをどうしたらいいのかしらね、小百合ちゃん」
私は小さくため息をつき、その小さな体を腕に抱えたまま、影の中へと溶けていった。
***
御影・神戸。【天宮翔の視点】
2016年11月5日・午後11時45分。
御影——
坂道を縫うように伸びる静かな住宅街。薄暗い街灯がわずかに夜を照らし、塀の高い邸宅が並ぶ。石造りや落ち着いた色合いのコンクリートの壁、手入れの行き届いた生け垣、まるで彫刻のように佇む老木の桜たち。
ここには看板もなければ、騒音もない。コンビニの明かりさえ届かない。聞こえるのは、遠く阪急電車が芦屋方面へ滑り込む音だけだった。
俺は、近所でもっとも目立たない一軒の前で立ち止まった。
黒い門、インターホンの脇に取り付けられた監視カメラ、名札のない小さなプレート。——金持ちのさりげない主張ってやつだな、と思った。
インターホンを押す。
「天宮です。渋木さんにお話があります」
内心では『さん』付けするのも癪だった。
だが、ここで余計な波を立てたくはない。無駄な衝突を避けるのが今の俺の役目だ。
しばしの沈黙の後、機械的な音と共に鍵が開いた。
出迎えたのは、年季の入った無表情な執事だった。無駄のない所作。まるで呼吸よりも仕えることの方が自然だという風だった。
石畳の小道を進むと、現代的な和風照明が足元を照らす。
屋敷の中は、予想通りの光景だった。
磨き上げられた床、無駄のないアートが飾られた壁、高い天井。すべてが金の匂いを感じさせながら、決して押しつけがましくない。
奥の離れにある応接間へと案内された。
そこにいたのは——渋木廉次郎だった。
高そうなガウンの下に、くしゃくしゃのシャツ。
手にはウイスキーのグラス。目は疲れ切っていた。
久々に会ったが、あの時よりも老けて見えた。
罪悪感と後悔の違い——それがよく分かる男だった。
誘拐された娘の影が、彼を確実に蝕んでいるのだろう。
「翔くん……まさかまた、うちに来るとはな。こんな時間に……一体どうした?」
彼の低い声が部屋にこもった。
俺は腕を組み、部屋をざっと見渡した。
灰皿には吸い殻が山積み、テーブルには雑に折られた書類と、空になりかけた山崎のボトル。
他は、建築雑誌から飛び出してきたような完璧さだった。
「……さて、金持ちってやつは、夜中でも余裕ってわけか」
「時間がない。単刀直入に聞く。
……誰に脅されてる、渋木?」
言い切ったその瞬間、男の喉が動いた。
グラスを置くその手が、僅かに震えていた。
「……ふぅ、やはりこの時が来るとはな。……話すよ」
諦めたような口調。
その言葉の裏には、喉元に突きつけられた刃のような緊張が隠れていた。
「数年前の話だ……港の仕事が拡大していた頃、俺はある連中と手を組んだ。
——港湾の裏口に通じてるような連中さ。通関、許可証、荷役区域への出入り……そういった融通を効かせてくれる人たちだった」
「当然、警察も目をつむっていた。俺は金を払い、奴らは黙る。それで成り立っていたんだよ……それが壊れたのは、俺が抜けようとした時だった」
「……いつからだ?」
「六ヶ月前だ。俺は、テクノロジーや不動産なんかに投資を始めて……この世界から足を洗おうとした。クリーンになりたかった」
「でも、知りすぎてたせいで逃がしてもらえなかった……ってわけか」
彼は黙ってうなずいた。その目は、手の中の空のグラスと同じくらい空っぽだった。
「最初は……ただの警告だった。けど、すぐに事故が続いた。倉庫のひとつが焼け落ち、妻は通りで何者かに付きまとわれ……それから、命にも……携帯に届く、匿名のメッセージ。曖昧で、でも毎日のように続く脅し……まさか、ここまでやるとは思ってもみなかった」
「犯人の正体、わかってるのか?」
「……一年前なら、はっきり答えられた。だが今は……自信がない」
「どういう意味だ?」
「昔の取引相手は、もっと年配だった。古臭い連中だったんだ。だが最近は違う。若くて、妙に狂信的な奴らが中心になっている。港に出入りする誰かが言ってたよ……新興宗教団体と関係しているってな。その宗教が港を支配し始めてるって……警察の中にも、政治の世界にも、その手が伸びてるそうだ」
思わず息を飲んだ。
あの宗教団体の存在は俺も掴んでいたが……
政治の世界にまで関与しているとなると、もうただの狂ったカルト集団では済まされない。
何か、もっと大きなものが背後にある。
「ヤクザはどうした?」
「……手を引いたよ。『港に手を出すな。輸送ルートに影響が出る』ってさ。だからこそ……健三からお前が動いていると聞いた時、俺は……すがるように、お前を頼った」
「……ゴミと取引して、自分に都合が良くなったら捨てようとした。でも失敗して、今さら被害者ヅラか?金で罪が消えると思ったのか?」
俺は立ち上がった。
彼は視線を落とす。
「何が一番ムカつくか、わかるか?」
渋木は何も答えなかった。
「家族を守るとか言いながら、実際にはその家族を駒に使ったことだよ。お前のくだらないゲームのせいで……娘が危険に晒されてる。それが、裏社会で一番やっちゃいけないことだ」
声のトーンは静かだったが、その奥に宿る殺気は明確だった。
「じゃあ、その娘がいま、どこかで泣いてるのも、全部あんたの家族思いのせいか」
俺の言葉の後、部屋に静寂が落ちた。
グラスの中で氷がカラリと鳴る音だけが響く。
「名前を出せ。この二年間で関わった連中、港の労働者、警備、仲介業者……命の携帯の通話履歴、監視カメラの映像があるなら全部渡せ。それから、あの宗教団体について知ってること……一つ残らず、全てだ。いいな?」
「……データは、全部デジタルで保存してある……明日の朝一番に送るよ」
「……今夜中にやれ」
渋木は、まるで罰を受けるかのようにうなずいた。
「翔くん……」
俺は扉に向かう途中で足を止めた。振り返る寸前、背中越しに声が届いた。
「……どうか、娘を助けてくれ。金なら、いくらでも払う。何だってする……」
すぐには返事をしなかった。
しばらく沈黙の後、視線はそのままで、ただ一言。
「……俺が求めてるのは、情報だけだ。それ以外のことは……全部、俺に任せろ」
ゆっくりと歩を進め、扉の前で最後に呟いた。
「なあ、渋木……覚えておけ。この世界に足を踏み入れた時点で──
もう、元には戻れねぇんだよ」
背を向けたまま、その屋敷を後にした。
神戸の冷たい夜風が頬を撫でた。
夜明けはまだ遠い。
だが、街はまだ──多くの秘密を隠している。
次回・『予想外の展開、動き出す時。』
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