第4章。 『闇に沈む港。』
『闇に沈む港。』
神戸での事件から数日後——。
かつての上司渋木廉次郎のもとに呼び出された翔と小百合は、新たな失踪事件に巻き込まれていく。
行方不明になったのは、彼の一人娘渋木命。
制服姿のまま姿を消した少女。
監視カメラに映った最後の足取りは、堺泉北臨海工業地帯——
そして『月輪教団』の痕跡。
封鎖された港、歪な記憶の残響、誰にも語られない真実。
深夜のコンテナヤードで、二人は触れてはならない闇に手を伸ばす。
「もしも、娘がまだどこかで生きているなら——」
少女の命と過去の罪が交差する、第二の幕が静かに上がる。
天宮・翔
相沢・小百合
千田・勝
渋木・廉次郎
渋木・命
谷口・健太郎
佐伯・健三
月輪教団
向陽学園
魚常居酒屋
新開地・神戸。【天宮翔の視点】
2016年11月3日。『文化の日』午前9時30分。
雨は一息ついたようだった。神戸の空は薄いヴェールをまとい、どこか息を潜めているように見えた。今日は文化の日——『文化の日』——学校は休みで、役所も閉まり、電車でさえ心なしかのんびりしている気がした。この騒がしい界隈にしては、妙に静かな朝だった。
せっかくの祝日だったので、ようやく千田勝の事件で荒れ果てた事務所の整理を進めることにした。床には書類が散乱し、ファイル棚は分類されぬまま、あちこちにホコリが積もっていた。小百合さんはもう一時間以上も黙々と掃除をしている。俺はというと、外付けと室内の監視カメラをチェックし、使えそうなコードの選別をしていた。絡まりすぎて蛇の巣のようだった。
「ねぇ、全部捨てて散歩でも行かない?」
アスタロトがソファから声をかけてきた。相変わらずマンガを逆さまに読みながら。
「おい、手伝えよ……」
俺は横目で睨みながら答えた。
「手伝うのは契約に入ってないし、そもそも私、ここのボスだもん、ふふふ〜」
彼女は猫のように伸びをしながら、空になったクッキーの袋を床に落とした。
「それにさ、あんまり綺麗すぎると迷える魂の溜まり場っぽさが失われるでしょ?」
小百合さんは口元を手で覆い、笑いをこらえていた。俺はこらえなかった。
「この事務所に魅力がある日が来たら、清酒を一本奢ってやるよ——葬式のときにな」
「わぁ、翔くんひど〜い!小さな女の子にそんな冷たい言葉をかけるなんて……
でもまぁ、お葬式には俺がちゃんと出席してあげるから安心して〜、あはは!」
俺は手元の雑巾を投げつけたが、彼女は器用に避けた。
その数分後、突然ドアが開いた。何の前触れもなく現れたのは、いつも通りきっちりとした身なりの佐伯さんだった。グレーのウールコートをさっと払ってから、軽く頭を下げる。その所作は昔から変わらない。俺たちはもう長い付き合いだが、彼は常に礼儀を忘れない——五十を過ぎた大人の男として、当然か。
「皆さん、おはようございます、お邪魔でなければいいんですが」
「邪魔されたのはこのケーブル地獄だけです」
俺は絡まった配線の塊を持ち上げて見せた。
「相変わらずですね、翔くん……じゃあ、ちょうどよかった。悲劇を未然に防げたようで」
彼は打ち合わせ用のテーブルに腰を下ろした。小百合さんは黙ってコーヒーを入れに行き、アスタロトはもちろん、ソファから一歩も動かなかった。
「四日前にメッセージで話した仕事の件ですが、情報がまとまりました。依頼人は極秘を条件に、至急対応を求めています」
「へぇ?もう諦めたのかと思ったよ。四日も経ったしな」
俺は鼻を鳴らして応じた。
「いや、むしろこの数日間で、依頼人は手元にある情報を整理し、ようやく本格的に動き出せる状態になったんです」
佐伯さんは、いつものように無駄のない動作で書類の入ったフォルダーを広げ、一部ずつ手渡してきた。
『氏名:渋木命。16歳。六甲アイランドにある私立高校に通う女子高生。失踪したのは五日前、10月30日午後3時ごろ。最後に目撃されたのは、島内の通りで灰色のセダンに乗り込む姿でした。防犯カメラはその車両が阪神高速に乗るところまで確認されていますが、堺港エリアの映像は……紛失した状態です』
その言葉に、小百合さんと俺は同時に眉をひそめた。
「……妨害か?」
「どちらかといえば、隠蔽ですね」
飾り気のない口調で、佐伯さんは応じた。
「いくつかの筋から情報を得ましたが、そこまで深くは追えていません——あなたなら、お察しですよね」
視線は小百合さんに向けられていた。
俺は腕を組んだ。
「ふん……で、その依頼人ってのは?」
「渋木廉次郎。表向きは自営業者として知られていますが、実際にはいくつものペーパーカンパニーを操る実業家です。ヤクザとの関わりもあります。あなたには、昔の知り合いだったよな?」
その名前が口から出た瞬間、冷気が胸を走った。
渋木——。もう五年近く聞いていなかったその姓。
脳裏に一瞬浮かんだのは、薄暗い部屋と煙の充満する空気、そしてテーブルの上の札束入りのブリーフケース。それから、あの低く重い声。
「――奴らを始末すれば、もう家族には手を出せない。そして君たちは…たっぷり報酬を受け取ることになる」
「チッ……覚えてるよ」
俺は詳しいことは伏せて答えた。
「昔、少しだけ仕事を受けただけだ。血は流れてない」
……《あの時の依頼、本当に血は流れなかったのか?》
「私は佐伯さんを信じてます」
小百合さんが口を挟んだ。どこか不安げな視線で俺を見つめながら。
「でも、その方がそんな評判なら……信頼してもいいんでしょうか?」
「君の言う通りだ。俺も佐伯さんを信じてる。だから、彼がその依頼人を信用してるなら——それで充分だ」
誰もそれ以上は言わなかった。
アスタロトがようやく身を起こし、読んでいたマンガを床に落とした。
「ふぁぁ……ようやく退屈から解放されるのねぇ。もうすこしで、みんなの魂を奪って遊ぼうかと思ったわ〜」
「チッ……クソガキが」
俺は佐伯さんにその小芝居がバレないよう、声を抑えた。
……あの人、もう彼女のことを『中二病の小学生』だと思ってるかもしれないな。
***
三宮・神戸。【天宮翔の視点】
2016年11月3日・午後8時17分。
北野町に着いた時、小百合さんはすでに自宅の前で待っていた。
その時間になると空気が冷たくなってきていたが、朝の雨の名残が湿った香りとなって漂っていた。
彼女は黒のウールコートに淡いグレーのマフラー、落ち着いたブーツと革のバッグ。
手にはいつもの手袋。髪は片方にまとめ、控えめだが丁寧な化粧。
——派手ではないが、洗練されている。仕事に臨む覚悟が、服装ににじんでいた。
俺は、濃いグレーのジャケットに黒いシャツ、同色のパンツ。
フォーマルすぎず、それでいて元ヤクザには見えないように——いや、そう見えたかもしれないが。
「ちょうどいい時間ね」
彼女が助手席に乗り込んできた。
「時間通りが、俺の特技だからな」
「……緊張してる?」
「なんでだよ」
「だって、クライアント。知り合いなんでしょ?」
「昔な。けど、人は変わる」
北野町から元町へ。運河沿いの高架橋を渡って三宮へ向かう。
この時間帯、街の表情は違って見える。人通りは少なく、ウィンドウに映る光は温かい。
車はのんびりと流れ、金曜夜のような喧騒はなかった。
路地裏に車を停めると、赤ちょうちんが並ぶ飲食街が見えた。
その中にあるバー『夢幻』——看板すらない。木製の引き戸に窓はなく、店内からはごくわずかな音楽が漏れていた。
——そういう店だ。何かを隠したい連中が、静かに会える場所。
中は、タバコの煙と琥珀色の照明で満たされていた。
奥の予約席にはすでに4人がいた。渋木廉次郎、筋肉質の護衛2人、そして佐伯さん。
彼の前には手を付けていない水のグラスが置かれていた。
渋木は、俺の記憶よりも老けて見えた。
昔はもっと濃かった髪は白くなり、頬骨が目立つ。目は落ち込んでいた。
高級スーツにブランド物のマフラーを適当に巻いている。
高級なウィスキーのグラスを、まるで毒でもあるかのように持っていた。
「久しぶりだな、翔くん……こんな形でまた会うとは思っていなかった」
「俺もだよ」
笑いは返さなかった。
小百合さんは軽く頭を下げた。渋木は一瞬だけ彼女に目を向けると、無言で着席を促した。
佐伯さんは依然として無言だった。
「来てくれてありがとう。説明は難しいが、単刀直入に言う」
渋木はテーブルに資料を置いた。中には十六歳くらいの少女の写真が何枚も入っていた。
明るい茶色の髪、柔らかい顔立ち、制服姿——どれも笑顔を浮かべていた。
「娘の命だ。16歳。成績は優秀、問題行動もなし。六甲アイランドの私立高校に通っていた。10月30日、友達とカラオケに行く予定だったが、姿を消した。警察によると、途中で車に乗ったらしいが、それ以降の足取りはわからない」
一度、言葉を止めてタバコに火をつけた。その手は震えていた。
俺は資料をめくった。1ページに詳細が記されていた:
『命が最後に目撃されたのは学校を出た直後。だが友達との約束のカラオケには現れなかった。15時12分頃、学校近くの交差点で、制服姿の少女がグレーのセダンに乗り込む姿が防犯カメラに映っていた。その車は阪神高速5号湾岸線を南下していたが、堺の港湾工業地帯に入ったところで、記録が途切れている。警察の説明では『システムエラー』で映像が消えたとのこと。だが、隠蔽の可能性を疑っている」
「公式には、この男が担当だ」
新しい写真が差し出された。三十代半ば、四角い顎、写真でも険しい表情。
「谷口健太郎…」
小百合さんが写真を手に取り、数秒黙った。
「知ってるのか?」
「ええ。私が現職だった頃に何度か同席したことがある。出世が早いのは納得だけど……嬉しくはない。昔から命令に忠実なだけの男だったけど、最近は内部圧力や貸し借りの噂もある。私はそれを拒んで辞めたけど、彼は逆にそれで上に行ったのね」
渋木はウィスキーを一口飲み下す。それだけで言葉の重みが増した。
「何度も進展を聞いたが、『捜査中です』しか返ってこない。命は今頃、どこかのコンテナで外国に送られてるか、もっと最悪なことになってるかもしれない…」
沈黙。
「健三から、今のお前の仕事を聞いた。昔なら笑ってたかもしれない。理由は……分かるだろ?」
「分かるよ」
短く答えた。
「でも今は、他に頼れる相手がいない。ヤクザにはもう頼らない……もう、借りは作りたくない。お前なら分かるだろ?」
もちろん分かっていた。
借り——血で払うもの。沈黙で繋がれるもの。一生消えない負債。
渋木は封筒を滑らせた。俺が開くと、中には丁寧に折り重ねられた一万円札の束。
一目見て分かった——ざっと200万、いや、それ以上かもしれない。
「前金だ」
彼は俺を見ずに言った。
「娘を連れて帰ってくれれば……それ以上も出す。俺は約束は守る人間だ、知ってるだろ」
「……」
それ以上、何も言わずに席を立った。
佐伯さんも黙ってついてきて、車を止めた路地裏まで一緒に歩いた。夜風が冷え込み、空は灰色の雲で覆われていた。
「佐伯さん、ありがとう。あなたがいなければ、今頃まだ何も始まってなかった」
俺は封筒から札束の一部を取り出し、差し出した。
「あなたもチームの一員ですから、受け取ってください」
「久しぶりだな、こうして本物の仕事をお前とするのは」
佐伯さんは飾らずにそれを受け取った。
「こちらこそ」
車内では、小百合さんはずっと黙っていた。
やっと北野通りに差し掛かった時、ようやく口を開いた。
「……本当に渋木を信用していいの?」
「わからない。でも……君なら、信用できる」
彼女は顔をこちらに向けた。笑わなかったが、その目は優しかった。
「まあ……組織を潰すとかじゃなくて、娘を取り戻すだけだもんね」
「その通り」
助手席の足元から封筒を引き出して、彼女に手渡した。
「これ、任せた」
「え?」
「管理してくれ。俺が持ってたら……多分、ギャンブルに全部使う」
「私が逃げたらどうする?」
「だったら、俺が破産する前に助かったってことさ。どうせアスタロトのおかげで、地獄でも再会するだろうし」
彼女はくすっと笑った。
数日ぶりに、空気が少しだけ軽くなった気がした。
……でも、現実は変わらない。
「明日から本格的に動こう。時間がない」
彼女はうなずいて、車から降りた。
家に入っていく姿を見送ってから、俺もエンジンをかけた。
風が強くなっていた。
嫌な予感がしていた。
堺で俺たちを待っているもの——それは、決して心地よいものじゃない。
***
六甲アイランド・向陽学園付近。【相沢小百合の視点】
2016年11月4日・午後12時23分。
車内は暖かく、空はどんよりしていたが、神戸の街にはどこか平穏さがあった。
私は助手席に座り、紺色のコートに身を包んでいた。淡いグレーのマフラー、髪は今回は片側に流しておろしていた。お馴染みの黒い手袋に、チャコールグレーのタイトスカートと厚手のタイツ。
――身なりは、世界に向けた盾にも、警告にもなり得る。ずっとそう信じている。
アスタロトは後部座席で足を背もたれに乗せながら、先月のファッション雑誌をまるで魔導書のように読みふけっていた。いつもの黒いワンピースの上に、誰かの物らしいオーバーサイズのジャケットを羽織っている。
「ねえ、小百合ちゃん、地獄の門って何時に閉まるか知ってる?」
雑誌から目を離さずに聞いてきた。
「さあ……午後五時くらい?」と適当に答えた。
「なら、黙示録の前にコーヒー一杯いけるね」
くだらない冗談だった。本人も笑わなかった。
翔さんは何も言わなかった。
阪神高速32号・新神戸トンネルを抜け、静かな灘区の市街地へと下っていく間、彼はただ黙ってハンドルに集中していた。
その横顔には余計な感情も言葉もなかったけれど、不思議とその沈黙には安定した静けさがあって、私の中の不安を少し和らげてくれた。
やがて私たちは阪神高速5号湾岸線に入り、六甲アイランドブリッジへと差しかかった。
午後のその時間帯、交通の流れは穏やかで、高架橋の上から見える景色はまるで静止した一枚の風景画のようだった。
沖には動きを止めた貨物船がぽつりぽつりと浮かび、
空は重たげな灰色に染まりながら、水平線と曖昧に溶け合っていた。
六甲アイランド——久しぶりだった。
この人工島は、まるで別世界のようだと思っていた。整然とした庭園、外国風のショップのショーウィンドウ、英語名のマンション……
犬を連れて散歩するのはお手伝いさんで、問題はすべて金で掃き清められる。
そんな場所。
向陽学園は、神戸ファッションマートの近くにあり、スチール製の門とスモークガラスの現代的な校舎が並ぶキャンパスだった。
入口の掲示板には一枚の紙がテープで貼られていた:
『お知らせ:生徒の安全を考慮し、吹奏楽部の活動を一時中止します。』
「やっぱり、取り繕ってるわね…」
私がそう呟くと、アスタロトが肩をすくめた。
「当たり前じゃん。生徒誘拐事件のためなんて書いたら、保護者が発狂するでしょ」
翔さんは校舎をじっと見ていた。まるで建物の構造から何かを読み取ろうとしているかのように。
私たちは車を降りて、周囲を一周したが、職員らしき人間は一人もいなかった。どうやら学校側は、外部者との接触を断っているようだった。
帰ろうとしたその時、門の角で電話をしている女子生徒の姿が目に入った。
「すみません、ちょっとお時間いいですか?」
私は彼女に声をかけた。
最初は警戒されたが、表情と口調の真剣さが伝わったのか、彼女はそっとうなずいた。
「……何かご存知でしょうか?」
「渋木命さんのこと、知っていましたか?」私は単刀直入に訊いた。
「はい…同じ部活でした。私はクラリネットで、彼女はピアノでした」
彼女は黒髪で、両側に少し髪を垂らし、残りは後ろでまとめていた。制服のブレザーは首元まできちんとボタンを留めていて、緊張した様子は見せていたが、怯えているわけではなかった。
「失踪した日、命さんに何か変わった様子はありましたか? 普段と違う行動とか」
「うーん…特には…あの日は月曜日で、授業はいつも通り三時に終わって、三時半から部活の練習がありました。でも、彼女は『先に行ってて』って言って…そのまま来ませんでした。私はてっきり、他の子たちとカラオケに先に行ったのかと思って…」
「命さんが校舎を出るのを見ましたか?」
「いえ…南門から出たって、他の子が言っていました。その時間は、先生も近くにはいなかったと思います」
私は彼女をじっと見つめた。動作は柔らかく、視線はまっすぐだが、どこか張り詰めていた。だが、それは不自然なものではない。普通の緊張だった。不安や恐れではない。
「本当に、その日、何もおかしなことはなかった? 変なメッセージとか、誰かにつけられてるような感じとか」
「いいえ…命ちゃんは明るい子でしたけど、どちらかと言えば大人しくて、家のこととか恋愛のこととか、あまり話すタイプじゃなかったです。何か悩んでても、自分から言うような子じゃありませんでした」
私はうなずいた。もしこれが別の状況なら、彼女のクラリネットや鞄に触れて、何かしら『レジデュアル・エコー』を使って手がかりを探ることもできただろう。でも、今はそんな簡単な状況じゃなかった。
その時、翔さんが後ろから近づいてきた。彼は彼女に一瞥を向け、その言葉の重みを計るように観察した。そして、私に目配せして、静かに言った。
「大丈夫、嘘はついていない」
彼のその一言で、彼が『クリミナル・イヤー』を使って彼女の内心を見ていたのだと気づいた。
私は腕を組んだ。
「話してくれてありがとう。もし何か思い出したら、ここに連絡をください」
そう言って、私たちの事務所用に新しく開設した番号が書かれた名刺を彼女に渡した。
私たちはゆっくりと車へ戻りながら歩いた。
「誰でも犯人になり得るのよね…」私はつぶやいた。喉の奥に悔しさがつかえていた。
「せめて、彼女がその日に使っていたものに触れられれば、レジデュアル・エコーで何か得られたかもしれないのに…」
「きっと手がかりはある。まずは、最後に彼女が目撃された場所まで行こう」翔さんはそう言って頷いた。
車に戻り、再び高速道路へと向かう中、アスタロトが大げさにあくびをした。
「で、次はどこ? ランチタイムかな?」
「今から行くよ」翔さんが言った。
「防犯カメラの映像によると、あの車は堺泉北臨海工業地帯に入っていった……で、その先の映像が、ちょうど都合よく消えてる」
「もし誰かが彼女をそこまで連れて行ったのなら、何か痕跡を残しているはずだ。小百合さん、お前の能力が必要になる」
私は無言でうなずいた。収穫は少なかったが、少なくとも、向かうべき場所ははっきりした。
あの灰色のセダン、途切れた映像――すべてが、堺へと繋がっていた。
六甲アイランドから堺泉北臨海工業地帯へ向かう道のりは、阪神高速5号湾岸線を通るルートだった。魚崎から高速に入り、神戸港を左に見ながら東へ。六甲アイランドを背にして進むにつれ、風景は少しずつその表情を変えていった。
最初は整然とした街並みや学校のグラウンドが続いていたが、大阪に近づくにつれて、景色は次第に剥き出しになっていった。倉庫、工場、看板のない倉蓄、時折現れるサビだらけのシャッター。遠くには、使われているのかも分からないクレーンと煙突。街が化粧を落とし、素顔を見せているような、そんな場所だった。
午後3時を少し過ぎた頃、堺泉北港の入り口に差しかかった私たちは、警察のパトカーに進路を阻まれた。
「すみません。ここから先は立ち入り禁止です。今朝、化学系の倉庫で爆発がありまして。現在、関係者以外の立ち入りはご遠慮いただいています」
翔さんが無言で偽のIDを差し出した。警官はそれを一瞥しただけで、首を横に振った。
「申し訳ありませんが、今日は無理です。本部からの直接指示ですので。今はトラックすら通行を止めています」
仕方なく私たちは車を転回し、港を後にした。帰り道、翔さんは一言も口をきかなかった。
やがて尼崎近くの小さなガソリンスタンドに車を停めると、ようやく私たちの方を向いた。
「今夜、戻る。誰かがここまでして隠したいものがあるなら……それだけの価値があるはずだ」
私は黙ってうなずいた。海風に混じる鉄と潮の匂いが鼻を突いた。胸の奥がきゅっと縮まったのを感じた。直感かもしれない。あるいは——もっと大きな何かの、始まり。
***
魚常居酒屋・堺港湾地区。【相沢小百合の視点】
2016年11月4日・午後8時41分。
空気には揚げ魚と古びた木の匂いが漂っていた。
その居酒屋は、わずか五つのテーブルと、何十年も前からそこにあるような擦り切れたカウンターがあるだけの、小さな店だった。吊るされた提灯がぼんやりとした橙色の光を放ち、客たちの顔を照らしていた。ほとんどが漁港帰りのような年配の男たち。防水ジャケットに潮風で荒れた顔、無言のまま湯呑みや焼酎のグラスを握っていた。
私たちは三人で奥のテーブルにいた。
隣のアスタロトは、こっそり注文したビールを堂々と飲んでいた。未成年のはずなのに、『年齢制限は人間の都合でしょ』とか言いながら、串に刺さったうなぎの身を口に運んでいた。
翔さんはスマートフォンを手に、画面を見つめたままだった。きっと、どこかに影響力を行使して港への道をこじ開けようとしているのだろう。
「警察の配置に変化はない。相変わらずの言い訳——化学倉庫のガス漏れによる爆発ってやつだ。一般の立ち入りは今も禁止されたまま」
翔さんは声を上げずにそう呟いた。
「じゃあ、私たちはここで観光客のふりでもしてるの?」
私は緑茶をひとくち啜りながら聞いた。
「時には、夜を待たなきゃ本当のものは見えないこともある」
彼の言葉には詩的な響きよりも、どこか諦めに近いものが感じられた。
魚常は、九〇年代で時が止まったような居酒屋だった。カセットで流れる古い音楽、チョークで書かれた手書きのメニューが油染みた黒板に貼られていて、角に置かれた小さなテレビはローカルニュースを流していた。六十代くらいの女将が唐揚げと白ご飯、それに漬物を運んできた。
アスタロトはその様子に満足げにため息をついた。まるで堺に来た目的を忘れたかのように。
悪魔のくせに、人間の食べ物をやたら気に入り、人間社会にも不思議なほど馴染んでいた——彼女独特の性格も手伝ってか、そういう姿を見るたびに、私は何とも言えない気持ちになる。
店を出ると、風向きが変わっていた。海が近い。肌に感じる湿気と冷たさがそれを教えてくれる。
主要ルートの港湾入口は、まだ警察によって封鎖されたままだった。翔さんはもう一度、偽の身分証で突破を試みたが失敗に終わり、眉間に皺を寄せたまま、佐伯さんに電話をかけた。数分の会話の後、携帯をしまいながら戻ってきた。
「昔使われてた裏道があるらしい。未申告の貨物用に使われていたルートで、今は閉鎖されてるが、監視はされていない。工業用運河沿いの側道を進み、西川の廃コンテナ工場を過ぎたあたりの古い搬入口を曲がると出るそうだ」
運転席に戻った彼の声は静かだった。
車内は沈黙に包まれたまま、私たちはその古い道を目指した。錆びた工場、色褪せた看板、積まれたコンテナ。重たい湿気が肌にまとわりつく。電柱の上では電線がじりじりと鳴り、海のざわめきが背景に混ざっていた。
未舗装の細い下り坂を抜けた先、錆びたガードレールが朽ちた桟橋の入口を遮っていた。その向こうに、古びた倉庫の影が曇天の下に浮かび上がっていた。港の遠い照明が、疲れた瞳のように瞬いている。
車を停めると、私はすぐにドアを開け、ガードレールへと歩み寄った。手袋を外し、右手でその金属に触れる。
瞬間、強いエコーが私の中に流れ込んできた。
——甘い香り。花のような、軽やかで、それでも残る香り。
——女性の声。かすれていて、恐怖に濡れていた。
——足音。擦れるように、必死に。絶望を引きずるように。
私は息を止め、金属にしがみついた。
「……小百合さん」
翔さんが近づいてきた。
「ここに……いたわ」
彼は目を閉じ、静かに集中した。視線が遠くの何かを捉えるようにぼやけていく。アスタロトは黙ったまま、ただじっと様子を見ていた。
「……雑念ばかり。退屈そうな警備員、クレーンのオペレーター……夕飯のこと、奥さんの愚痴……」
翔さんの眉間にまた皺が寄った。
「……ひとつだけ、違う声」
彼は緊張した面持ちで口を開いた。
「鎮静済み……叫ばない」
その一言が、針のように私の全身を貫いた。首筋に冷たいものが走る。
私たちは倉庫の裏側へと回り込み、海へと続く傾斜を見つけた。杭の影に隠れるように、その道は存在していた。
そこで私は見つけた。
柱のひとつに描かれた、かすれた落書き。潮風に晒され、今にも消えそうになりながらも、その形はまだ読み取れた。
満月に重なるように描かれた、歪んだ五芒星——月輪教団の紋章だった。
「翔さん……見て」
彼は私の隣で、立ち止まった。
「やっぱり、こいつらが関西で起きてる悪事のほとんどに関わってるって話…本当だったんだな…」
翔さんの声は怒りで震えていたが、自制が勝っていた。
私はその落書きに近づいた。
危険だと分かっていた。けれど、触れずにはいられなかった。
指先でそっとなぞった瞬間、世界が割れるような強烈なエコーが私を襲った。
――男たちの笑い声。
――命令の声。『急げ、船へ』
――フードをかぶった男が、少女を引きずっていく姿。
――抵抗する女の子の恐怖と、無遠慮な手。
――銃声。
――そして、静寂。
膝から崩れ落ちた。目が焼けるように痛く、指先が震えて止まらなかった。
「小百合さん!」
翔さんが私の体を支えた。
「……大丈夫。ちょっと、強すぎただけ……」
アスタロトが無言で隣にしゃがみ込んだ。
彼女の瞳には、珍しく心配の色が浮かんでいた。
翔さんは私をゆっくり立ち上がらせながら、静かに言った。
「今日はもうやめよう」
その口調には、逆らう余地がなかった。
私たちはしばらく、ただ黙って海を見つめていた。
波が杭に打ちつける音が、まるで秒読みのように響いていた。
もう疑う余地はない。
渋木命は、ここにいた。そして……月輪教団も。
彼女が味わっている地獄は、きっと、私たちのすぐ近くにあった。
***
阪神高速道路。【天宮翔の視点】
2016年11月4日・午後11時52分。
フロントガラスの内側がうっすらと曇っていた。
潮の匂いと、どうしようもない疲労感が漂っていた。
高速道路は、濡れたアスファルトの帯のように目の前に延び、
時おりちらつく街灯が、その静けさを際立たせていた。
堺から湾岸線を通って、再び阪神高速へ戻った。
この時間、ほとんど車はいない。遠くにトラックのライトが見えるだけで、エンジン音が沈黙の中を満たしていた。
小百合さんは一言も発さず、助手席で窓の外を見つめていた。
顎をマフラーに預け、その表情に痛みはなかったが、疲れは隠しきれていなかった。
彼女の指が、手袋の中で微かに動いていた。
あの残響の余韻を、まだ感じているかのように。
「今日は倒れなかったし、消耗以外は問題なかったな。良かった」
運転から目を離さずに言った。
彼女は少しだけ顔をこちらに向け、微笑みとも呼べないほど小さな笑みを浮かべた。
「あなたのおかげでもあるわ。あなたの繋がりがなければ、港にすら入れなかった…」
その声は小さかったが、しっかりとした芯があった。
その言葉に、指先に残る冷たさが少しだけ和らいだ気がした。
しばらくの間、静けさが心地よく続いた。
「で、私には感謝の言葉なし?あんなに糖度高い会話聞かされて、糖尿病になりそうだったんだけど?」
後部座席からアスタロトが割って入った。
「…あのとき、雑誌読んでたじゃない…」
小百合さんは振り向かずに言い返しながらも、口元にわずかな笑みを浮かべていた。
「ちょっと! 倒れたときはちゃんと雑誌捨てて駆け寄ったんだからね?思いやりが足りないよね~」
アスタロトはわざとらしく拗ねた声を出した。
笑った。
いや、正確には、笑いに似た何かが漏れた。
疲れ切った中で、それでも確かに心を軽くする瞬間だった。
「翔さん…あの港の印……」
小百合さんがふいに口を開いた。その声は、急に重くなっていた。
彼女が続きを言う前に、俺は遮った。
「分かってる」
その言葉に、小百合さんは驚いたように目を見開いたが、
すぐに察した。
それが関心の欠如ではなく、守るための沈黙だということを。
「今は、目の前のことに集中しよう。明日はもっと具体的な手がかりを探す。それに、あの警官——谷口についても調べたい。あとのことは……自然と明らかになるさ」
窓の外に視線を向けた。
神戸の街の灯りが、徐々に近づいてくる。
堺よりは少しだけ暖かそうに見えたが、その危険さは変わらない。
「なあ、小百合さん。堺って……なかなかだったな」
独り言のように呟いた。
彼女は答えず、耳の後ろに髪をかけると、そっと目を閉じた。
俺たちはそのまま進んでいった。
消えかけたネオン、何も照らさない看板の下を、静かに通り抜けながら。
世界は、今夜少しだけ暗くなった。
だが、確かに――
追うべき相手の輪郭が見え始めていた。
次回:『古い知り合いとの再会。』
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
よければ評価していただけると、今後の励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




