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第3章 『帰還なき旅の序章。』

神戸での調査が終幕を迎える。

死亡した男・千田勝の足跡を追う翔と小百合は、ついに『月輪教団』の隠れ家の一つへと辿り着く。

嘘、誘惑、そして儀式——。

小百合が単身で挑んだ潜入の先に待ち受けていたのは、あまりにも危険な真実だった。

一発の銃声が沈黙を破り、

正義と復讐の狭間で揺れる心。

「……これで、終わったのか?」

だが、物語はまだ終わらない。

次なる依頼が届く。

今度の舞台は——堺市。


天宮・翔(あまみや・しょう)  

相沢・小百合(あいざわ・さゆり)  

佐伯・健三(さえき・けんぞう)  

千田・勝(せんだ・まさる)   

千田・香織(せんだ・かおり)  

霧崎・南(きりさき・みなみ)  

月輪教団(がちりんきょうだん)  

月城(つきしろ)


新開地・神戸。【天宮翔の視点】

2016年10月29日・午前10時。


事務所は、いつになく静まり返っていた。

朝の弱々しい光がブラインドの隙間から斜めに差し込み、床にぼんやりと線を描いていた。

昨日の千田香織さんへの聞き取りのあと、俺たちは小百合さんに休みを取るよう勧めた。彼女にはその時間が必要だった。

それでも俺は、アスタロトと一緒に事務所に顔を出した。

小百合さんが休んでいる間に、情報を洗い出すにはちょうどいいタイミングだったからだ。

俺は、千田さんが渡してくれたカードと電車の切符を手にして、その意味を考えていた。

一方、アスタロトはソファで脚をテーブルに投げ出し、スマホを弄りながら、時が止まったような顔をしていた。

これが、千田勝の足取り——そして『月輪教団』の手がかりとして、今のところ唯一手元に残された物だった。

「……ここで天井を見上げてても仕方ねぇな」

俺はそう呟き、カードと切符をジャケットの内ポケットにしまい込んだ。

午前中は静かに連絡を回していた。

小百合さんがいない分、昔の伝手を使いやすかった。神戸の裏社会にまだ残っている顔見知り——借りを作ったままの連中——に、短い言葉で確認を取っていく。

一件一件は小さな繋がりでも、徐々にパズルの形が見えてくる。

午後四時を回った頃、ドアの軋む音がした。

佐伯さんが姿を現した。分厚い資料の入ったファイルを小脇に抱え、年齢を感じさせない落ち着いた足取りで部屋に入ってきた。

その表情はいつもと同じく冷静だったが、瞳の奥には、ほんのわずかな緊張が見えた。

「今のところ、集められた情報だ」

彼は無言でファイルを机の上に置いた。

中を開くと、印刷の荒いパンフレット、近隣住民の囁き声を記した証言、そして陰鬱な場所の写真が並んでいた。

パズルの輪郭が、ようやく見えてきた気がした。

「月輪教団は、思った以上に広がっている。うちの部下がかろうじて掴んだ情報によれば、神戸や大阪だけでなく、関西全域に根を張っているらしい」

佐伯さんの言葉に、俺は頷きながら資料に目を通していた。

「ただな……これは氷山の一角に過ぎない。警察も手を出せないんだ。裏で金が流れてる、少なくとも数十年は活動してる。おそらく日本全体……あるいは国外にも広がっているかもしれん」

静かに頷きながら、ページをめくる。

そのとき、一枚の写真に目が止まった。

それは、教会のような建物の内部を捉えた、ぼやけた一枚。

本来なら十字架が立っているはずの祭壇の位置に、血で描かれた不規則な五芒星と、儀式的な切り傷のような記号が浮かび上がっていた。

心臓の鼓動が、ぐっと早まった。

そして、鼻の奥にあの安物の消毒液の匂いが蘇った。

——あの日、あの死体安置所で見た、あの光景。

「……この写真、どこで手に入れた?」

佐伯さんは一瞬まばたきをし、困惑したように答えた。

「うちの部下が、ある家宅捜索の現場で見つけたそうだ……詳しい経緯までは分からんが、調べてみようか」

何かが、俺の中で切れた。

気がついた時には、俺の拳が彼のシャツの襟元を掴み、机に押し付けていた。

「ふざけるな……!誰がこのクソみたいな写真を撮ったか、正直に言え!」

怒鳴り声は部屋を突き抜けるほどの勢いだった。佐伯さんの息遣いが間近に感じられるほど、俺は顔を近づけていた。

ファイルが床に落ち、チラシや資料が四方に散らばった。

佐伯さんは身じろぎもせずに俺を見つめていたが、俺の目には、もはやその表情すら映っていなかった。

「……翔くん」

アスタロトの声が聞こえた。

それはいつものような軽薄で飄々とした調子ではなかった。

低く、冷たく、まるで空気を凍らせるような圧を含んだ声だった。

俺はわずかに首をひねって彼女の方を見た。

彼女は静かに立っていた。

その双眸は鋭く、深い闇を湛えながら、俺を射抜くように見据えていた。

その存在は、目に見えない重圧となって空間全体を支配していた。

「やめなさい……傷つければ、今まで以上に失うものが増えるだけよ」

その声には、これまでに聞いたことのない力が宿っていた。

一言一言が心の奥底に突き刺さり、俺の怒りを霧のように掻き消していく。

呼吸を整える間もなく、俺の手は自然と佐伯さんの襟から離れ、後ろへと一歩下がった。

「……すみません、取り乱しました」

俺は深く頭を下げ、そのまま散らばった資料を拾い集め始めた。

佐伯さんは黙って自分のシャツの襟を整えながら、俺を見下ろしていた。

そして、静かに口を開いた。

「翔くん、君は根っからの悪人ではない。だが……内に潜む『もう一人の自分』には気をつけなさい。大切な人を、また失うことになるかもしれないからね」

彼の言葉は重く、どこか達観したような響きを持っていた。

俺は無言でうなずいた。心臓の鼓動は、まだ落ち着いていなかった。

「……大阪—神戸間のルートを重点的に調べてもらえますか。西宮、尼崎……どこでもいい。何か手がかりがあるかもしれない」

俺はまだ震える声で言った。

佐伯さんは静かにうなずき、ファイルの一部をまとめて再び腕に抱えると、無言で事務所を後にした。

神戸の空はすでに厚い雲に覆われていた。

俺たちが事務所を出た時、街の空気は湿り気を帯びていて、港町特有の匂いと喧騒が肌にまとわりついてきた。

新開地の細い商店街を横切る人々の声、軋む市電の音、揚げ物の匂い、そして遠くから聞こえる車のエンジン音が、いつものように交じり合っていた。

その間、俺はアスタロトと一言も交わしていなかった。

「……はい、プレゼント」

ふいにアスタロトが言った。

彼女が指差した先には、一台の黒いセダンが駐車されていた。艶のあるボディと洗練されたシルエットが夕闇に映えていた。

「車? ……今朝どこに隠してたんだよ? 地下鉄で来たのに」

俺は眉をひそめた。

アスタロトはにやりと笑った。

「驚いた? サプライズってやつよ。

……それに、そろそろ庶民みたいに電車移動するのも卒業したら?」

「これはプレゼントじゃない。俺の給料から差し引かれるやつだろ」

思わず苦笑いしながら、車を軽く点検して乗り込んだ。

新開地から長田方面へ向かう道は、夕方にしては静かだった。

ネオンが次第に輝きを増し、低い建物の向こうで空は鈍いオレンジに染まりつつあった。

交通量は少なく、港からの潮風が少しだけ窓から入ってきた。

俺はハンドルを握りながら、無言のまま前を見ていた。

だが、沈黙の重さに耐えかねたのか、アスタロトが口を開いた。

「ねえ、翔くん。あのシンボル……あなたを狂わせたね」

俺はハンドルを強く握りしめた。

「……ああ。自分でも、抑えられなかった」

「ふーん……そのままじゃ、母親の仇には辿り着けないよ」

彼女の声には、まるで母親のような叱責の響きがあった。

その言葉が胸に突き刺さった。

俺は深く頷いた。

「……わかってる。次は、冷静にやる」

アスタロトは何も言わなかった。

エンジンの低い唸りと、街のざわめきだけが車内に響いていた。

その静けさを破ったのは、スマートフォンの振動だった。

画面には『相沢小百合』の名前が表示されていた。

「もしもし、休みの日はどう? 少しはゆっくりできた?」

「休み?そんなの俺には縁がないよ。そっちは……ちゃんと休めたか?」

「ちょっと、昨日は休もうって言ったじゃない…あなたこそ、少しは休むべきよ」

「……明日の朝9時。家まで迎えに行く」

俺は彼女の問いをはぐらかし、そのまま通話を切った。

ふぅ、と深いため息をついた。

今日の静けさは、嵐の前の静寂に過ぎない。そんな予感が、胸の奥をざわつかせていた。

***

北野町・神戸。【相沢小百合の視点】

2016年10月30日・午前9時。


玄関のチャイムが、約束した通りの時刻に鳴った。

窓からそっと覗くと、黒いセダンが家の前で静かに待っていた。

淡い朝日の下で艶やかに輝き、北野町のクラシックな街並みにどこか浮いて見えた。

家を出る前、鏡の前で髪を低めのポニーテールにまとめた。濃い色のスキニーパンツに、白の開襟ブラウス。それをグレースモークのジャケットにきっちりと収めた姿をもう一度見直す。

扉を開けた瞬間、まず飛び込んできたのはアスタロトの声だった。

後部座席から半身を窓の外に乗り出し、あの独特なからかい笑顔を浮かべていた。

「おはよう、プリンセス! 君の王子様が迎えに来たわよ~。今日は特別に助手席を譲ってあげる。翔くんは、ちょっとだけ貸し出し中だからね~」

そう言って、手をひらひらと振るその様子は、まるで舞台役者のようだった。

顔が一気に熱くなるのを感じた。

「……くだらないこと言わないでよ」

そう呟きながら助手席に乗り込んだ。

運転席の翔さんは、いつものように無表情で前を見据えていたが、俺が乗るとそっと視線を向けてきた。

「ちゃんと休めたか?」

彼の静かな声に、コクリとうなずきながらシートベルトを締める。

「うん、ありがとう……あなたは? 昨日はやっぱり働いてたんでしょ」

「まあ……ちょっとな」

彼は目を逸らしながら短く答えた。

アスタロトが後部座席から前の二人を覗き込みながら、わざとらしくニヤついた。

「ねえねえ、これってもう夫婦の会話じゃない?私は後ろで静かにしてるから、お二人のラブタイムを邪魔しないようにね~」

そう言いながら、翔さんの肩を軽くトントンと叩いた。

「おい、悪魔……その辺でやめとけ。小百合さんが困ってるだろ」

翔さんは顔色を変えずにそう返したが、口元がわずかに引き締まっていた。

北野町から事務所までの道のりは穏やかだった。古い洋館と洒落たカフェが並ぶ狭い坂道を下り、やがて新開地へと続く幹線道路に合流した。ちょうど通勤時間が落ち着いた頃で、車内からは目覚め始めた神戸の街の様子がよく見えた。阪神電気鉄道の線路を進む路面電車、自転車で歩行者をすり抜けていく学生たち、元町の商店街では店主たちが次々にシャッターを開け、商品を並べていた。

私は黙ったまま車窓を眺めていた。時折、隣にいる翔さんに視線を送る。彼の横顔には、何かを引きずっているような陰りがあった。それが何なのか、彼はまだ口にしていない。

事務所に到着すると、私たちはほぼ同時に車を降りた。中へ入ると翔さんは真っ直ぐ自分のデスクに向かい、アスタロトはソファにどかっと座り込んだ。

翔さんは、昨日佐伯さんから受け取った情報について簡潔に説明を始めた。

「月輪教団は、思っていたよりずっと広がってる。大阪、神戸、そして関西全域にまで影響を及ぼしてるようだ。警察も賄賂で黙らされてるらしい」

そう言って、彼は資料の入ったフォルダーからチラシや写真を取り出して見せてくれた。薄暗い空間に描かれた奇怪なシンボル、簡素な祭壇のようなものが写っていた。

「これ…想像してたより、ずっと根が深いのかも」

私は思わず身震いした。何気なく開いた一枚の写真に、嫌な予感が背中を走った。

翔さんは黙ってうなずいたが、その表情は相変わらず読み取れなかった。声をかけようと思った矢先、彼の携帯が鳴った。

「…ああ、俺だ」

受話器の向こうの声に耳を傾ける翔さんは、何も言わずしばらく沈黙し、そのまま通話を切った。

「候補地が三つある。西宮、大阪、そして神戸だ」

彼は私とアスタロトに視線を向けながら言った。

「ふーん、今日は退屈せずに済みそうね…ふふふ」

アスタロトが舌打ち混じりに笑う。

私は黙ってうなずいた。事務所の扉の隙間から、秋の風がふわりと入り込み、新開地のざわめきを運んできた。これから向かうどの場所にも、先日殺された千田勝さんの真相、あるいはさらに深い闇が隠れている気がしてならなかった。

***

新開地〜西宮〜大阪。【天宮翔の視点】

2016年10月30日・午前10時30分。


車は新開地の通りを走りながら、俺は今朝受け取った三つの住所を頭の中で順番に思い返していた。どれも月輪教団の拠点である可能性が高く、時間を無駄にする余裕などなかった。今回こそ、決着をつけたかった。

助手席では、小百合さんが窓の外の街並みを静かに眺めていた。後部座席のアスタロトは、体を半ば横にして、同じく車窓を見ている。

「せめて一つくらい、ちゃんとした情報があればいいけど…」

アスタロトが退屈そうにあくび交じりで呟いた。

「なかったら、お前のせいだな」

そう返すと、彼女はバックミラー越しに舌をぺろりと出してきた。

最初の住所は西宮市・夙川にあった。閑静な住宅街で、丁寧に手入れされた庭付きの平屋が並び、歩道では数人の子供たちが自転車で遊んでいた。母親たちはその様子を見守りながら、穏やかな会話を交わしていた。

車を少し離れた場所に停め、俺はハンドルに肘をついて静かに目を閉じた。能力を使って周囲を探る。正直なところ、ここには何もないだろうという予感はあった。

他人の雑念が一気に頭の中に流れ込む。

――『ガスの元栓閉めたっけ?』

――『明日の朝会議早いな…』

――『あの野良猫、また来るかな…』

予想通り、特に異常は感じなかった。生活感のある、普通の近隣住民たちの思考ばかり。

目を開き、首を横に振った。

「ここは違う、何も感じない」

助手席の小百合さんが横目でこちらを見た。俺の様子から何かを探ろうとしているようだった。

「本当に?」

「能力を使ってる。教団が近くにいたら、すぐに分かるさ」

次に向かったのは大阪市港区。港町らしく、通りはひっそりとしていた。目的地は古びた倉庫だった。潮風に晒され、外壁は錆び、窓はほとんど割れていて、埃に覆われていた。港に面した一帯はまるで時間が止まったかのように寂れていた。

近くの飲み屋の前にはバイクが数台停まっており、革ジャン姿の男たちが無言で煙草をふかしながら、俺たちの車をじっと見ていた。すれ違った住人のひとりは俺たちの姿を見た瞬間にシャッターを下ろし、何も見なかったように振る舞った。

車を少し離れた場所に止め、歩いて倉庫へ向かう。辺りは妙な静寂に包まれていて、一歩一歩がやけに大きく響いた。

再び意識を集中させる。

――『今夜の搬入、時間守れよ…』

――『見知らぬ連中に関わるなって、親父が言ってたな…』

――『あの車、知らないナンバーだ…通報しとくか…』

ヤクザだ。間違いない。こういう短い命令や、妙に警戒心の強い思考パターンは覚えがある。

「地元のヤクザだな…教団とは関係ない」

小声で小百合とアスタロトにだけ聞こえるように呟いた。

アスタロトが舌打ちをした。

「せっかくだし、安い銃でも売ってくれるか聞いてみたら?」

からかうような口調だった。

「今日はそういう目的じゃない。銃なら、どこでも手に入る」

車をUターンさせてその場を離れる。

正午ごろ、なんば方面へ向かう途中、小百合さんが道沿いにある小さな定食屋を見つけた。看板は色あせ、木枠がかろうじて残っているような年季の入った店だったが、中は温かみのある雰囲気で、魚の定食を中心に出しているようだった。

「皮肉なもんだね。悪魔崇拝の教団を追ってるはずなのに、疲れたサラリーマンみたいに焼き魚で昼飯って…」

アスタロトが腕を組みながら座り、店内を見回して毒づいた。

「文句ばっか言ってると、飯抜きにするぞ」

そう言っていると、店員が俺の前にカツオの定食を置いた。

箸を手に取りながら、ふと視線が小百合さんに向いた。低めのポニーテールからこぼれた髪が、彼女が一口ご飯を口に運ぶたびに頬にかかる。落ち着いた仕草の中に、どこか柔らかさがある。俺の内側に渦巻く混乱と、対照的だった。

俺の視線に気づいたのか、小百合さんは少しだけ目を上げて、控えめな笑みを浮かべた。その瞬間、慌てて視線を自分の食事に戻す。

昼食はすぐに終えた。時計は待ってくれない。そして、まだ最後の住所が残っていた。

次の場所は、神戸市兵庫区にある倉庫だった。

予想以上に寂れた場所だった。

神戸の賑やかな通りを抜け、西側の港に近い工業地帯へと入っていくと、風景は一変した。

狭くまっすぐな通りの両脇には、二、三階建てのコンクリートの建物が並び、どこもシャッターが閉められていた。古い工場の名残を思わせる錆びついた看板が残っているところもあり、壁は海風で湿気にやられたような染みで黒ずんでいた。

今朝見た西宮の穏やかな住宅街とは、まるで別世界だった。

潮の匂いに混じって、古い機械油の臭いが鼻をつく。

そして、時折遠くの港から聞こえるコンテナの軋む音を除けば、この街には音がなかった。

俺は目的の建物から少し離れた場所に車を停め、足音がやけに大きく響くアスファルトの上を歩いて接近した。

「ここ…事務所からすぐなのに、どうして最後に回したの?」

小百合さんが小声で聞いてくる。

「ちょっと…散歩したかっただけだよ…ま、それはさておき――邪魔しないでくれ」

目を閉じ、集中する。

小百合さんの視線が肌に刺さる。緊張を押し殺したような、結果を怖れるような気配だった。

次の瞬間、意識に他者の思考が雪崩れ込む――

――『……儀式は今夜だ……』

――『血こそが我らの魂を清める……』

――『大祭司が戻れば、我らは祝福される……』

――『死こそが、解放なのだ……』

背筋に冷たいものが走る。間違いない。

「ビンゴだな、大当たりだ」

目を開けると、小百合さんの顔が視界に入る。

引き締まった口元と、強く寄せられた眉。その表情がすべてを物語っていた。

ここが、ただの隠れ家でないことを、彼女も理解していた。

だが、彼女は一歩も引かなかった。

逆に、すでに何か考えがあるようだった。

「ちょっと思いついた、ここは私に任せて。二人は車で待ってて」

「何をするつもりだ?」

「大丈夫、信じて。昨日、千田さんがくれた名刺を貸してくれる?」

その名刺は、昨日の証拠品の入った封筒の中にあった。

後部座席に置いてあったそれを取り出し、手渡す。

「無茶はするなよ、お嬢さん」

「なにその言い方? ふふっ、でも安心して。背後には元ヤクザがついてるから、怖いもんなしでしょ?」

小百合さんはそう冗談めかして笑ったが、その笑みにもうっすらと緊張がにじんでいた。

俺は何も返さず、ただ小さく頷いて、ため息をついた。

アスタロトは不気味な光をその瞳に宿しながら、口元を歪めた。

「ようやく…面白くなってきたわね……ふふふ」

俺はただ小さく頷いた。鼓動が早くなるのを感じながら、この中にあるのは単なる隠れ家ではないと確信していた。

***

兵庫区・神戸。【相沢小百合の視点】

2016年10月30日・午後3時45分。


倉庫の外観は、先ほど大阪の港区で見たものとさほど変わらなかった。名前の消えた錆びついた看板、ひび割れたコンクリートの壁、半分開いたシャッター。

だが、今回は空気そのものが違った。重く、粘つくような沈黙が周囲を覆っていて、それが自然なものではないことは直感で分かった。

私は車を降り、ジャケットの襟を整える。運転席の翔さんが私を見つめていた。

「聞いてるからな」

彼の声は低く、しかしはっきりと届いた。

黙って頷いた。言葉はいらなかった。

一歩ずつ進むたびに、アスファルトに響く自分の足音がやけに大きく感じられた。

空気は湿気と錆びた金属の匂い、それに混じって…説明のつかない、どこか不快な臭気が漂っていた。

私は千田勝さんが残した名刺を手の中に握りしめ、倉庫の中へと足を踏み入れた。

中は、まるで儀式のために改装されたかのような空間だった。

広く、家具一つない空間の奥に即席の祭壇があり、そこには灯された蝋燭、黒ずんだ木板に刻まれた円形の紋様、そして紫の布が壁にかけられていた。

その中央には、あの名刺に描かれていた月の紋章と、逆五芒星が重ねられていた。

黒いローブを纏った二人の男が、祭壇のそばで低い声で何かを話していた。

そのうちの一人――肌は浅黒く、髪を後ろで束ねた長身の男が、私に気づいて顔を上げた。

その眼差しには、獲物を見据える捕食者のような冷たさと、異様な威圧感があった。

「お前は誰だ? 何しに来た? 一人か?」

男は動かず、低い声で問う。

「紹介されて来ました」

私は静かにそう言って、手のひらの名刺を見せるように差し出した。

「昔の知人…千田さんに。彼はここに来れば『自由』があるって言っていたんです。あるいは、それ以上の何かが」

男は近づいてきた。名刺を取り、目を離さずにしばらく沈黙の後、ゆっくりと頷いた。

「本物のようだな」

彼が手で合図をすると、もう一人の男が脇の扉から姿を消した。

「名前は?」

「南…霧崎南です」

本名を出すわけにはいかない。とっさに、偽名を口にした。

「そうか…南ちゃん、ね。俺は月城と呼ばれてる」

月城――もちろん偽名だろう。だが妙に洗練された響きだった。

彼は私を上から下まで観察するように見ていた。

「なるほど…それで南ちゃん、君は自由を探してるのか? いや、そうじゃないな。君は…神に仕える者になりたいのか。『月の神』に、信徒を導く巫女に」

「はい、そうかもしれません」

私はうっすらと微笑んだ。

「正直に言うと、最初は彼の話を半信半疑で聞いていただけでした。でも、数日前…千田さんがついに自由を手に入れると言っていたのを思い出して。そして、彼の死を知った時、すべてが真実だったんだと確信したんです。驚きました…それで、どうしてもこの目で確かめたくて」

自分でも、何を言っているのか分からない部分もあった。

だが、男の反応を見る限り――方向は間違っていなかった。

「で……どうやってここまで来た? うちの小さな礼拝所の場所を知ってる者なんて、そう多くはないはずだが」

「簡単じゃなかったわ。千田さんは借金のストレスでよく娯楽施設に通ってたけど、たまに位置情報を送ってくることがあって……その中に、この場所があったの」

自分でも驚くほど自然に嘘が口から出た。

「ふぅん……そんなに親しかったのか。もしかして……愛人関係だったり?」

「……違う。ただの……良き友人よ」

その質問には少し間を空けてしまった。

「なるほど……残念だが、力になってやることはできない。君の目的が自由であるなら別だが、巫女を目指してるなら話は別だ……高僧は今、国外にいる。新たに入信を許すのは、あの方だけだからな」

ここで引き下がるわけにはいかなかった。こんなチャンス、二度と訪れるとは限らない。

『……待ちたくないの。私は、ただの好奇心でここに来たわけじゃない。それに……目の前にあるものを見て、もっと惹かれたの』

私はほんの少し身体を前に傾け、声の調子をわずかに柔らかくした。

男の表情がわずかに変わった。目の奥に何かが走るのが見えた。

私は一歩だけ近づき、ゆっくりと彼の腕に手を伸ばす。

――結局のところ、欲望というのは何よりも強い支配力を持つ。

「きっと、私は役に立てると思うの……いろんな意味で。秘密は守れるし……それ以上のことも」

声のトーンをさらに下げ、誘惑するように囁いた。

『翔さん、聞こえてるよね。誤解しないで。今はこれしか手がないの。お願い、注意を怠らないで……』

心の中で祈るように念じながら、少しずつ罪悪感と羞恥心が押し寄せてきた。

男――月城はそのまま触れさせた。呼吸がわずかに乱れたのが分かった。

「君は……大胆だな。そして危険でもある」

低く呟かれる言葉に、私はもう一歩近づいた。

「それが……怖い?」

その瞬間だった。

彼の手が私の手首を強く掴んだ。

――遊びは、終わりだった。

「嘘つきは怖くない……でも興奮するな」

身体を引こうとしたが間に合わなかった。

背中が壁に押し付けられ、彼の視線が変わるのが分かった。もう、私の言葉を聞いてはいない。ただ、欲望の目で私を見ていた。

「俺と駆け引きできると思ったか、賢い女……?」

抵抗した。膝で攻撃を仕掛けようとした。叫ぼうとした。けれど、それより早く彼の手が頬を打った。

殴られた瞬間、血の味が口に広がり、耳の中で何かが弾けた。

世界がぐらつき、床の冷たさを感じた瞬間、視界は闇に呑まれた。

音も、光も消えた。

目を覚ました時、空気は冷たく、見慣れない天井が目に入った。

理解に数秒かかったが……私は縛られていた。

そして、服も一部失われていた。

ろうそくの光、描かれたシンボル――そして、記憶が蘇る。

けれど、ここがさっきの倉庫かどうかは分からなかった。

もしまだ倉庫の中にいるなら……どうして翔さんは助けに来ていないの?

「……もしかして、翔さんも襲われたんじゃ……?」

あの場には二人いたはず。でも、私が月城と名乗った男と話していたとき、もう一人はいつの間にか姿を消していた。

――「まさか、そいつが翔さんの方へ……?」

そんな考えがよぎった瞬間、背筋に冷たいものが走った。

床のコンクリートには、赤いチョークで描かれた不可解な模様が広がっていた。周囲には揺れる蝋燭の炎。

私は中心にある柱に縛られ、まるで見せ物のように晒されていた。

シャツとベストは消えていた。肌が露出し、呼吸をするたびに胸元に冷気が突き刺さる。

火照りとも寒さともつかない感覚が、皮膚を焼くようだった。

唇の端に残る血が、鉄のような味を残していた。

手首を動かそうとしたが、荒縄が皮膚に食い込んでいて、少しでも動かすと切れそうだった。

耳には、まだあの鈍い耳鳴りが残っていた。

そして――感じた。

私の他にも、この場には“何か”がいた。

あの男……あの化け物が、私を見下ろしていた。

『翔さん……聞こえるなら……私を、独りにしないで――』

***

兵庫区・神戸。【天宮翔の視点】

2016年10月30日・午後4時10分。


空気が、重くなった。

小百合さんの思考は、刻一刻と濁っていった。

はっきりと感じ取れる。

恐怖、羞恥。

そして――叫ぶことさえできない、静かな助けての声。

月城を名乗る男の思考も、はっきりと伝わってきた。

それは醜悪で、歪んだ欲望に塗れていた。

――『まずは刻印……その後に浄化だ』

――『この女を儀式のために使えるなんて……楽しみだな』

――『月の神よ、我らを見守りたまえ……』

その男の儀式は――単なる言い訳だった。

彼にとって、小百合さんは神聖な供物ではなく、ただの獲物にすぎなかった。

彼は――彼女を汚し、そして殺すつもりだった。

そして、もう一つ。不可解なことがあった。

最初に感じたのは、小百合さんと二人の人物の気配だった。

だが、そのうちの一人の思念が、途中から完全に消えた。

理由は分からない。

けれど、今は――

今は、そんなことに気を取られてる暇はない。

「……行くぞ」

腰のホルスターに手を伸ばし、銃の冷たい感触を確かめた瞬間――

アスタロトが俺の腕を掴んだ。

「待って、翔くん……今はまだ、動かないで」

「……は? 何言って――! 時間がないんだぞ! 小百合さんが――」

「ほんの少しだけでいい。もう少しだけ、待って」

珍しく、彼女の声に冗談が混じっていなかった。

「俺たちは警察じゃない。証拠も自白も必要ない……殺せば終わりだろ」

「でも、君は知りたいんでしょ? お母さんのこと……本当に犯人を突き止めたいなら、今は動いちゃだめ」

静かな、けれど確かな声。

アスタロトの目に、いつもの余裕はなかった。

息を止める。全身の筋肉が、叫んでいる。

――今、行け。今すぐ、彼女を救え、と。

だけど。『……分かってる。これは、彼女の賭けなんだ』

俺は、一秒。

そしてもう一秒、耐えた。

その時だった。

――音が、聞こえた。

――『まずは……服を脱がして……』

――『腹部に神の印を描く……』

――『美しい、不規則で逆さまの五芒星……』

――『この身体は祝福だ。俺の悦びであり、神への供物でもある――』

その男の思考が、耳の奥に焼きつくように響いた。

そして――俺は確信した。

こいつが言っている印、それは……あの日、母さんの遺体に刻まれていたあの紋様と同じものだ。

もう、迷う理由はなかった。

無言のまま、倉庫の側面に回り込む。

鍵のかかっていない脇のドアを見つけ、音を立てないように慎重に開いた。

手には既にサプレッサー付きのベレッタが握られていた。

薄暗い通路を抜け、紫色の布で覆われた開口部にたどり着く。

布の隙間から中を覗いた瞬間――その光景が、目に焼きついた。

小百合さんは、儀式の中心にある柱に縛られていた。

月城と名乗る男が、彼女の裸の腹部に黒いチョークで印を描きながら、いやらしく身体をまさぐっていた。

全身の血が凍るような感覚。迷いは一切なかった。

――引き金を引いた。

パスッという抑えられた破裂音。

弾は奴の右腿を貫いた。

「ぐっ……ッ!」

月城は悲鳴を上げて倒れ、チョークが床を転がる。

次の瞬間、まるで呼び出されたようにアスタロトが現れた。

彼女は小百合のもとへ駆け寄り、素早く縄をほどいていく。

「よく頑張った、小百合ちゃん……ごめんね、ここまでさせるつもりじゃなかった」

そう言って、彼女の体を覆うように、男が奪った上着を掛けた。

小百合さんは一言も発せず、ただ震えていた。瞳は怯えたまま、虚空を彷徨っていた。

俺はゆっくりと、血を引きずって逃げようとする神官に近づいた。

「なあ、クズ野郎……これを見ろ。これは何?」

そう言って、佐伯さんから受け取った写真を突き出す。

そこには、先ほどの印と同じものが刻まれた人間の腹部が映っていた。

奴はそれを一目見て、ニヤリと笑った。

「……死ぬのが怖いとでも思ってるのか? ふふ……殺せよ、どうせそれが目的なんだろ?」

「チッ……」

構わず、顔面に蹴りを叩き込む。

少なくとも歯を二本は吹き飛ばしたはずだ。

「なめてんのか……!? 誰がその印を刻んだ!? 大神官はどこだ!?」

血を吐きながらも、奴は笑みを浮かべ続ける。

「月輪教団は滅びない……司祭を何人殺しても、次の者が現れる。大神官はそう教えてくれた……神がこの地に降り立つその日まで、な」

「……俺はな、我慢ってのが苦手なんだよ」

銃口を奴の頬にぐいと押し当てる。

「言え……その大神官はどこにいる?」

「その印を刻めるのは、あの方だけだ……神に祝福された聖なる短剣で……だが、居場所なんて教えるわけがない……フフフ、奴は常に動いている。新たな信者を求めてな……」

そう言うと、奴は俺の顔に向かって、唾を吐きかけた。冷たい唾液が頬を伝い落ちる。

「……っ!」

怒りで視界が歪んだ。

即座に腹部に蹴りを叩き込み、奴が苦悶の声を上げる。

しゃがみ込んで、唾を銃で拭いながら、もう一度――

今度は銃口を、奴の口の中に突っ込んだ。

「名前たちも、写真も、住所もある……今ここで喋らなきゃ、お前の仲間もみんな同じ目に遭うことになるぞ」

「俺たちは、月の神と信仰のためなら喜んで死ねる。たとえ関西中、日本中……いや、世界中を探し回ったところで、決して見つからん。我らの信仰は――無限で、永遠だ……」

そう言って、奴は狂ったように笑い出した。

……この瞬間、俺の中で残っていた僅かな我慢が切れた。

こいつからこれ以上、まともな言葉は引き出せない。

俺は静かに銃口を奴の眉間に向けた。

「……これは、千田香織の分だ」

引き金を引く。

サプレッサーの鈍い音が、奴の笑いを永遠に消し去った。

しばらく、誰も何も言わなかった。

ただ、燃え尽きていく蝋燭の音と、小百合さんの荒い呼吸だけが、空間を満たしていた。

アスタロトが立ち上がり、無表情なまま、ほんの僅かな高揚感を隠しきれずに辺りを見渡す。

小百合さんは、彼女の上着にくるまれたまま、俺を見つめた。

「翔さん……撃たなくても、よかったんじゃ……」

「いや、必要だった。お前、あいつに好き放題させた方がよかったとでも思ってるのか?」

俺の言葉に、小百合さんは目を伏せた。

「……それでも、あいつはもう動けなかった」

「……お前も、分かってるはずだ。正義だけじゃどうにもならない時がある。汚れる覚悟がなきゃ、何も救えない」

言い終えた俺の胸には、まだ鼓動の余韻が残っていた。

銃をしまいながら、確信する――この日を境に、俺たちはもう、後戻りできない。

***

神戸・中心街への帰路。【相沢小百合の視点】

2016年10月30日・午後5時52分。


夕暮れが神戸の街に、まるで液体の銅のように静かに降りてくる。助手席から眺める街並みは、一本ずつ灯り始める街灯と、紫に染まりつつある空に包まれていた。遠くの山々は屋根と溶け合い、都市の喧騒は違うリズムで目を覚まし始めていた。

車内は沈黙に包まれていた。ただ後部座席でアスタロトが小さく鼻歌を歌っているだけ。それは古い歌のようでもあり、悪魔の賛美歌をJ-POP風に変えたようでもあった。

私の頭の中は、あの出来事でいっぱいだった。翔さんが引き金を引いた瞬間の表情が、頭から離れない。

驚くべきことではない――彼の過去を知っているつもりだった。

でも…それを目の当たりにしたのは、初めてだった。

私はいつも事件現場にいたが、殺人を生で見たことはない。

「やっぱり……警察に引き渡すべきだったんじゃないかな」

前を見たまま、そう呟いた。彼の目を見つめる勇気はなかった。

翔さんはすぐには返事をしなかった。両手はハンドルを握ったまま、顎の筋肉がまだ緊張しているのが分かった。

「で、どうなると思う? 署での自白? 賄賂まみれの検察が正義を通すとでも?」

低く静かな声だったが、その言葉には冷たさがあった。

「正義の話だけじゃないよ……自分たちがああいう奴らと同じになっちゃダメなんだと思う」

「俺は違う。信仰のために人を殺すんじゃない。法が届かない、いや、届こうともしないクズどもを、俺が代わりに消してるだけだ」

翔さんの視線は前方から逸れなかった。だがその声には、揺るぎのない信念があった。

私は唇を噛んだ。完全には否定できなかった。

あの男が私にしようとしていたこと――その現実は、身体に、心に、まだ焼き付いている。

けれども……それでも、私は簡単に引き金を正当化したくなかった。

「……全部、銃で片付くわけじゃないよ、翔さん」

「分かってる。でも、時にはそれしか残らないこともある」

少しだけ、声に棘がなくなっていた。

「……どう言えば、伝わるんだろうね」

私は小さく息を吐いた。

車内には再び静寂が戻る。

アスタロトの鼻歌だけが、妙に場違いな心地よさを奏でていた。

***

北野町・神戸。【天宮翔の視点】

2016年10月30日・午後6時43分。


俺は小百合さんを自宅の前で降ろした。

空はすでに深い紫に染まり、近所の窓からは温かな灯りがもれていた。

彼女はゆっくりと車から降りた。まだ彼女の上着に包まれている。

「今日は……本当にありがとう」

初めて、俺の目をまっすぐに見てそう言った。

「……お前の覚悟には、感謝してるよ」

少しの間、互いに言葉を探した。

「……見せたくなかった面を、見せちまったかもな」

そう呟くように言った。

「違う。謝らないで。助けてくれてありがとう。驚いたのは本当だけど……今思えば、あれは避けられなかった」

彼女の声は静かだったが、強さがあった。

俺はうなずいた。彼女も同じようにうなずいた。

言葉では言い表せない、何かが確かに通じ合った気がした。

彼女が家に入ったのを確認し、アスタロトが助手席に滑り込んできた。

そして肘で俺の脇腹を軽くつついた。

「見せてくれたねぇ……あんたの中の化け物……ふふふ」

口元に歪んだ笑みを浮かべながら囁いた。

「でも気をつけなよ。一度起きた化け物は……もう眠らないかもしれないよ」

***

西区・神戸。【混合三人称視点】

2016年10月31日・ 午前9時32分。

千田さんは薄い灰色の着物を身にまとい、疲れた目で彼らたちを出迎えた。

取り調べの時よりも少し落ち着いて見えたが、それでも深い疲労は隠せなかった。

「……見つけたんですか?」

その声は震えていた。

翔は静かにうなずいた。

「ええ、ですが……抵抗されました。これ以上犠牲を出すわけにはいかず……俺は……引き金を引きました」

千田さんはしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと頭を垂れた。

「そうですか……なら、もう……安心して眠れます……主人は仇を取ってもらえたんですね」

そう言って、翔の手をそっと握った。彼女の目には、深い感謝の色がにじんでいた。

「約束を守ってくださって、ありがとうございました…」

翔は何も言わなかった。ただ視線を落とし、何も言葉を返せなかった。

翔が――言葉を失っていた。

小百合はそっと彼女を抱きしめた。彼女は小さく震えていたが、目を閉じて静かに頷いた。

「また来ますね……何かあれば、何でも言ってください」

別れ際、千田さんは玄関先で見送ってくれた。陽の光が彼女の顔を照らしていて、まるでやっと影が晴れたようだった。彼女の夫は、ようやく眠ることができるのだ。

***

車の中は沈黙していた。街は普段どおり動き続けていたが、車内だけは時間が止まっているようだった。

翔がようやく口を開いた。

「なあ、昨日は聞けなかったんだけど……一つ、聞いてもいいか」

「うん……何?」

「倉庫の中、あの月城以外に誰かいたか?」

「ああ……うん。最初は二人いたよ。でも、月城がもう一人に手で合図して……どこかに消えちゃったの。正直、緊張しててその瞬間をちゃんと覚えてないけど。あれは変だったな……」

「外にいた俺たちの側からは誰も出ていかなかった。俺が入った裏の扉は少し開いてたから……そっちから逃げた可能性はある」

「そっか……あの人、もしかして全部見てたのかな……?」

「それは分からない、でも……重要なのは、任務は成功したってことだ」

「うん……千田さんも、少しは救われた顔してたし。拠点も潰せた」

「それと……母さんの死に繋がる情報も増えた」

翔の言葉は重く、確信に満ちていた。

小百合は頷いた。

「うん。でもこれは……まだ始まりに過ぎない気がする…氷山の一角ってやつ」

その時、翔のスマホが震えた。メッセージが届いていた。

【佐伯健三】

『君たちに向いてる仕事がある。今回は報酬も出る。

緊急案件。堺市で。』

翔は無言で煙草を灰皿に押し付けた。小百合は小さくため息をついた。

アスタロトは今回同行していなかった。千田家では、彼女の存在は疑いを招くからだ。

街の鼓動は続いていた。

だが――彼らたちの前には、まだ何が待っているのか誰にもわからなかった。






次回:『闇に沈む港。』


最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!

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