第17話。 『標的は二つ、迷いは零。』
――標的は二つ。迷いは、もう零だ。
琵琶湖に沈む夕霧の中、翔たちは再び集結する。
救出か、報復か。
それぞれの選択が、今夜、同じ一点で交わる。
命を懸けた決断の先に待つものは――静寂か、それとも血の夜か。
天宮・翔
相沢・小百合
佐伯・健三
谷口・健太郎
金田・功
佐伯・乃亜
月輪教団
荒鷲会
水月会
大津・滋賀県。【天宮翔の視点】
2016年12月1日・午後4時30分。
朝に集まったあの倉庫は、まだ湿った金属と古い紙の匂いを放っていた。
琵琶湖から這ってきた霧がいくぶん濃くなり、換気口の隙間から冷気が滲んでくる。湖が息を止めてこちらの決断を見守っaaているような、そんな午後だった。
谷口は木箱の上に大津の地図を広げ、赤と青の線を引いていた。地図にはまだ切り傷のように線が走っている。周囲には冷めた缶コーヒー、吸い殻、点滅するショートレンジの無線機が散らばっている。
功が入ってきたとき、アスファルトと煙草の匂いが錆の匂いに混ざった。三人の男を連れていた。
三人──リスクはあるが目立たぬ数だ。目立てば、町がざわつく。俺たちはそれを避けたかった。
彼らは代紋も指輪も見せず、灰色のコートに疲れた顔をしていただけだ。残業帰りのサラリーマンに紛れ込めるくらいの佇まい。足音は慎重で、倉庫の反響はそれに従った。
「手短に言う」俺は声を抑えて言った。
「瀬田と浜大津で五人救出。におの浜では待ち伏せに遭って、乃亜をさらわれた。残りはここで詰める」
「七人だ……家に連れ戻すべき七人だ」そう付け加えた。
功は一度だけ頷いた。詮索はしない。煙草を取り出して指の間で転がし、谷口の口ぶりを待った。
谷口は地図を一度弾いた。夕方の光がマーカーを浅く照らし、線が痛々しく浮かび上がる。
「ここに目星は付いている」谷口が言った。
「病院で保護された二名の聴取を取った。後部に窓のないワンボックス、ナンバーは覆われ、軽油の臭い、作業用手袋。ひとりは覚醒前に『ミ──カ──』の音を聞いたと。合図か通称の可能性がある」
谷口は煙を軽く吐いて続けた。
「巡回では、県道18号の東側、なぎさ通りから上がる農道筋で不自然な出入りが記録されている。大きな道路は避ける手口だ。刺激すれば殺すか逃げる。このため、我々はまだ踏み込んでいない」
地図に三つの点が付けられた。湖際の陰、裏通りの曲がり角、そして湖の二つ目のカーブを抜けた先にある無表示の建物。
「瀬田も浜大津も、におの浜も失ったなら、残りを抱えるならここだろう」谷口は続けた。
「旧材木倉庫。近江大橋から一キロ程度。木立が深く、常時の巡回では目が届きにくい」
小百合さんが手袋を地図の端に置いた。声は平坦だが揺るがない。
「優先は救命。発砲は極力避ける。撃つなら脅威を終わらせること。合図は変えない。『向陽』で前進、『有栖川』で停止。焼き切らせないようにする」
アスタロトは木箱に腰掛け、脚をぶらぶらさせながら言った。
「鍵開けなら任せて。綺麗にはならないけどね」
俺は腕を組み、地図を見下ろした。
「標的は二つ。迷いは零」俺は言った。
「一つは乃亜と残りの人質の救出。二つ目は膳所の水月会の金回りを潰すことだ。現金、在庫、端末、SIM、帳簿。あいつらは金で呼吸している。金を見失えば、ここでやっていることは意味を失う」
功は煙草を缶の蓋で押しつぶし、初めて口を開いた。
「四人で足りる。二人が入って、二人が外を固める。お前たちが『向陽』で合図するまでは、こちらは動かない。警察がかき回しを欲しがるなら、町の目をそらすことなら六分くらいなら作れる――いいカモフラージュになるだろう」
「お前が全部スポットライトをさらうつもりだな」軽い笑みを添えて、俺は返した。
「ここで一人だけが英雄になっていいとは思わない。だが安心しろ。戻ったときには『チームの功績』として報告してやる」功はそう応えた。
「ありがとう。俺も早く片づけて手を貸すよ」
「終わらせるのはお前じゃない……一緒に終わらせるんだ」小百合さんが、きっぱりと割って入った。
「ああ、そうだな」俺は短く頷いた。
谷口が封筒を開き、古い略図を取り出した。蛍光灯に線が震えて見える。
「救出組のルートはこうだ。湖岸道を下り、18号に乗ってサービス道に入る。ハイビームは禁止。もし搬送車列があるなら、161号交差と近江大橋たもとで『故障車』を作る。六分ほどの混乱を作るつもりだ」
谷口は両手を顎に当て、その『事故』をコーヒーを頼むような落ち着きで計画していた。
「ふう……六分、くらいの混乱になるだろうな。あと、御前が水月会を潰す件は分かっているが、補足をひとつ。観察拠点は膳所のJR線裏だ。四十分で車を回して切り替えろ。ヤクザ連中は勘がいい。三人で固まって長居するな。交差点で群れていたら目立つぞ。これが署からの情報だ」
「了解だ」俺が答えると、功も頷いた。
小百合さんは地図に身を寄せた。
「私が先に入るわ」彼女は言った。
「もし残響で有益な手がかりを得られたらすぐ下がる。何も取れなければ、アスタロトが道を開ける」
アスタロトは微かに笑った。
「ふふ……誰かが屋根から落ちるっていう事故が起きたら、たぶん私のせいね、ふふふ」
功は淡々と配置を割り振る。
その声はほとんど機械的で、命を賭す処方箋を読み上げる医者のようだった。「AとBは外周警戒、Cは俺と行動。『有栖川』が聞こえたら全員退く。今夜欲しいのは空っぽの金庫だ、死人はいらない」
谷口が腕時計を覗き込む。
「すでに湖岸の抜け道は薄く封鎖してある。動きがあれば交通にトラブルを上げる。あとはお前たちの手の内だ」
「じゃあ、全員で突入はしない」俺は言った。「小百合さん、アスタロトと俺で上がる。谷口、二百メートル西で待機。お前が『有栖川』と叫んだら、すべてを止める」
小百合さんは地図を丁寧に畳んで、俺を見つめた。
「乃亜さんが一緒なら、まず彼女を出す。議論はしないわ」
「分かってる」俺は応えた。
功と俺は拳を合わせた。
それは友情の確認ではなく、契約の手触りだった。
無線機を点検する。谷口が結束バンドや毛布、蛍光テープを差し出す。
小百合さんは弾薬を確かめ、ジャージの下に銃を滑り込ませた。
アスタロトは子供めいた笑顔を浮かべながらも、意思ははっきりしていた。
風が倉庫の隙間を抜け、金属を震わせる。
格子が小刻みに鳴り、霧がまた薄く流れた。
「乃亜ちゃんを連れ戻すって約束したよね」アスタロトが真顔で言う。「じゃあ、翔くん、走りなさい」
扉を開けると、冷たい空気が頬に突き刺さった。
エンジンがいっせいに唸りをあげる。瞬間、計画の方が静かすぎると思った。音は大きすぎたのだ。
それも一瞬で、霧の中に溶けていった。
作者からのお知らせ
いつも『天宮と藍沢の探偵事務所』を読んでくださって、本当にありがとうございます。
最近は仕事が忙しく、週に一度しか休みが取れない状況です。
そのため、これからしばらくの間は「1話=1シーン」という短めの更新スタイルに変更します。
作品を止めてしまうより、少しずつでも前に進めたいと思っています。
どうか温かく見守っていただければ幸いです。
これからも翔や小百合たちの物語を、最後まで一緒に歩んでいきましょう。
—AAVC




