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第16章。 『大切な絆、試される時。』

霧は低く、湖は呼吸を潜める。

銃声は要らない。必要なのは、信号と合図――『向陽』は前進、『有栖川』は撤退。

救われた五つの鼓動の影で、乃亜の気配が千切れる。

翔の拳が砂利に沈み、約束の重みが骨に食いこむ。

小百合は頬に一閃を置き、言葉を置く。『信じて。隣で支える』

功は16時30分、大津に入る。谷口は湖岸をやわらかく縛り、街路に目を配る。

目標は二つ――乃亜の奪還と水月会への一撃。

湖岸に冷たい風が走り、午後は静かに、決戦の刻へと開いていく。

天宮・翔(あまみや・しょう)

相沢・小百合(あいざわ・さゆり)

佐伯・健三(さえき・けんぞう)

谷口・健太郎(たにぐち・けんたろう)

金田・功(かねだ・いさお)

佐伯・乃亜(さえき・のあ)

月輪教団(がちりんきょうだん)

荒鷲会 (あらわしかい)

水月会(すいげつかい)


大津・滋賀県。【天宮翔の視点】

2016年12月1日・午前9時05分。


ダッシュボードの温度計は八度を指していた。

空は鉛色。琵琶湖から這うように低い霧が流れ、ガードレールにうっすらと霜を置いていく。

昨夜、新開地の事務所前に組の連中が置いていったセダンは目立たない色で、ナンバーもきれい。変に主張もしないし、高速でもおとなしく走ってくれた。

車は問題ない。

――問題は、俺たちの方だ。

道中、ほとんど誰も口をきかなかった。

小百合さんは窓の外をずっと黙って眺め、乃亜は背筋を伸ばして固くなり、車内の張り詰めた空気から逃れようとしているみたいだった。

アスタロトは、最後の十分ほど歌詞のない旋律を小さく口ずさんでいた。

それとエンジンの唸り声だけが、俺たちの同乗者だった。

大津の入口で西大津バイパス(国道161号線)を外れ、並走する側道へ降りる。

谷口から送られてきた座標は、路肩に寄り添う使われなくなった倉庫。波板の外壁は錆び、シャッターはへこんで、剥げたフェンスに半分隠れている。

民間車両が二台、計ったように距離を空けて駐められていた。

濃い色のアノラックを着た男が二人、コンクリ柱の脇で煙草を吸っている。必要以上はこちらを見ない。

――いい。パトもサイレンもなし。

エンジンを切ると、ドアを開けた瞬間に冷気が滑り込んできた。

「早いじゃないか」

シャッターの影から谷口が現れた。コートの前は開けっぱなしで、脇にファイルを抱えている。

「友達の同窓会をやるには、なかなか上等な場所だな」

俺は肩をすくめた。

「……不意の来客よりはマシだろ。そう思わないか?」

「そうだな。大津は実に居心地がいい町だ」――皮肉だ。

前回、水月会に絡まれた時のことを、俺たちは全員覚えている。アスタロトが割って入らなきゃ、面倒はもっと長引いていた。

「中に入ろう。ここで立ち話してると凍える」

中は錆と湿気の匂い。床にはフォークリフトの擦れた跡。

机も作業台もなく、ひっくり返った木箱がいくつか――それがテーブル代わりだ。俺たちは立ったまま向き合った。

小百合さんは黒のレザージャケットにダークグレーのマフラー、革手袋、ローカットのブーツ。中は黒のパンツにタートルネック。髪は真っ直ぐに下ろし、飾りはなし。

乃亜はより厚着だ。黒のパーカーに同色のニット帽、濃いデニムとスニーカー。

アスタロトは十二歳の仮面のまま、今日は少し大人しめの格好――ワイン色のボンバージャケットに濃紺のパンツ、スニーカー。あいつの定番、黒のゴスドレスじゃないのが逆に目につく。

「本題に入る」谷口がファイルを開く。

「小百合さんからの情報を基に、行程はこうだ。まず瀬田――駅近くの倉庫群。夜間に動くトラックの報告あり、伝票はグレー。次に浜大津――以前洗った運送会社の冷蔵倉庫。三つ目がにおの浜――公園脇のコンクリブロックと、グレーな工事だ」

小百合さんは小さくうなずき、俺たちは黙って耳を傾ける。乃亜も真剣に黙っていた。アスタロトだけは、天井を見上げて上の空だ。

「最後に、もう一件。新しく浮いた候補がある。偽装会社で――」

「言う必要はない……彼女は全部知ってる」俺は遮った。

一瞬の沈黙。谷口が小百合さんを見る。

彼女は視線を受け止め、ひとつだけうなずいた。

彼は小さく息を吐き、言い直す。

「……いずれにせよ、検討から外すわけにはいかない」

「なんでだ」俺は返した。

「理由を言おう……あそこでは薬物の動きが出ている。複数だ。ロヒプノール――フルニトラゼパムも含めてな」

谷口の視線が小百合さんへ流れる。

小百合さんが、はじめて口を開いた。声は平板だ。

「その場所は、市のどの辺ですか」

「膳所だ」俺が先に挟む。

小百合さんは俺を見もしない。

「救急の報告と一致します。フルニトラゼパムが膳所で動いているなら、見過ごすわけにはいきません」

「……ちっ」

反論の余地はなかった。一本の糸を引けば、別の糸がぞろぞろ顔を出す。

どのみち、小百合さんは夜の作戦に関わることになる。

谷口が数枚、紙をめくる。

狭い路地の壁、金属シャッター、橋脚の裏――そんな写真が並ぶ。

安いスプレーで描かれた同じ印。五芒星の中に、月。

「――何を意味するか、わかるな」

「またこいつらか……」俺は吐き捨てた。

「教団がサインを残している」

「警察の記録を洗ったが、ここ数週間、未遂の通報が増えている。既に進行中の拉致とは別に、だ」

「警察は動けてないのか」

「多くは被害届に至らない。恥や恐怖、不信……理由はいろいろだ。とはいえパターンは見える。若い女性、勤務や講義の帰りを狙う。薬物の使用、時間の欠落。しかも我々の動線の近辺ばかり――神戸の時と同じ手口だ」

「拠点を移そうとしてるのかもな。縄張りのマーキングってわけだ」

小百合さんが、改めて口を開く。

「矛盾しているようですが、今回は月輪教団本体ではないと思います」

「根拠は?」俺は問う。

「使っている記号は同じでも、壊滅から時間が経っていません。最高指導者も――翔さんにより――失われた。打撃は大きいはず」

「とはいえ、あれは全国区の影響力だ。頂点を欠いても、補填は難しくない」谷口が挟む。

「ですが、手口が違う。神戸では警察との癒着が見えましたが、大津にはそれがない」俺は言う。

「もう一つの可能性。狂信的な信者たちが、神戸で儀式を潰された反動で、琵琶湖でやり直そうとしている。より小さな街で、目立たずに」小百合さん。

「不慣れで何度も失敗した……それでも十二人は拉致され、少なくとも一人――杉本美咲はもう戻らない」

「結論として、膳所は外せない。連中が薬を仕入れている可能性がある。仮説は、どれもまだ捨てられない」谷口がまとめる。

……地獄の果てまで、追ってくるつもりか。

アスタロトが、わずかに身を乗り出して笑った。面白くなってきた――そういう顔だ。

「動線を確認する。瀬田が最初。次に浜大津。問題がなければ――におの浜。ひと通り見たら、膳所を覗く」俺は言った。

「即興は要りません。最優先は被害者の救出です」小百合さんがきっぱりと釘を刺す。

谷口がうなずく。

「うちの班は外だ。私服で、目立たない動き。連絡はショートレンジの無線を基本にする。後方でカバーし、怪しい動きがあればすぐ寄る」

「よし――なら……」

小百合さんは鼻梁に二本指を当てた。寝ていない顔だ。

「少し、外の空気を吸ってくるわ」俺を見ずに言う。

「私も行く」それまで黙っていた乃亜が、すぐ応じた。

二人は霧の冷気へ歩いていった。

「おい、悪魔……」俺はアスタロトを呼び、視線は小百合さんの背に向けた。

「ふふふ、はいはい……二人だけの時間、ね。ロマンチック」

茶化しながら、アスタロトも女子組の後を追う。

谷口の部下の警官たちは入口で待機したまま、影の境界線を越えない。

中に残ったのは、谷口と俺だけだ。

「で――膳所では、具体的に何をやるつもりだ」谷口が火を点ける。

俺は腕を組んだ。

「言った通り、膳所のビルは薬に絡む。ただ、売人の巣そのものだとは思ってなかった……要は潜り込んで、連中――水月会の連中から物をかっぱらう」

「つまりシノギを潰す、ってわけだな」

「そうだ。で、出口のカバーが要る。正面で陽動、三~五分でいい。でかい音だけ立てて、視線をそっちへ向けさせる。その間に俺たちは街を抜けて車を乗り換える……どうだ? 大津署の経歴にも、お前の履歴書にも、悪くない成果だ」

谷口が首を傾げる。

「本当に上手くいくと思ってるか。ひとつでも狂えば、『ヤクザと手を組んだ無茶な警官』で、俺の評判は地に落ちる」

「成功すりゃ逆だ。尊敬も、リソースも回る。記者も食いつく。警察がやるべき時にやったって話になれば、住民の信頼も戻る」

「口は回るな……煙幕が欲しいだけじゃないのか」

「今夜だ。正面で数分だけ騒いでくれりゃいい。俺たちは抜ける」

谷口は顎に手を当てた。

「――せいぜい六分だ。それ以上は保証しない。うちの面子と安全もある……それで足りるか」

「一秒だって貴重だ。六分だ、踏み抜く」

「……なんで俺はこんな立場なんだかな」谷口が息を吐く。

「合図はあるか」

「その話だ。『向陽』が聞こえたら動け。『有栖川』が聞こえたら中止だ」

「了解」

谷口はファイルを閉じる。

「それと――彼女はどうした。今日は距離がある」入口の白い息を目で追いながら言った。

唾を飲み込む。余計なことを言わない言葉を探す。

「もう隠し事はない……危険な状況だった。だから、こうする方が良かった」

「わかるさ。自分以外の命を抱えるのは難しい」

「ああ……二人を巻き込みたくはないんだ」乃亜と小百合さんのことだ。

「健闘を祈るよ」谷口はそれ以上、詮索しなかった。写真を仕舞う。

数分して、三人が戻ってきた。

小百合さんは頬の髪を、無造作に指で払う。俺とは目を合わせない。

乃亜は一瞬だけ俺を見た――『やらかしたわね』、とでも言いたげに。小百合さんが話したのだろう。

アスタロトは最後に入ってきて、手を背に組み、もう充分に楽しんだという顔。

「よし。全員準備ができたなら、瀬田へ向かう。無線を渡す。基本は短距離で――外から随伴して目は離さない」谷口がオペレーションの声に戻る。

「了解」俺は短く返した。

外へ出ると、刃のような空気。

霧は少し上がったが、昼はまだ平らだ。湖が息を止めているみたいに。

セダンのドアを開ける。小百合さんは無言で乗り込み、乃亜とアスタロトが続く。

段取りは固い。

――俺たちの絆も同じだけ固いかどうかは、これからだ。

***

大津・滋賀県。【相沢小百合の視点】

2016年12月1日・午前9時45分。


倉庫の外の空気は、薄いガラスみたいに肌を切った。

琵琶湖から這い上がる低い霧が、錆びた金網に絡みつく。

乃亜はニット帽を引き下ろし、紛れ込んできたアスタロトはボンバーのポケットに手を突っ込んだ。

私は、胃の結び目を押さえるみたいに深く息を吸う。

「どうしたの? 今日は変だよ」乃亜が首を傾げる。

「小百合ちゃん、翔くんに怒ってる」アスタロトが即答した。

ため息が漏れる。

「怒ってないわ。ただ……自分がばかみたい」

「理由、聞いてもいい?」乃亜。

「昨夜、翔さんと言い合いになって、ひどいことを言ってしまったの」

「ひどくなんかないよ。吐き出せたなら良いこと」アスタロトが割って入る。

「翔さんにヤクザの件を打ち明けられた時、私は黙ってしまった。最後まで支えるって決めてたのに、何も言えなかった――信じてない、裁いてる、そう受け取られても仕方がない」

乃亜はまばたきもせず、まっすぐに私を見る。

「なら、言えばいい。翔兄は怪物じゃない。きっとわかってくれるよ」薄く笑う。

「私には、簡単なことじゃないの……」

アスタロトは霧の舞台を眺めるみたいに、視線だけを外へ向けた。

「ふふふ……乃亜ちゃん、もったいない。今のうちに翔くんへ距離を詰めるチャンスだったのに――でも正論。話さなきゃ、全部、腐るだけ」

乃亜は頬を赤くして顔をそらす。最初の突っ張った調子は影を潜めていた。

私は小さく笑みを返す。

「終わったら……もう一度、話そう」

慰めなのか、言い訳なのか、自分でもわからないまま心の中で約束する。

中へ戻る。

翔さんと谷口さんは、ちょうどファイルを閉じるところだった。

言葉はほとんど交わさない。各々、上着と沈黙を手に取る。

サービス道路に出て、国道161号を南へ。ほどなく谷口さんの先導で、国道422号に乗り換え、瀬田川の方角へ。

左手――湖は大きな獣がゆっくり息をしているみたいに、姿だけを匂わせている。

車内。後部座席で私の隣に乃亜。助手席のアスタロトは声のないハミング。

翔さんは車線に目を固定し、肩が強張っていた。

「これが終わったら――」

誰にも届かないくらいの声で、私は呟いた。

返事はない。あるのはエンジン音と、ワイパーの擦れる音だけ。

数分して、翔さんがアスタロトに合図を送る。

彼女は助手席の下から9ミリを二丁引き出し、私たちに手渡した。

「極力、使わない。発砲は街全体に響く……だが命が危ない時は、迷うな」

「了解」乃亜は短く答え、銃を隠す。

私は返事をしなかった。代わりに、金属の重さを服の陰へ滑り込ませた。

瀬田の倉庫は、トラックの轍が刻まれた空き地の縁に立っていた。

薄い鉄板の扉に安物の南京錠。中は湿気とプラスチックの匂い。

成果は、そう待たずに出た。

清掃用具置き場。

三人の少女。痩せた手首に雑な包帯。薬の靄に沈むような、濁ったまぶた。

「……これ、見て」

全員が一度に身を寄せ、同時に、外で随伴の車が止まる音がした。

「この子たち……?」乃亜。

「だろうな――この街に誘拐グループがもう一ついない限りは」翔さん。

その時、震える声がかすれた。

「た、助けて……ください……わ、私たち……もっと……いた……」唾を飲み込む音。

「い、一緒に……いたのに……それから、分けられて……配られて……」

「まずい。脱水で落ちる」私は反射で口にする。「乃亜さん、谷口さんを」

「了解」乃亜は駆け足で入口へ。

「大丈夫。すぐ助けが来るわ。もう少しだけ、頑張って」

私は一人を抱き起こし、翔さんも同じように残りを支えた。

「今は最善の時じゃないのはわかってる。でも――連中の服装、覚えてる?」翔さんが問う。

「フ、フード……暗い色のジャケット……手袋。普通の格好。ヤクザっぽくは……ない。す、少し、どんくさかった……」

「わかった。もういい、休んでくれ――もう自由だ」

谷口さんが飛び込んできて、場の光景に目を見開く。

すぐに私服の隊員へ指示が飛び、少女たちは車へ運び込まれた。

三名は警官に付き添われ、病院へ搬送される。

「今は命の確保が最優先だ」谷口さん。

「ありゃ? ヒーロー気取り、健太郎くん? ふふふ」アスタロト。

谷口さんは無言で受け流した。

優先順位は一致している――救命が先。

私は残響『レジデュアル・エコー』を使って痕跡を追おうとしたが、翔さんに制された。

「まだ序盤だ。ほかを当たってから、能力を切る」

「……」

反論はしなかった。できなかった。胸につかえがあって、言葉が形にならない。

翔さんは入口の方へ歩き、振り返らずに言う。

「人質はあと八人だ――次へ行く」

私はうなずき、手袋をきつくはめ直した。

国道1号を北西へ戻る。瀬田川に沿って進み、湾へ落ちる丘を上る。

時おり、カモメの声。匂いが変わる。金属、塩気、服に貼り付く湿った冷え。

浜大津の冷蔵倉庫は看板通りの外観だった。魚のロゴは色あせ、フォークリフトは止まったまま。

外から見える空き箱が多すぎる――偽装が雑だ。

「やっぱり素人の狂信者って線が濃いわ」

「かもな。あるいは、何も見えていないだけだ」翔さん。

車を降り、中へ。床は踏むたびに、古い氷が鳴るみたいな音を立てた。

足を入れた瞬間、人体の動きが空気を押した。

「左に二。奥に一」私は小声で告げる。

翔さんがうなずく。

乃亜はドアをカバー。

アスタロトは天井を見上げ、世界に飽きた子どもの顔をしている。

一本目が鉄パイプを振りかざして飛び出す。

私は踏み込みを外し、手首を搦めて肩口を取る――壁へ叩きつける。肺から音が漏れ、崩れ落ちた。

二本目は翔さんに突っ込んだが、首へ極められ、余計な暴力はなく沈む。

三本目は、遅れた――躊躇。

呼吸に出る、素人の間。

「――話せ」翔さん。

「な、何も知らない……お、俺は、臨時の見張りで……」

「人質はどこ?」私はまっすぐに訊いた。

「お、俺は……し、知らない……誓って……な、何も……」

教科書みたいな返答。短く、拙く、覚え込んだ台詞。

私は時間を稼いだ。翔さんが一瞬だけ目を閉じる。

知っている仕草。

――あの耳を、もう一方へ開く時だ。

沈黙。

空気の重さが変わった。翔さんが、欲しい答えを手に入れた合図。

「……もう知らせたな」三人目を見据えて、言い捨てる。

「な、何を――違う、俺は――」男は早すぎる動きで両手を上げた。

「二分も経ってねえ。俺たちが来たのを見て、短い文面で――『接近中』……待ち伏せだな」

冷えた確信。能力『クリミナル・イヤー』が、嘘の継ぎ目を拾った時の顔だ。

報告書に証拠として残せはしない。だが、呼吸の拍、砕けた微表情――それで十分だった。

「ここに長居は無意味だ」翔さん。

「この場所に人質は?」私は続ける。

「こっち」先に見回っていた乃亜が手招きした。

二人。

低い呼吸。魚とアンモニアの匂い。冷蔵室の中に閉じ込められていた。

「……人でなし」思わず漏れる。

「温度は少し上げてある――なきゃ、とっくに息絶えてる」アスタロトが物珍しげに覗き込む。

「それでも、時間はない」私は低く返す。

外では、谷口さんと警官が倉庫の見張りを車へ詰め込む。

気絶している二名はトランクへ、残りは後部座席へ。ゴミ袋みたいに扱われていく。

少女たちは冷蔵室から出され、警官がすぐ自分の上着を掛けた。瞳の動きは鈍く、皮膚は冷たい。

私は少しずつ水を飲ませる。

二台目の支援車が、彼女たちを目立たせずに署の病院へ運び出し、見張り連中はそのまま取調べへ。

「これで護衛はゼロだな」谷口さんが時計を見る。

「まあ、収穫は上々だ……天宮の車に移る」

「急ぐぞ。連絡が回ってりゃ、人質の移送が始まる」翔さん。

私は一度だけ倉庫を振り返った。

もう誰も踏まない床で、氷だけがきしむ。

国道161号に戻り、湖岸道路を拾って『におの浜』の公園と広場の方角へ。

琵琶湖は冷たい呼吸だけを見せ、光は低いまま灰色だ。

車内は無言。

――終わったら、信じて、と言おう。

舌の上で、石みたいに重くなる言葉。

空き地は想像通り。

コンクリのブロック。汚れた空を返す水たまり。剥げた塗装の重機。人影は――ない。

そう見えるだけ。

「待ち伏せ、ありえる?」隣の乃亜。

「通報が通ってるなら、仕掛けてくる公算は高い」谷口さん。

「分かれて入る。罠でも、角度違いで援護できる――無線は谷口にもらったやつを使う」翔さん。

「ふーん、無線あるのに、身振り手振りで会話してたの? 原始人ごっこ?」アスタロトが笑う。

彼女の言う通りだ。慌ただしさに紛れて、使い損ねていた。

「……誰だって、ミスはするわよ」私は返す。アスタロトは、さらにおかしそうに肩を震わせた。

最終的に、乃亜は右のフランク。谷口さんはコンテナの陰へ。

翔さんはアスタロトと湖側を取る。

「合言葉、忘れるな」翔さん。

昨夜、居酒屋で見せられたファイルのページが脳裏に浮かぶ――『向陽』/『有栖川』。

風が、濡れた鉄の匂いを運んできた。

正面入口から入るのは私。――いちばん、神経を尖らせるのは私の役目。

深く息を吸う。分散。

前へ出て、倉庫の入口の柱に身を寄せ、周囲から狙われない角度を確かめる。

間もなく、各自が所定に付いた――はずのタイミングで、無線が鳴った。

『向陽』――翔さん。

『向陽』――谷口さん。

私はコンクリのブロックの間を抜け、砂利を踏む。

PTTのボタンを押す。

「向陽」――私。

全員、位置は取れた。だが、一人だけ――返事がない。

乃亜。

数秒、報告を待つ。来ない。

「乃亜、レポート」

翔さんが三度、呼ぶ。

――沈黙。

妙だ。待ち伏せがあるなら、もう飛び出してくる。なのに、空は空のまま。

遠くで、乾いた音――バンのドア。

私は音の方向へ歩を速める。

二つのコンクリの山のあいだ、暗い車体の輪郭。ドアが勢いよく閉まる。

小柄な影――黒いニット帽、パーカ。もみ合い。細い腕が、車内へ押し込まれた。

エンジンが咳をして、ワンボックスが樹列ぎりぎりの側道へ切れる。

「いや……」喉の奥まで心臓が跳ね上がる。

タイヤを狙いたい。

――けれど、柱が射線を奪った。

「翔さん! 連れていかれた!」

声は澄んでいた。中身は、針金みたいに張り詰めていた。

私は反対側へ回り込む。

砂利で滑った車は水たまりを跳ね、消える。

駆け寄ってきた翔さんたちが到着する頃には、もう遅かった。

「どっちだ――どっちへ行った」翔さん。

息は全力疾走の後みたいに荒い。

「公園側の出口……暗いバン……ナンバーは見えない」

翔さんは、車が消えた方角を見据え――そして、崩れた。

膝が落ち、握った拳が砂利へ沈む。

怒りじゃない。

――約束の重さが、ビルのように背に落ちた音。

「くそ……俺のせいだ……巻き込むべきじゃなかった」絞り出す声。

「親父さんに、何て言う……守るって、命に代えてもって――」

拳が地面を打ち、手の甲が潰れる。

私は膝をつき、両肩を掴んだ。

コート越しにもわかる、熱い石みたいな罪悪感の硬さ。

「こっちを見て」

彼は見ない。

「――こっちを見なさい、翔」敬称を外す。

恐れとも、苛立ちともつかない顔で、彼がこちらを見た瞬間――私は頬を打った。迷いを断つために。

「ここで折れたら、取り返せなくなる――私がいる。あなたを一人にしない。今までも、これからも。信じて。乃亜を取り戻して、全員で帰る」

彼は瞬きをした。

目は赤い。涙じゃない――寒さと、内側から殴られた痛みのせいだ。

「……結局、分かれたのは失敗だった」ようやく翔さんが言った。

「ええ。でも五人は救えた――大事なのは、ここから何をするか」私は深く息を吸う。

「功に、すぐ電話を……」翔さんが膝をついたまま立ち上がろうとする。

私は両肩を強く押さえた。

「――私を信じるって、言って」

返事はない。

「私を信じて。支えさせて」

翔さんは大きく呼吸して、うなずいた。

谷口さんが携帯を見て、現実へ引き戻されるみたいに指を動かす。

「お熱いとこ悪いが、時間がない。大津署の署長に上げる。湖岸の県道と国道1号、出口はやわらかく塞ぐ。市内へ入れば網で拾う。湖沿いを回るなら、草津へ通報だ」

「お願い――あなたの影響力を使って」私は翔さんの肩を離さない。

アスタロトが近づいて、無言で私の背に手を置いた。笑みはない。

「さて、と。今回は手を貸すわ。見てるだけじゃ、もうつまらないし」

風が、細い針みたいに頬を刺す。

「乃亜さんも、ほかの子たちも――みんなで取り戻す」今度の声は、震えなかった。初めて、主導権が自分にあると、はっきりわかった。

翔さんが立ち上がる。

戻ってきたのは平静でも冷徹でもない――別のもの。

頼ることを、ようやく選ぶ人間の目。

「……ああ。みんなで、だ」

谷口さんはもう通話中で、短い文句で座標を飛ばしていく。

霧が、もう一段、濃くなる。遠くで、湖が息をひそめた。

ブロックの影で、俺たちの影がいっとき重なる。そこから動き出す。

罪悪感は胸骨に貼り付いたまま――でも、やっと向きに変えられる。

本当に彼の隣に立ちたいなら、今それを証明するしかない。

時計を見る。午後2時12分。

翔さんがスマホを強く握り、発信。スピーカーに切り替える。

『金田だ』

「計画を変える……乃亜が攫われた」翔さん。

重い沈黙。

『……了解。場所は』

「におの浜。数分前だ――作戦の前倒し、あるいは延期は可能か? 今は彼女に集中したい」

『不可能だ。だが警察に仕事を作ってもらえば、救出を挟める。連中の目を逸らすだけでいい』

「……水月会、か」翔さんは谷口さんを見る。彼はすでに一斉連絡を回していた。

「心配いらない。警察は動く――で、そっちはどう動く」

『十五分で神戸を出る。無駄は省く。合流して計画変更を共有したい。大津到着は16時30分前後になる』

「集合地点は俺から送る――内線で」

『了解。着くまで無茶はするな』

「努力する……もう一つ。――佐伯さんには言うな。乃亜のこととなれば、必ず来る」

短い沈黙。

『言わない』

「頼りにしてる、功」

通話が切れた。

通話の余韻が、しばらく倉庫の金属に貼りついていた。

並行して手配していた谷口さんも、携帯をしまう。

「警察には回した。怪しい地点は重点で流す。動きが出ればすぐ拾える。遠くへは行けないはずだ」

「助かる――もう一つ、谷口」翔さん。

「何だ」

「今朝、集合に使った倉庫を仮ベースに貸してくれ。乃亜の救出と、水月会への一撃――両方の段取りを詰めたい」

「まだやるつもりか」

「この汚い世界は、結局カネだ。連中にとって最優先も同じだ」

谷口さんは鼻で息を吐いた。

「……後で俺にツケが回らなきゃいいが――使え」

「誤解するな。お前も来い。これはお前の管轄にも直結する」

谷口さんは軽く額を叩き、観念した顔をした。

アスタロトは腕を組み、口元だけで笑う。

「ふふふ……これで駒は盤に並んだ――予定外の一手は入ったけどね」

(乃亜の拉致のことだ)

横顔の翔さんを見る。

声は硬い。けれど、その奥に滲む急げは命令じゃない。

――焦り、祈り。

彼は全部を背負おうとする。佐伯さんへの約束も、過去の選択の痛みも、私たちの命も。

それでも、前へ進む。

霧が一段、色を落とす。湖は息を止めたまま。

三宮の夜、居酒屋、私自身の拙さ。

大津で、痛くて、でも救いでもあることを理解した。

――彼が背負うというのなら、私はその肩の横に自分の肩を並べる。

後ろからじゃない。隣で。

「行こう。乃亜さんを取り戻して、水月会を沈める――一緒に」

私は言った。今度は、どこも震えなかった。

翔さんは、バンが消えた出口から目を外さずにうなずく。

そこで私の中の章は閉じた。

鉛色の午後が、二時間ぶん、ゆっくり開いていく。

そしてきれいに決めた。彼の歩幅で並び、揺らいだ時は支える――そうやって進む、と。

次回・『標的は二つ、迷いは零。』

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