第15章。 『計画の日、作戦開始。』
神戸の街に冷たい風が走る。
ついに、大津で行われる二つの任務——警察の捜査と、裏社会の依頼。
表と裏、正義と罪、どちらも逃れられない。
綿密に練られた作戦図は、まるで外科手術のように精密だ。
しかし、計画よりも先に揺らぎ始めたのは「人」と「信頼」。
守るための嘘か、それとも打ち明ける勇気か。
交錯する思惑の中で、それぞれの選択が試される。
冬の訪れを告げる神戸の夜に、すでに糸は張り詰めていた。
そして、その先には——大津。
天宮・翔
相沢・小百合
佐伯・健三
谷口・健太郎
金田・功
佐伯・乃亜
月輪教団
荒鷲会
水月会
青龍会
長田区・神戸。【アスタロトの視点】
2016年11月30日・午前8時20分。
翔くんはベランダで煙草をくゆらせていた。
まるで煙で悩みを曇らせているみたいに見えて……
その姿が可愛らしくもあった……ふふふ。
空気は刃のように冷たく、気温は十度ほど。低い雲が山々に絡みつき、白濁した光が町の色を平らに潰していた。
西の方からは須磨の潮の匂いが漂ってきて、下ではシャッターがガラガラッと鈍く上がる音。
遠くでは山陽電鉄が新長田から板宿へと、金属的なリズムを刻んでいた。湿った鉄の匂い、煮立った出汁の香り、そしてどこかのパン屋の焼きたての匂いが混ざり合っていた。
私は裸足のまま、引き戸の枠に寄りかかった。
錆びて塗装の剥げた手すりには、長い年月の痕が刻まれている。
「ねえ、いつになったら隠していることを話してくれるの? 私が思考を覗けるの、知ってるでしょう?」耳元で囁く。
「もう知ってるなら、説明する必要はないだろ」
翔くんは煙を吐き、風に散らされた輪を見送った。
「二つの任務、ねぇ……」私は小声で歌うように言った。
「大津、警察、ヤクザ、そして教団……ふふふ、面白そうじゃない……で、小百合ちゃんと乃亜ちゃんはどうするの?」
「明日一緒に行く……そこが問題だ。抗争に巻き込みたくはないが、同じ町で二つの任務が重なっている以上、置いていくわけにもいかない」
私は喉を鳴らして笑った。
「ふふふ……それで? いつも君を監視している小百合ちゃんに気付かれず、どうやって敵の事務所へ潜り込むつもり?」
「考えがあるさ……助けないなら邪魔するな、悪魔」
翔くんは不機嫌そうに吐き捨て、部屋に戻ろうとした。
冷たい空気が肌を刺すのに、彼は半袖のTシャツ一枚。寒さなど気にも留めていないようだった。
「いい考えがあるわ。小百合ちゃんに悟られず両方の任務を進める方法」
そう言うと、翔くんは引き戸の前で立ち止まった。
「……提案は?」
「簡単よ。電話一本で解決できる」
「電話? 誰に?」
「健太郎くんよ。彼に電話して、小百合ちゃんからもらったリストに『新しい候補地』を加えさせなさい。そうすれば、そこに行っても不自然に思われないわ」
翔くんは煙草を灰皿に押し付け、携帯を取り出してすぐに番号を押した。
スピーカーモードにする。
『はい』
「天宮だ。明日の準備は整ったか? 期限は伝えてあるだろう」
『はいはい……ちょうど確認の連絡をしようと思っていたところです』
「よし、今がいい機会だ。新しい場所の情報をメールで送る。明日の捜索候補地に加えてほしい」
翔くんの声は乾いて、抑制されていた。
短い沈黙の後、健太郎くんの声が返ってきた。
『確かに紛れ込ませることはできそうですが……そんな場所で、一体何をするつもりですか?』
翔くんはまた煙を吐いた。
「詳しくはこの回線じゃ言えない。ただ、協力してくれれば君の成功した警察官としての評判は天まで跳ね上がるだろう……それに、アスタロトが君ならできると言ってる」
「やっほー、健太郎くん♪」
私が軽く声を掛けるだけで、彼は従うしかなくなる。
「ちっ……やはり。分かりました、協力しましょう。ただし大津に着いたら、きちんと説明してもらいますよ」
「安心しろ。送った情報以外に必要なことはあるか?」
「いや、それで十分だ。他のことは直接会って話そう」
健太郎くんはそう言って電話を切った。
ベランダを抜ける風は肌を逆立て、まるで冬の到来を告げているよう。
あるいは——私たちが向かうのは冬ではなく、地獄かもしれない、ふふふ。
五分も経たぬうちに、翔くんは再び携帯を取り上げて別の番号を押した。
『翔くん、何の用だ?』受話器の向こうに聞こえる声。
「佐伯さん、明日大津へ行けることが確認できました。準備のために会えませんか?」
短い沈黙。
『……翔くん、俺はもう隠居の身だ。覚えているか、功くんを?』
「功……あの六甲山の件で助けてくれた部下の一人か? 金田功のことですか?」
『その通りだ。今は荒鷲会の兵站を仕切っていて、こうした任務では青龍会の下請けも担っている』
翔くんは眉をひそめた。
「……正直、少し驚きました」
『ははは、安心しろ。若いが腕は確かだ。何しろ私が鍛えた男だ、翔くん、君と同じようにな。計画段階までは私も顔を出す。だが、実行時は一緒に行けん』
「分かりました。あなたの判断を信じます。では、本日会えますか?」
『ああ、午後四時だ。三宮、中央区旭通の雑居ビル、五階だ』
感謝の言葉を交わし、二人同時に通話を切った。
「ふふふふ……人生は意外な再会を用意するものね。新しいお友達ができそうじゃない、翔くん?」
私が茶化しても、翔くんは返事をせず、リビングのテーブルに腰を下ろしてノートパソコンを開き、黙々と作戦を練り始めた。
しばらくして、ぽつりと口を開く。
「なあ、悪魔……腹が減った。何か作ってくれないか」
「あらあら、私の料理がそんなに好きだったなんて、知らなかったわ、ふふふ」
「ちっ……どうせ今ごろ谷口と大津にいるんだろうと思っただけだ」
「ええ? 妬いてるの? ふふふ。安心して、翔くん。私のお気に入りは、今でも君よ。だから特別に朝食を作ってあげるわ」
私は鼻歌を歌いながらキッチンへ向かった。
その後、特に騒ぎもなく時間が過ぎた。
翔くんはコーヒーを相棒に、時間さえ従わせるかのように黙々と作業を続け、私はただ観察した。見守ることもまた、状況を進める手段なのだから。
午後3時40分、私たちは部屋を出た。
空は澄んだ灰色で低く、冷たい空気が喉に絡みつく。
最初は工房や商店の並ぶ通りを抜け、やがて中央区へ。神戸の午後は慌ただしくも礼儀正しい——配送車がせわしなく走り抜け、自転車は隙間を縫い、歩行者は赤信号を律儀に守る。
傾き始めた陽がビルに淡い茶色の光を落としていた。
高速3号神戸線の高架下をくぐると、鉄骨の柱が肋骨のように並び、車窓に影を刻んでいく。
潮の匂いが湾から上がり、排気の熱気と混じり合った。
車の時計は3時58分を指していた。
三宮・フラワーロードにはバスやタクシーが途切れなく並び、地下鉄の出入口では一陣の風が紙屑を舞い上げていた。
目的の旭通の雑居ビルは五階建て、灰色のタイル張りの外壁に地味な看板。
エントランスには『旭コンサル』と細い文字、下には会計事務所の名札。
エレベーターの中は金属と煙草の匂い、木目調の壁に古びた鏡がこちらを映す。
五階で降りると、簡素な踊り場。花のない鉢植えが二つ、窓の向こうにはファミリーマートの看板と、鎖に繋がれた自転車の列が見えた。
——何も起きないふりをするには最適な場所。
中で待っていたのは金田功くんだった。
三十代半ばほどの男。六甲山の夜、私はその姿をよく見ていなかったが——短く整えた黒髪を横に流し、白いシャツにノーネクタイ、濃い色のスラックス。
拳の骨は硬く鍛えられ、手の甲にはテープで隠した刺青が覗く。
だが、その目は穏やかだった。
テーブルの上には広げられた地図、薄いファイルが数冊、そして無線機や電材の入ったプラスチックケース。
佐伯は窓際に立ち、黒い影のように灰色の光に溶け込みながら、煙草を灰皿に押し付けた。その仕草だけで場の言葉を切り落とす。
「ちょうどいい。早速本題に入ろう」
功くんは余計な挨拶もなく切り出した。
「時間を無駄にしない男だな」翔くんが軽く笑う。
「そういうつもりじゃない。ただ、段取りを整えたいだけだ。日が暮れる前にな」
「気にするな、冗談だ。そんなに固くならなくてもいい」
翔くんはジャケットを椅子の背に掛け、彼の左隣に腰を下ろした。
私は壁に背を預け、腕を組んで見守る。呼吸する絵画のように。
——さて、どんな面白いことを聞かせてくれるのかしら、ふふふ。
功くんは立ち上がり、ボールペンで関西地方の地図を指し示した。兵庫と滋賀——今回動くのはその二つの県。
「まず、明日の朝に神戸を出発し、大津に入る際はできるだけ目立たぬように。佐伯さんから聞いたが、大津署に顔が利く相手がいるんだな?」
「そうだ。市内の入り口で合流し、護衛させるつもりだ。ただし、こちらも最大限目立たないように動く。別の車が必要になる」翔くんは即答した。
「それは用意できる……午後の行動は失踪事件の調査だな?」
「ええ。大津は自由に歩ける街じゃない。二つの任務を一度で済ませる。」
「それがいい。我々は夜になってから市内に入る。滋賀の企業ロゴで偽装した車両を二台、それに浜大津近辺に技術班のワゴンを配置する。回転灯も制服も一切なしだ」
佐伯は短くうなずいた。
「……ああ、目立たないことが第一だ。水月会は小規模な組織だが、地の利は向こうにある。軽率に動けば命取りになる」
翔くんは功くんにルート表を渡した。
――警察・谷口健太郎と合意済みの『公式』調査ルート。
SET-α(倉庫/瀬田)、HMO-β(冷蔵倉庫/浜大津)、BLK-γ(工事中の違法ブロック置場/におの浜地区)。
さらに追加で、水月会の建物(膳所)を偽装調査の対象に。
「これで十分だろう」功くんは紙を畳んだ。
「幸い、ほとんどの地点は互いに近い。遠いのは瀬田だけだが、大きな問題ではない」
「俺もすでに頭の中でルートを組んである。現地で警察と確認を取ればいい」
私は地図を覗き込み、にやりとした。
——二つの任務が異なる拍子で進む。音楽が複雑になるほど、私は楽しい。
思ったよりも翔くんと功くんは息が合っている。言葉少なでも通じ合うのは、二人が同じ師に鍛えられたからかもしれない。
……人間で言えば、これをケミストリーというのかしら……ふふふ。
功くんは新しいシートを机に広げた。
「では次だ。本題の中の本題——突入計画だ」
「……見せてもらおう」翔くんが低く応じる。
「市内への侵入は三つの経路を用いる。一つの痕跡にまとめさせないためだ」
「A班は西側から。西大津バイパスの騒音に紛れてサービスレーンを進入する。車両はパネルバン。地元ナンバー、側面には引っ越し業者のマグネット広告」
「B班は南から。国道1号を経由する。車両は電気工事を装った小型トラック。屋根に梯子とケーブルを載せる。ゲート前の滞在は最大四十五秒」
「C班は東側からだ。地元の観光会社のロゴを貼ったセダンで侵入し、補助と退路のガイド役を兼ねる。エンジンは常に温めておき、A・Bとのラインを崩さない」
……悪くない。
若造のくせに、なかなか頭が切れるじゃない。敵地へ潜り込む計画としては十分に練られていた。
「面白いね」心の中で呟く。
佐伯は誇らしげに口元を緩めた。
翔くんもスパイ映画でも思い出したのか、少し嬉しそうに笑っている。
「褒め言葉は結構だ。それより次は建物内部の情報だ」
功くんは図面を指差した。
「内部と外周に監視カメラ。死角は……ここ、そしてここ。側面に非常階段。ドアノブはバンプキー対応、シリンダーはデコーダーで開く」
「作戦時間は?」翔くんの問い。
「最大で十分だ。それ以上はシステムに異常検知される。残念ながらハッカーはいない。ただ、計画通りなら二分で侵入、七分で金庫を開けて回収、残りで離脱。合計九分で済む」
佐伯は笑い声に刃を混ぜた。
「九分か……昔の俺より早いな。若い者は老いぼれをすぐ追い抜く」
功くんは少し照れたように頬を赤らめた。
翔くんは黙ってうなずく。彼が時間を刻むとき、そこに迷いはない。
功くんはプラスチックケースを開け、内容を示した。
「役割と装備はこうだ。詳細は後ほどメールで送る」
翔くんはノートPCを開き、ファイルを確認する。
通信:PTT無線+イヤホン。周波数固定。合言葉——
Go: 『向陽』
中止: 『有栖川』
ルート変更: 『ポートタワー』
監視対策:注入クリップで廊下カメラに五分ループ。失敗時は死角に人員配置。
解錠:バンプキー/デコーダー/内視鏡+マスターキー。ボルトカッターは最終手段。
照明:ペンライト+ディフューザー。
証拠管理:ナンバリング封筒(A-1~A-5)。
A-1: 顧客データ入りUSB。
A-2: 契約書。
A-3: サンプルKNS-01(小瓶)。冷却ボックス+封印必須。
A-4~5: 作戦関連文書。
装備:ニトリル手袋+作業用手袋。
制圧:結束バンド+紙テープ。無駄なヒーロー行為は禁止。
人員配置:
天宮翔:実行担当。金庫170322の確認。
技術員:解錠+CCTV処理(翔さんと同時侵入)。
見張り:廊下・階段の監視。カウントも担当。
運転手:タイム管理+車両移動の判断。
「まるで銀行強盗の準備書みたいね……ふふふ」私は思わず口に出した。
「数億単位の話だ。組織が金を惜しまないのは当然だ」佐伯が淡々と返す。
翔くんは鼻で笑った。
「問題は……図面通りの精度で動けるかどうか、だな」
「あらあら、まさか怖じ気づいた? 翔くん……ふふふ」
「恐怖なんて言葉は、俺の辞書から消えた」
再び視線が文書に戻る。
離脱計画:
戦利品は冷却ボックスへ。
A班:10分で退出。
B班:外周をカバーし14分で離脱。
C班:退路を確保し、全体を誘導。
車両交換:大津市外・大谷町の林陰で行う。街灯の少ない区画にて車を乗り換え、合流後はC班が選んだ最も安全な経路で神戸へ帰還。
「警察に水月会を数分だけ押さえさせれば、その隙に悠々と抜けられるはずだ」
翔くんが言った。
「本当に信用できるのか?」功くんが眉を寄せる。
翔くんはちらりと私に視線を送り、私は皮肉な笑みで頷いた。
——いいわね。彼らが私に依存するほど、私は自由に盤面を動かせる。チェスの駒のように。
「心配いらない。奴らは数分は足止めしてくれる」
佐伯が言葉を添える。
「谷口くんが絡んでいるなら信頼できる。あれはそういう男だ」
「……分かった。そうなら助かる」功くんもうなずいた。
翔くんは声を低めて締めた。
「谷口は自分の名を上げるためなら何でもする。麻薬事件として功績を独占させてやれば、喜んで動くさ」
三人の頷きで会議は終わった。
翔くんはPCを閉じる。その仕草で空気が変わる——まるでオーケストラが弓を構える前の静寂。
私は窓辺へ歩み寄った。
三宮の街が冷たい模型のように広がっていた。
フラワーロードの灯り、ファミリーマートの自動ドアが吐き出す空気の溜息、並ぶタクシーは静かな魚の群れのようにじっと待つ。
昼が皺を寄せて夜に沈んでいく。
「一つだけ」功くんがこちらを見た。
「奇跡なんて、当てにするな」
「奇跡なんて要らないわ。私がついているんだから、ふふふ」
会議は三人の握手で終わった。約束の言葉はなく、ただ時計を合わせるだけ。
翔くんと私はゆっくりしたエレベーターで降り、佐伯は功くんと残った。
外はさらに冷え込み、神戸の夜気は出汁と屋台の匂いを運んできた。
午後六時前、街は夕飯と賭け事の気配で膨らんでいる。
明日に向けて糸を張り詰める夜。その糸の先には大津がある。
車に戻る前に、翔くんは携帯を取り出した。
「よ」
『翔さん? どうしました?』小百合ちゃんの声。
「今夜、少し時間あるか?」
『これから夕飯を買いに出るところですけど……必要な物が?』
「三宮にいる。迎えに行こう。明日の任務について話がある」
短い沈黙。
『……分かりました。待っています』
「じゃあ、後で」
通話を切ると、翔くんは息を吐いた。
「明日まで会わないつもりじゃなかったのか?」私が聞く。
「考え直した。危険に巻き込みたくない」
「おやおや……全部話すつもり? ふふふ、それは『ミッション・インポッシブル』じゃない?」
「黙れ」
私たちは車に乗り込み、三宮の灯りを抜けて小百合ちゃんの家へ向かった。
夜は静かに、しかし確実に重くなっていった。
***
北野町・神戸。【相沢小百合の視点】
2016年11月30日・午後6時30分。
居間の時計が六時半を指したころ、家の前で短いクラクションが鳴った。
外は冷たい空気が喉を掻くようで、坂道の街灯は黄色い円錐を石畳の家並みに落としていた。風は枯葉と古い石の湿った匂いを運んでくる。
晩秋の水曜日。北の山は低い雲に覆われ、南の湾はすでに闇に沈んでいた。
玄関に掛けてあった革の手袋と濃色のコートを取り、急ぎ身支度を整える。
黒いウールの長袖ブラウスに膝上のスカート、濃い色のストッキングとショートブーツ。季節に合わせただけの簡素な装いだ。
髪は肩に下ろしたまま。冷気で少しだけ跳ねる。
軽いマフラーを巻き、階段を降りて車へ向かった。
助手席のドアを開けると、翔さんが無言でうなずいた。
車内の空気は温かく、外気の冷たさと対照的だった。
「迎えに来てくれてありがとうございます」小さく声を掛ける。
翔さんはすぐには返さず、またうなずくだけ。
代わりにアスタロトが口を開いた。
「小百合ちゃん、久しぶりね」
「ええ……人間の服にも慣れてきたみたいね」
彼女は制服風のセーラー服を着ていて、思わず笑みがこぼれた。
「案外悪くないわ。人間の趣味って、なかなか快適なのね」と、少し照れ隠しの声。
車は動き出し、狭いカーブを抜けて三宮へと下っていく。
夕方の交通は混雑していた。タクシーの列、バスの点滅灯、買い物袋を提げた歩行者、手に閉じた傘を持つ人々。ネオンの霞の下で早足に通り過ぎていく。
私は些細な話をした。気候のこと、トアロードの古本屋が閉店したこと、角の焼き栗の匂い……
けれど翔さんは、短い相槌ばかり。目は前方に向いたまま、心はすでに大津へ渡っているように見えた。
怒らせるようなことをしただろうかと考えたが、理由は思い当たらなかった。
アスタロトも窓の外を眺めるだけで、何も言わない。
二十分後、裏通りに車を停めた。木の外壁に古びた暖簾を掛けた居酒屋。
三宮の雑踏に紛れるように建ち、焼き鳥と濃い出汁で知られる古店。
会社員、内緒の恋人、学生……誰も他人を気にしない場所だ。
案内されたのは壁際の低い木の卓。
翔さんはろくにメニューも見ず、刺身の盛り合わせと熱燗を。
私は湯気の立つうどんと緑茶を。
アスタロトは唐揚げとたこ焼きを。
「羨ましいですね。あんなに食べても太らないなんて」
私が冗談めかすと、彼女はふふふと笑って返した。
「悪魔の特権よ」
料理はすぐに運ばれてきた。
翔さんはほとんど箸を動かさず、機械的に口へ運ぶだけ。
琥珀色の灯りに照らされた顔は、目の下の影が濃い。
私はしばらく黙って彼を見つめ、ついに身を乗り出した。
「翔さん……何かあったのですか? 明日大津へ行くと言いましたけど、会ってから一言も話していません」
翔さんはすぐには答えなかった。
箸を盆に置き、鞄からノートPCを取り出して机の上で開く。
画面の光が彼の張り詰めた横顔を照らす。
差し出されたモニターには、地図、ルート、コード——外科手術のような計画。
警察と話していた救出作戦ではない。
私は深く息を吸った。
「……これは何ですか? 大津の地図なのは分かりますけど、捜索とは無関係ですね。まるで銀行強盗の計画みたいに見えるんですが」
翔さんは小さくうなずき、熱燗を一口含んだ。
「一体、何を企んでいるのですか? 最近のあなたは、どこかおかしい」
視線がぶつかる。
そして、出会って以来初めて——彼の目に疲労の色を見た。
「……打ち明けなければならないことがある」
「言ってください。私はあなたを裁きません」
翔さんは吐息を洩らし、声を低くした。
「大津に戻るために……正式に組へ復帰した」
その言葉は驚きではなかった。
佐伯さんからも、翔さん自身からも、断片的には聞かされていたから。
「……じゃあ、この計画は強盗ですか?」
「いや、狙いは強奪ではない。潜入だ」
「詳しくは聞きません。でも、捜査に支障は?」
アスタロトが唐揚げを頬張りながら笑い声を漏らした。
「ほら、だから面白いのよ……ふふふ」
「これが……俺の試練だ。そして罰でもある。警察に協力した報いだ」
翔さんの声は硬い。
胸の奥が重く沈む。罪悪感が喉を締め付けた。
けれど私は黙って受け止め、やがてうなずいた。
「分かりました……大変だとは思います。でも、力を合わせれば両方こなせるはずです」微笑んでみせた。
しかし彼は首を横に振った。
「いや……今日ここへ来たのは、その逆を頼むためだ——明日は来るな。大津には危険すぎる。君も、乃亜も巻き込めない。俺一人で救出も、組の仕事もやる」
「……え?」
息が詰まった。
彼の言葉は一日中喉に引っかかっていた棘をようやく吐き出したようだった。
湯気の立つうどんが目を曇らせる。私は箸を置き、静かに言った。
「つまり……そういうことなんですね。信じてないって」
「違う。そうじゃない、小百合さん」
「私を足手まといだと思ってる。守るだけの存在だと」声は低くても、刃のように鋭かった。
「忘れないで。私は元・刑事課の鑑識官。銃も撃てるし、潜入だってできる」
「俺がヤクザだったと打ち明けたとき——君は黙った。その沈黙は疑いだと感じた。もし助ければ、君も組織の共犯になる」
私はまっすぐ見つめ返した。
「疑っていたら、翔さん、ここにはいません。命を賭けて何度も隣に立ったりしません。私はあなたの影じゃない。自分で選んで、あなたの隣にいるんです」
視界が滲んでも、目は逸らさなかった。
「最後まで支えると——自分で決めたから」
翔さんは何も言わなかった。
「自分一人で背負うつもりですか? もし死んだらどうするんです……それでは私も死を待つだけになる。忘れないでください、私たちが共に動いてこそ、この計画は成り立つんです」
「これまでを振り返っても……まだ私を信じられないのですか。それが残念でなりません」
居酒屋のざわめきよりも、沈黙の方が重く響いた。
私は背もたれに寄りかかり、深く息を吸い、濡れた目尻をそっと拭った。
「私は遠ざけられる必要なんてありません。欲しいのはただ一つ——信じてほしいということ。それができないのなら、たとえ一緒に大津へ行っても……私たちは隣にいながら孤独なままです」
箸を丼の上に交差させ、静かに立ち上がる。
軽く頭を下げ、翔さんとアスタロトへ一言。
「失礼します」
足を運んで店を出る。
三宮の冷たい夜気が頬を打った。
街路の灯りが水たまりに揺れ、踏みしめるたびに波紋が広がる。
店の中で押し殺したものが、外へ出た瞬間に溢れそうになった。
北野町へと歩き出しながら、耐えきれずに涙が二筋、頬を伝って落ちる。
それは恐怖の涙ではない。状況に怯えて流したものでもない。
——必死に示してきたはずの信頼が、まだ届いていないことへの悔しさ。
冷たい風の中で、その痛みだけが熱を持って頬を焼いていた。
***
三宮・神戸。【天宮翔の視点】
2016年11月30日・午後7時55分。
振り返らずに車を出した。
ヘッドライトが三宮の湿気を裂き、フロントガラスの内側は白く曇り始める。
窓を指二本ほど下げると、刃のような冷気が入り込み、煙草の火を半分奪った。
高速3号神戸線の下、金属音が天井のように響く。
駅前にはタクシーの列。
さらに先にはネオンとパチンコ、昆虫のように唸る電飾。
一日の段取り。
痕跡を残さないルート、段階的な侵入、コードと時間の窓。
だが最初に崩れたのは計画じゃない。俺たち自身だった。
守るために嘘を吐くのと、真実を告げて離れられるのと——どちらが正しかったのか。
明日、彼女に信じてもらえなければ、完璧な作戦など意味がない。
……秘密のまま進めた方がよかったのか?
「いい顔だったわ。立派なヤクザを演じて二十数分で全部壊したんだから、ふふふ」
アスタロトの声が後部座席から首筋に落ちた。
煙を吸い込み、喉を焼いた。
「隠しておく方が危険だった。明日、彼女の命を賭けるわけにはいかない」
「聞こえは高潔ね。でも無駄よ。刃にも盾にもなろうとする者は、敵より先に折れるもの」
花隈の信号で止まる。
赤に染められたガラスに、青白い顔と隈が映る。
国道2号へ右折。中央区から兵庫区、そして長田区へ続く白い帯。
左手にあるはずの海は闇に隠れ、匂いだけが街の裂け目から漏れていた。
彼女を守ろうとしているのか。
それとも、彼女のそばにいる自分の残りを守ろうとしているのか。
境界は、もう曖昧だった。
「結局『二人でいても孤独』って言ったでしょ。つまり、彼女は彼女のやり方で大津に現れる。先に動かれる可能性だってある……それこそ危険じゃない?」
アスタロトは飴玉を転がすように囁いた。
「なら、適応する……もう決めたことだ。後戻りはない」
「ふふふ、そうね。今日だって——隠そうとして、結局白状した。手に入れたもの? 彼女との亀裂と、チームの不安定さだけ」
「……それでも、小百合さんが一番冷静だ。無茶はしない」
「ふふふ、女の怒りを甘く見ないことね。」
再び高架の下を抜ける。柱は肋骨のように並び、風が窓の隙間を震わせ、煙草の灰を揺らした。
火を灰皿に押し付けた。力が入りすぎて、火花が散った。
信頼を失えば、計画はどちらも無意味になる。
嘘をつこうが、真実を告げようが、結果は同じだっただろう。
——だが、何かが変わった。
以前は、決断に伴う危険など気にも留めなかった。
だが今は違う。
センターコンソールで携帯が震えた。
視線を落とすと、画面が車内を照らす。
『明日、午前8時。』
アスタロトは歯を見せずに笑った。
「ほらね。彼女は頑固よ。あんたが何を言っても、何を隠しても——結果は変わらない。むしろ余計なリスクを背負っただけ」
「分かってる。わざわざ言うな」
「ふふふ……傷に酒を垂らす方が、よく染みるでしょ?」
返す言葉はなかった。
長田区のマンション前に車を停め、エンジンを切る。
外の喧噪は窓一枚隔てて遠のき、蓋をされたように沈黙した。
——居酒屋で口を開く前から、本当は分かっていた。
否定したかっただけだ。
もう後悔はしたくない。
あのとき母を死なせた過ちを、繰り返すわけにはいかない。
❊❊❊❊❊
次回・『大切な絆、試される時。』
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!
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