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第14章。 『二重任務、二重の危険。』

神戸は、声を荒げない。だから危険は、足音ではなく呼吸で近づく。

新開地の朝、翔のポケットに落ちた一通の封筒――表は穏やかでも、中身は都市の体温を一度だけ上げる。

港風とネオンの隙間で、翔は二つの時間を同時に進めねばならない。ひとつは大津での『静かな仕事』、もうひとつは湖の向こうに消えた少女たちの行方。

どちらも手遅れにしないために。

小百合は、触れれば過去が滲むエコーを訓練する。

乃亜は小さなナイフで現実の距離を測り、佐伯さんは街の地図を無言で読み解く。

そして、悪魔アスタロトは笑いながらロープの高さを調整する――折れずに耐える者のために。

封筒に記された名は、流通する新薬KNS-01と、組織の裏の顔。

警察の時間と、ヤクザの時間。

どちらにも遅れないために、翔は二重任務を選ぶ。

失敗は、二つ同時に失うということだ。

最初に受け取るのが誰の遺体か、湖はもう知っているかもしれない。

天宮・翔(あまみや・しょう)

相沢・小百合(あいざわ・さゆり)

佐伯・健三(さえき・けんぞう)

谷口・健太郎(たにぐち・けんたろう)

藤川・雅人(ふじかわ・まさと)

佐伯・乃亜(さえき・のあ)

月輪教団(がちりんきょうだん)

荒鷲会 (あらわしかい)

水月会(すいげつかい)

青龍会(せいりゅかい)

青龍組(せいりゅぐみ)

親分(おやぶん)

若衆(わかしゅう)

兄貴分(あにきぶん)

若頭(わかがしら)

子分(こぶん)


新開地・神戸。【天宮翔の視点】

2016年11月28日・午前8時45分。


新開地の秋は、いつも金属と揚げ油の匂いがする。あの時間、光は低い雲に裂かれた薄いガーゼみたいで、古びた建物は寝起きの顔をしていた。吐く息は白く、未明の小雨でまだ濡れたアスファルトが、消えたパチンコ屋のネオンを傷痕みたいに映す。湾からの塩気を含んだ風が、路面に貼りついたイチョウの葉を小さな渦にして、電柱に当たってほどけた。

事務所の入る建物へ抜ける細い通りを曲がる。高架の電車の唸りが、潮の満ち引きみたいに寄せては返す。誰も走らない。誰も急がない。こういう朝は、厄介事はスモークガラスの車に隠れる。

ちょうど入口の前に一台――くすんだセダン。エンジンはかけっぱなし、艶のない塗装、きれいなナンバー。中に二つの影。ワイパーが気だるいリズムでキュッ…キュッ。近づくと、後部ドアがわずかに開き、腕だけが伸びて茶封筒を差し出した。

「親分からだ」――子分は俺を見ない。

「……ああ、どうも」

紙は、要件の重さをそのまま持っていた。開けない。刺青を隠すシャツの上、ジャケットの内ポケットに滑り込ませる。ドアがバタンと閉まる。エンジン音が半音上がった直後、車内からカシャ、と短いシャッター音。振り返らない。

神戸は目と耳が多い。今朝も例外じゃない。

脇の階段を上る。手すりは冷たくザラつき、剝がれた塗装の下に赤錆がのぞく。ドアはいつものギイで開いた。中は、温め直したコーヒーとタバコ、湿った紙の匂い。電気ストーブが、壁のひびの入った角を弱々しく温めている。

安くて古い事務所。手を入れたい場所は多いが、まだ順番が回らない。

小百合さんは机の前に座っていた。革手袋、髪はまとめ、仕切りタブには日本語とローマ字。

窓際のソファには佐伯さん。鞘に収まった刃みたいに真っすぐで、黒いシャツ、重い目つき。

ポットの横では乃亜が紙コップのつまみをいじりながら、俺を見ているようで見ていない。

「おはよう、翔さん。ちょうどいい…始めよう」

「悪い。昨夜はあまり眠れなくて、迎えに行けなかった」

昨夜は、荒鷲会と青龍会の仕事を大津でこなしつつ失踪事件も進める――その両立を小百合さんにどう隠すか、そればかり考えていた。

「気にしないで。たまには地下鉄も悪くないでしょ」

小百合さんが笑った。

俺はうなずき、ぐらつくコート掛けに上着を掛け、車の鍵を机に置く。

窓ガラスが電車の振動でかすかに震え、外の朝は息をひそめていた。

「ハンカチはベンゾジアゼピンで免疫測定が陽性」

小百合さんは端的だ。

「作用の速い系に絞れる。最有力はロヒプノールか近縁。HPLCは今日の午後、ピークと保持時間で詰める。ただ――」ページをめくる。

「この残留濃度と組織への移行パターンだと、現場じゃなくて、搬送前に投与された可能性が高い」

乃亜が紙コップをいじる手を止めた。

「つまり…坂本から連れ出す前に眠らせたってこと」

佐伯さんが口を開く。据え物みたいな低い声だ。

「その手の薬は裏の領分だ。正規ルートじゃ出ない。ましてロットごとに純度が揃ってるなんてな」

壁の時計がコツンと一分を打つ。外でスクーターが一度ふかして、ストンと音を落とした。

小百合さんはもうスピーカーモードで発信した。

『もしもし』

「谷口さん、聞こえますか」

交通音と飲み込んだ欠伸が混じった声が返る。

『ああ、問題ない。約束どおり今は大津だ』

「資料、いま送った。仮説と動きのパターン、地図付き。確認できますか」

『了解…少し待て』

どこかで車が止まる音。ノートPCのカチ、と軽い音。

『よし。見た。二か所、いや三か所に絞れる。瀬田の古い倉庫、トラックの出入りが目立たない導線。浜大津の冷蔵倉庫が二棟、表向きは魚だが時間帯が妙。北の斜面に向かう途中の無表示のコンクリ塊、内側から窓を塗ってるやつ』

大津の人間じゃないはずだが、地図の呼吸をよく知っている声だった。

『ただ、少し時間をくれ。つながりで当てる。リスクを削る』

「無茶はしないで。確証が出るまで動かないでください」

『はは、心配ご無用…それと、今は戻らない方がいい。昨日の件でちょっと騒ぎになってる』

「まあ…避けられなかったでしょうね」

小百合さんが、俺を叱るときの目でちらりと見る。

『空気は軽くしておく。戻る段取りと、最低限の護りも付ける』

小百合さんが、また横目で俺を見た。

ペン先が走る――『確認待ち。』二重線で強く引いて、手を止める。

通話が切れるのとほぼ同時に、外をトラックがやけに遅い速度で通り過ぎた。速度取り締まりでもあるかのような遅さだ。

「谷口さんの確認を待ってから動く。今日は無理に入らない。余計なノイズと危険が増えるだけ」

佐伯さんが舌打ち一つ。黙ったままの同意。乃亜は、水なしで錠剤を飲むみたいに小さくうなずいた。

「小百合さん、谷口の直通、教えてくれ」

小百合さんがほんの少しだけ眉を上げ、佐伯さんは口角だけで『見覚えがある』という顔。

「いいけど、どうして」

「緊急のとき、俺がそばにいないかもしれない。動きがあったら、直接つなぎたい。何が起きるか分からない」

一拍だけ迷って、

「送る。でも、無駄な衝突はしないで」

「心配いらない」

連絡先を登録する。小百合さんは視線を外さない。責める目じゃない。計算の目だ――どうして『俺が』警官と直で。

「話を変える。体調は?ここのところ、きつかったろ」

革手袋がきゅっと鳴る。徹夜明けの光が目に残っている。

「少し、疲れてる。頭が重い。エコーも検査も、どっちも負荷が来る。でも練習しないと、肝心な時に弱る」

曇った窓ガラスが、一瞬だけ見知らぬ街の粗い地図みたいな模様を描いて消えた。

「無理するな。二日は休め」

「だめ。時間はない。甘えたら、荷物になる」

「でも――」

「じゃあ、私がついて行く」

乃亜が被せる。速い。

「今日は空いてる、翔兄」

押し切られる絵が見えたので、反論は飲み込む。

「最近、やけに仲がいいな」

「ち、ちがうし。ただ、その能力が面白いだけ」

「ふふ…乃亜さんは覚えが早いし、助かるわ」

小百合さんが口を挟む。

乃亜は満足げに鼻を鳴らした。

「もう共犯にしか見えない…危険だ」

小百合さんの口元が、一ミリだけ緩む。

「ついて来られる? 乃亜さん」

「ふん、言ってろよ、ばあさん」

俺はポケットから鍵を出し、小百合さんに差し出した。

「二人で行くなら、車を持っていけ。何かあっても動きが早い」

「了解」

乃亜が答え、小百合さんは鍵をしまう。

ちょうど出ようとしたとき、いつもの軋みなしにドアが開いた。

――つまり、あいつだ。

「都合よく……いや、誰も必要としてないときに現れるな、悪魔」

俺は顔を見る前に言った。

敷居に寄りかかっていたのはアスタロト。

新しく買ってやった街着は、腹が立つほど似合っている。目の奥が、遊びを嗅ぎつけた蛇みたいに光った。

「ふふふ……失礼ね、翔くん。ご主人様の迎え方がそれ? さっきの話、ドアの向こうで聞いてたわ。小百合ちゃんの訓練、いいアイデアがあるの」

「皮肉は要らない」

小百合さんが切る。

「いいえ、皮肉こそ一番大事…ふふっ」

アスタロトはいつもより刃が立っていた。

「『折れずに耐える』遊びをするなら、ロープを正しい高さで揺らす人が必要でしょ」

佐伯さんは驚かない。今さら驚きは高くつくぜいたくだ。

小百合さんはファイルをまとめて立ち上がる。

「変な真似はするな」

アスタロトは片目をぱちんとつぶった。

「楽しくなる最低限だけ…ふふふ」

「今日は忙しくなりそうね」乃亜が息を吐く。

小百合さんと乃亜が先に出る。アスタロトが短い影を引いて後ろに付く。階段を下り、通りへ折れて、路肩の車へ。

静けさが事務所に戻る。そこで佐伯さんが糸を切った。

「ここじゃ話せない。街を回ろうか」

「いい」

上着を取り、内ポケットの封筒を指で確かめる。

――まだある。階段を下りる。襟の中に冷えが入り、佐伯さんの車に乗る。エンジンは素直に目を覚ました。

発進すると、ミラーの中で男がタバコに火を付けた。吸わない。ただ、いると知らせたいだけだ。

この時間、神戸はまぶたを持ち上げはじめる。テントが上がり、鉄板が喋りだす。空は晴れる気配がない。

助手席に身を預ける。二重の任務が胸の左右に石みたいにのしかかる――他人の夢を奪うやつの足跡を追うこと。大津では、踏み入れてはいけない場所を踏まないこと。二重任務、二重の危険。誇張はいらない。アスファルトがそれを囁いてくる。

佐伯さんはウインカーを出さずに曲がった。

ときどき、生き延びるってのは、そういうことだ。今日は、正面衝突を望むやつがいないことを祈るだけ。

***

兵庫区・神戸。【相沢小百合の視点】

2016年11月28日・午前10時。


新開地から兵庫区の通りを抜けていく。

ハンドルは私。助手席で乃亜がストップウォッチを構え、後部座席ではアスタロトが足を組んで、神戸を自分の水槽みたいに眺めている。

朝の二日酔いみたいな空気。半分だけ上がったシャッター、配送カートのきしみ、神戸駅へ向かうJRの唸り。ラーメンの出汁とディーゼルが混じった匂い。

湊川の高架下を抜けると、カモメが何羽かしばらく付いてきて、遠くに赤いポートタワーがクレーンの隙間からのぞいた。

南へ折れ、兵庫運河沿いに走る。兵庫突堤の桟橋に近づくほど、中心部の雑音がラジオみたいにフェードアウトしていく。

「いい日ね、訓練には――小百合ちゃん」

アスタロトが鼻歌まじりに、窓に額をつけたまま言う。

「問題を起こさないで」

私は視線を動かさずに返す。

乃亜が小さく笑った。

「ここで大丈夫?」

「静けさが要る。ここは好奇心の目も、制服の耳も少ない」

角ごとに色あせたロゴのバンが忘れられたふりで停まっている。

でも気にしない。神戸では、触れてはこない。大事なのは、見栄えじゃなくて何をするか。

桟橋の端、アスファルトが塩で割れたコンクリに変わるあたりで車を止めた。左は無銘の倉庫。へこんだシャッターに、新しい南京錠――誰かが使っている、でも毎日じゃない。右では水面が杭を根気よく叩き、ナイロンロープが弦みたいに震える。

遠くでフォークリフトのバックブザーがピッ、ピッと鳴った。

エンジンを切って深呼吸。空気は鉄と海藻の匂い。

「ここで始めよう」

アスタロトはいつもの皮肉な頷きをして、耳元で囁く。

「ルールその一。手袋を外して。最小の接触でエコーを暴発させないこと。そこができなきゃ、力はあなたのものにならない」

声の震えが皮膚を逆立てた。

「…ほんとに?」

「もちろん――私を信じられないの?」

「それが問題なの」

革手袋を外す。手が一気に冷える。バリアのない世界は、少しうるさい。

乃亜の表情が引き締まる。

「計るよ。三十秒ワーク、十五秒レスト。三セット。長い?」

「大丈夫。十秒から三十秒に伸ばす。効果は大きい」

「まずは鉄の手すりに触って、エコーを起動させないで」アスタロト。

「それだけ?」

「走る前に、歩くのよ――小百合ちゃん」

錆びた手すりに身をあずけた。

集中を切らせば、エコーが勝手に扉を開ける。私はまだ、その扉をくぐる準備ができていない。

息を整える。1、2、3――

――『翔さんは、なぜ谷口さんの直通を? どうして自分で繋ぎたいの?』

「空を見てる。そんなのじゃ制御できないわよ。集中」

アスタロトが歯を見せない笑みで言う。

手すりに触れた瞬間、エコーが勝手に走った。崩れる前に指を離す。

「ごめん。ちょっと、引っかかってて」

「分かってる。でも今は置いて。深呼吸、集中」

奥歯を噛む。翔さんは何かを隠している。新しいことじゃない。新しいのは、その隠し方。

――たぶんアスタロトはもう知っている。読めるから。

「準備、いい?」

乃亜が肘をちょんとつつく。

「いい」

セット1。 目標:触れても起動させない。

指先で手すり。冷たさ、湿り、ざらつき――腕に上がろうとするあの振動の縁を感じる。呼吸で押さえる。八秒。九で崩れる。見慣れない映像が瞬きみたいに走る。錆の地図。夜明け前、この手すりを掴んだ誰かの手。

指を離す。

「八秒。進歩」乃亜。

「もう一回」

セット2。

プラ箱、係船柱、シート。エコーはこじ開けようとする。内側の扉をかすらせるだけにして、通さない。十二秒。十五秒。十五秒半。

「十五。いい感じ」乃亜が小さく笑う。

「次は逆」アスタロトが首を傾げる。

「自分の意思で二秒だけ起動。それ以上はダメ」

係留ロープに触れる。上げる。煙草の匂い、重なる声、神経質な笑い――二秒。切る。脈が揺れる。

「二秒ちょい。合格」乃亜。

「もう一回」

セット3。

十秒無起動を保つ。最後に選んでワンショット。成功。思ったほど綺麗じゃないが、成功。

前腕が焼ける。プランクの後みたいに。

「上出来、とは言わないけど――悪くないスタートよ、小百合ちゃん」

アスタロトが指をパチンと一度鳴らした。

小休止。長くは取らない。

見える前に、先に音が来た――引きずるブーツ、踏み潰された缶、笑えない笑い声。

三人。青い作業服に汚れたベスト、安い酒の匂い。一本はアルミバット。真ん中の男は、私たちを安い賭けみたいに値踏みする目。

「それ、撮ってんのか?」

乃亜のスマホを顎でしゃくる。

「じゃあ、これから起きることも撮っとけよ」

アスタロトが、小銭を拾ったみたいに口角を上げた。

「ふふふ……ちょうど退屈してたところ。都合がいいわね」

「やめて。無駄な喧嘩は」

私は小さく言う。

「喧嘩は探さないわ。楽しみは探すけど」

アスタロトは肩をすくめた。

バットの男が、ふらつく足取りで間合いに入る。

重心をずらし、外側から腕を取り、手首――肘。接触は短く、正確。関節を極めて、ひねる。

ゴン、と手すりに叩きつけられて崩れ、バットは放物線を描いて水面へ――チャポン。

二人目が背中を掴みに来る。

半身で回り、踵で足首を払って倒す。膝立ちになった瞬間、鎖骨に手を置く。エコーを一秒だけ起動。

金の口論、汗ばんだ手、苛立ちが、短く流れ込んでくる――切る。

コツ、と落とすように一撃。意識が途切れた。

「暴力は好きじゃないけど……今のは、あなたが選んだ」

三人目は乃亜に突っ込む。悪手。

乃亜はすでに小さなナイフをカチンと開いていた。

肉は狙わない。肩紐、ベストの縫い目、肌に浅い線――怖がらせるだけで十分。

刃先を眉間の前に止める。

「動かないで。動いたら、目に入る」

一人目がふらつきながら再突進。

短い投げを狙って押してくるが、私はエコーなしで手首を制し、呼吸でキープ。

『五、六、七……』――離す。

「無起動十秒。ねぇ、小百合ちゃん、だんだん面白くなってきた…ふふふ、好きよ」

「黙ってて」笑わないために吐き捨てる。

罵声は風に千切れて、三人は負け犬みたいに下がっていった。戻る勇気はない。

乃亜はナイフをたたんで収め、胸を張る。

私は四拍で三回、深く呼吸する。

エコーは扉の向こう――私が開けると決めるまで。

「接触制御は合計三十秒段階式。二秒起動×二回、どっちもジャスト。今日の最高記録」

乃亜がストップウォッチとメモを見せる。

「悪くない……人間にしてはね」

アスタロトが、からかい混じりに締める。

「お褒めにあずかり光栄――ってことにしておく」

手の震えはない。けれど、まだ道のりは長い。

念のため、革手袋をはめ直す。

少しずつ、エコーは落ちてくる扉じゃなく、私が錠を外して開ける窓に近づいている。

乃亜が、疲れたふりでそっと私の腕にぶら下がる。

最初は私を嫌っていたはずなのに――殻が、少し割れたのかもしれない。

アスタロトは数歩前で、水面を見ないように見て歩く。

車へ戻る道すがら、翔さんのことを考える。今、彼が隠していること。説明を避けた、そのやり方。

二重任務、二重の危険――外は大津と失踪。内は、私たちが互いに隠しているもの。

意志で完全に操るまで、あと一歩。足りないのは、焦らない心。

そして、まだ触れてはいけないものに――触れない距離。

***

新開地・神戸。【天宮翔の視点】

2016年11月28日・午前10時30分。


佐伯さんは最初の一本に火をつけた。煙が交通のリズムを刻む――信号待ちで短く、車列がほどけると長く。

新開地から兵庫区の動脈を抜ける。揚げ油と使い込まれたパチンコの匂いが、空気に薄い膜を作っている。

神戸は、肘をついて目を覚ます街だ。

「グレーのセダン、嫌いだな。さっき二回、こっちの車線に合わせてきた。今は消えた」

佐伯さんはバックミラーを見ない。

「あなたに気付かせたい奴がいるってことだ」俺は言う。

街はヘッドライトの前でスライドをめくるみたいに変わっていく。テント、ママチャリ、ビニール袋を提げた老人。

中央区へ、三宮へ。昼前でもネオンは輪郭を増し、ショーウィンドウは磨かれ、昼から開ける店の扉が音を立てる。

月曜の朝の急ぎ足で、ネクタイが曲がった会社員。横断歩道で、声を荒げない口論。

――神戸は、声を荒げない。

国道2号を東へ。中心部を背に、高速3号神戸線の柱が肋骨みたいに頭上を流れる。

匂いが変わる。揚げ物が退き、鉄と海が前に出る。

「翔くん、開けろ」

窓から煙を逃がしながら、佐伯さん。

内ポケットから封筒。軽い。壊せるものの重さにしては、軽すぎる。

開く。

大津の地図。赤ペンで三つの丸。ひとつは二重丸――琵琶湖から数ブロック、静かな住宅地、表向きはコンサルのフロント企業。

内部の略図。

脇の非常階段、廊下向きのカメラ、角は死角。見張りのローテは最小。注記:『金庫は奥の部屋。170322』。

内容:顧客データの入ったUSBメモリ、契約書。現金、それと関西に流す新しい薬の試料――ラベルはKNS-01。

「現金は替えが利く。名前は替えが利かない。そこを抜けば、やつらは出血する」

佐伯さんの声は乾いている。

灘区に入る。低い工場、跨道橋、半分だけ灯ったナトリウム灯。

右手に古い酒蔵の背中、左を阪神電車の電流音が走る。空気は錆と湿った木。

ロゴのないバンが追い抜き、わざとらしく前に出て、次の出口で消えた。

「一発だけの仕事だ」

封筒に目を戻しながら、火を付けたタバコを吐く。

「最初の一発だ。青龍会は、傘下に青龍組系への当たりを強めろと回した。うまくいけば、水月会は毎月少しずつ血を流す。他の連中も同じだ。じわじわ減らす。結局、それで死ぬ」

佐伯さんは訂正する。

「藤川の前のファミリー――龍炎会は、どっち側だ?」

名前を最初に聞いたとき、引っかかった。知らない顔だ。

「まだ若い独立系だと藤川くんは言っていた。中身は堺港の労働者が多い」

「港を押さえられるのは悪くない。大阪湾の向こうでも、港は港だ…いや、都合が良すぎるか」

佐伯さんはふう、と煙を吐き出す。

「順番だ、翔くん。一気に抱えるな。動いている人間はもういる」

スマホの画面に、藤川と龍炎会の連中のやり取り。青龍会への合流打診。

「嫌な奴だが……はは、見た目より頭が回る」

藤川のことを言う。

今この瞬間、どこかで彼がクシャミをしていれば面白い。

それから、少しだけ沈黙が乗った。

失敗は許されない。

このヤマが潰れれば、荒鷲会への扉が閉じるだけじゃない。

女の子たちを薬で眠らせ、音を飲み込む湖の前で消す連中に、手が届かなくなる。

おまけに――約束どおり、俺の首が飛ぶ。

封筒は軽い。墓石みたいに重い。

車は東灘区へ抜け、御影、そして岡本へ。家並みは斜面を登り、道の脇を黒い松が護衛のように並ぶ。左手、木々の間から甲南大学が気配だけを見せ、六甲山は雲の上着を羽織っている。

――できれば忘れたい記憶の匂いがする場所だ。

「谷口くんにかけろ。動かすなら、警察もこっちの時間でだ」

発信。

『もしもし』

「天宮だ。大津へ行く日を決める」

『まだ日取りはない。状況を詰めて、駒を動かす必要がある』

風の音を噛んだ、乾いた声。

「聞いてない。12月1日に大津だ。その日までに整えろ。できないなら――失踪の件はここで終わりだ」

『自分が何を言ってるか分かってるのか? なぜ急ぐ』

「分かってる。だから君に頼んでる。他は警察の領分じゃない」

『……褒め言葉で脅すのは行儀が悪いぞ』

「褒めてない。できるから言ってる。連絡を待つ」

『……検討する。これが直通でいいな。情報は送る』

「やれ。二度目はない」

一拍置いて切る。

佐伯さんは何も言わない。灰を窓の外に払って、ウインカーも出さずに曲がる。

ここから見る神戸は、きれいで、整って、無邪気にさえ見える。いい手品だ。

「170322――どう読む?」

「日付。2017-03-22。あるいは癖だ。開くかどうかは、現場で分かる」

「開くさ。水月会の親玉は知ってる。たぶん、その頃に何かを仕掛ける」

懐かしむみたいな、薄い笑み。

「脇から入る。角のカメラは盲点。騒げるのは最大二分。細工に九分。気付かせずに獲物を持って出る」

「簡単に言う」

佐伯さんは、くっと笑った。

岡本に着く。屋根の列を切り取るみたいに、阪急の電車が紫の帯になって流れるのが見える高い通りに停めた。

12月1日。真夜中。

どこにでもある家。紙以上のものを抱えた金庫。

一つの街に、二つの任務。

しくじれば、二つとも失う。

そして最初に俺の死体を受け取るのは――琵琶湖だ。


次回・『計画の日、作戦開始。』


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