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第10章。 『新たな始まり、復讐の影を越えて。』

灰色の空の下、神戸の街に新たな嵐が迫る。

復讐を果たした翔は、ようやく静かな時間を得たはずだった。だが、事務所に舞い込んだのは滋賀・大津で相次ぐ女性失踪事件――そして遺体に刻まれた月輪教団の印。

六甲山で終わったはずの闇が、再び彼らの前に立ちはだかる。

さらに、乃亜の突然の参入、谷口の曖昧な協力、そして佐伯から告げられる『荒鷲会』と『青龍会』への帰還の要求。

過去と現在が交錯し、逃げ場のない選択を迫られる翔。

小百合は証拠から真実を見抜き、乃亜は無邪気に事件へと足を踏み入れ、そして翔自身は――再び影の世界に引き戻されようとしていた。

新たな始まりは、決して光ではなく。

復讐の影を越えた先に待つのは、より深い闇だった。

天宮・翔(あまみや・しょう)

相沢・小百合(あいざわ・さゆり)

佐伯・健三(さえき・けんぞう)

谷口・健太郎(たにぐち・けんたろう)

渋木・命(しぶき・みこと)

古谷・惣吉(ふるたに・そうきち)

藤川・雅人 (ふじかわ・まさと)

佐伯・乃亜(さえき・のあ)

杉本・美咲(すぎもと・みさき)

月輪教団(がちりんきょうだん)

荒鷲会 (あらわしかい)

青龍会(せいりゅかい)

青龍組(せいりゅぐみ)

水月会(すいげつかい)

親分(おやぶん)

若衆(わかしゅう)


新開地・神戸。【天宮翔の視点】

2016年11月25日・午前9時30分。


その朝の神戸は灰色に覆われていた。重たく垂れ込めた雲が夜明け前から雨を予感させ、風は秋の湿った匂いと、開き始めた屋台の煙を引き連れて街を流れていた。

俺は北野町の路地に車を止め、小百合さんを迎えに行った。いつものように、彼女は時間ぴったりに家の前に立っていた。白い傘を閉じたまま腕に抱え、茶色のロングコートに紺のマフラーを巻き、そして――いつもと同じく、手を守るあの革の手袋を外すことはなかった。

ワイパーは小雨に追いつかず、ガラスは絶え間なく濡れていく。道中、俺たちはほとんど言葉を交わさず、ただ静かに時間を過ごした。

やがて、事務所の横の細い路地に車を停めた。

ドアを開けると、最初に目に入ったのは藤川の姿だった。ソファに横たわり、古びた毛布にくるまりながら、銃を手の届く距離に置いたまま静かに寝息を立てていた。

俺は小さく頭を振り、彼の脚を軽く蹴った。

「……ちっ、結局ここに住みついたのか」

藤川は目をゆっくり開け、眠気を払うように身を起こした。

「おはよう……行く場所なんて他にないんだよ。お前のおかげで堺にはもう顔を出せねえしな。それに……この時期に橋の下で寝るよりはマシだろ」

俺はため息をつき、彼をまっすぐに見据えた。

「佐伯さんに頼んでやる。寝床は探してもらえるだろう……それと、お前がここにいる以上は立場をはっきりさせろ。もう俺だけの下じゃねえ……意味は分かるな」

藤川は何も言わなかった。ただ黙ってうなずいた。その沈黙には、覚悟の色が滲んでいた。

横で小百合さんが訝しげに俺たちを見ていたが、質問しようとしたその時、事務所の扉が開いた。

入ってきたのは佐伯さん。そして、その背を追い越して先に飛び込んできたのは乃亜だった。

「おはよう、翔兄!」

曇天の朝には似つかわしくないほど明るい笑顔を浮かべていた。

ベージュのショートコートに、チェック柄のスカート。髪を引き立てるように、コバルトブルーのマフラーを首に巻き、軽やかなブーツを履いていた。瑞々しい若さがそこにあり、成熟した気配を纏う小百合さんの姿と並べば、その対比は一層鮮やかだった。

小百合さんは横目で乃亜を見た。瞬間、空気はさらに冷え込み、雨雲のような張り詰めた沈黙が事務所を満たした。

「まあ……乃亜さんがここに来るなんて。確か、あなたはここの人間じゃなかったはずよね?」

その声は穏やかに響いたが、内側に鋭い刃を隠していた。

乃亜は迷いなく言い返し、そして俺の腕を掴んだ。

「だからこそ来たの。今日から私も一緒にやるって決めたの。お父さんには、これも経験になるって言ったし……翔兄と一緒なら安心だって伝えたから」

佐伯さんは俺に視線を向け、肩を落とした。抵抗できなかった、どうか娘を頼む――そう訴えるような目だった。

俺は重く息を吐いた。

「……まあ、人手は多いに越したことはねえな」

言った瞬間、小百合さんの視線が鋭く突き刺さった。

その沈黙が、すべてを物語っていた。

数分後、小百合さんがコーヒーを淹れていると、アスタロトと谷口が一緒に現れた。もともと事務所で集まる予定ではあったが、それでもアスタロトが彼と過ごす時間が増えているのは少し気になった。

「……本題に入る前に、先に確認しておきたいことがある」

俺は腕を組み、谷口を睨んだ。

「一緒に動く以上、お前がどっち側にいるのかをはっきりさせろ。お前と組むことで、俺たちが得るものと失うもの……それを示せ」

谷口は俺の視線を避け、ゆっくりと腰を下ろした。

「……今ここで全部を話すつもりはない。滋賀にいる俺の繋がりから入った情報だが、まだ完全じゃない。だが……始めるには十分だ」

小百合さんが口を開いた。

「谷口さん、あなたは大阪府警の人間でしょう。他県の事件に首を突っ込むのは筋が通らない。立場を危険にさらしてまで関わる理由は何なのですか?」

谷口はしばらく沈黙したあと、短く答えた。

「……彼女の命令だ」

そう言って、アスタロトを指差した。

全員の視線が一斉に集まる。アスタロトは肩をすくめ、遊び半分のように笑った。

「ふふ……だって、もう二週間も事件がなかったでしょう?退屈で仕方なかったのよ。だから少し刺激を入れてあげたの……それに、忘れてないよね?新しい事件がなければ、あなたたちの魂は――ふふふっ」

俺は鼻で息を吐いた。無駄だとわかっていても、言い返す気にはなれなかった。ただ、どこかに引っかかる違和感が残ったが、今は飲み込むしかなかった。

いずれ時間が答えを示すだろう。

やがて谷口は茶封筒を取り出し、数枚の書類と『指名手配』のビラ、そして数枚の写真を机に広げた。その一つは、以前レストランで見せられたものだった。

琵琶湖の湖畔、夜。

白い布で覆われた女性の遺体。その腹部には、月輪教団の紋様が刻まれていた。

その印を目にした瞬間、母の死体を思い出さずにはいられなかった。そして――六甲山でのあの夜。

俺が復讐を果たした夜を。

事務所の空気が一段と重く沈んだ。

「これまでに少なくとも大津で十二人の女性が行方不明になっている。同じパターンだ。発見されたのは、この一人だけ……例の印付きでな。他の行方は依然として不明だ」

谷口が低く告げる。

小百合さんは真剣な面持ちで被害者のデータを手に取り、うなずいた。

「……ここには『溺死による窒息』とあるけれど、この女性は明らかに絞殺されているわ。司法解剖が正しく記されていないということは、鑑定医に書くなと命令が下っているのね」

「ふむ……その可能性は高いな。ただ、慎重に進めるべきだ」

俺は答えながら煙草に火を点けた。

「犯人は古谷惣吉の模倣犯のように見えるわ。ただ、今回は女性ばかりを狙っている……そして、教団との繋がりが見えるのが最悪ね」

小百合さんが言った。

「待って、それってどういうこと? この人は首を絞められて殺されたってこと? それに……月輪教団って、六甲山で翔兄が倒したんじゃなかったの?」

乃亜が首をかしげた。

「見れば分かる。首に残った痕跡、顔に刻まれた苦悶の表情……写真でも明らかよ。私は元鑑識官よ。間違えない」

小百合さんの声は冷静だった。

「なるほど……興味深い。でも月輪教団が絡んでるなら……?六甲山で終わったはずじゃ……」

俺は煙を吐き出しながら言った。

「奴らはまだ生きてる。確かに大阪湾と神戸での影響力は落ちたが、他県では依然として根を張っている」

「でも……翔兄があの時、教団のリーダーを殺したんでしょう?」

「そうだ。だが、組織ってのは頭を落とされても、すぐに次を立てる。お前なら分かるはずだ、乃亜」

俺は横目で佐伯さんを見た。彼女に説明しておくべきだったのは本来、父親である彼の役目だ。

「その通りだ」谷口が頷いた。

「もし教団が裏にいるなら、滋賀の警察が動かないのも理解できる。隠蔽してる可能性は高い」

俺は前のめりになり、谷口を見据えた。

「……で、報酬は? 俺たちはタダ働きはしねえ」

谷口は一瞬ためらった。

「金額を約束することはできない……だが、この件を解決すれば、『特別支援』の名目で資金をお前たちの事務所に流すことは可能だ。それに……兵庫県警がここに首を突っ込まないよう、俺が手を回しておく。どうだ? この場所を存続させるには十分だろう」

その言葉で状況ははっきりした。俺たちの事務所は、依然として非合法の存在にすぎない。許可も、正当性もなく、アスタロトが権力を操れば問題は回避できるかもしれないが、余計な借りを増やすのは得策ではない。

結局のところ、信頼も薄い一人の男に依存するしかないのだ。

最終的に決まったのは――翌朝、小百合さんと乃亜、そして俺の三人で大津へ向かい、街を歩いて証言や手掛かりを探すということだった。谷口は数日後、大阪府警の特別派遣という立場で大津入りするが、表向きは俺たちと接触できない。

よって、会合は引き続き神戸で行う……緊急時を除いては。

全員がそれに同意した。

藤川は佐伯さんと共に事務所を出た。彼の身の振り方を整えるには、やはり佐伯さんほど適任はいない。

「小百合さん、帰ろうか。明日は長い一日になる。休んでおいた方がいい」

俺はそう声をかけ、続けて乃亜に向き直る。

「乃亜、お前もだ。本当は父親と一緒に帰るべきだった」

乃亜は不満げに唇を尖らせた。

「ふん……でも翔兄、無理だよ。お父さんは家には帰らない。藤川さんと一緒に他の用事に行くんだから」

「……なら、お前の家まで送る。行くぞ」

俺はそう言ってドアに向かった。

「先に行っててください。私はもう少しここに残ります。事務所の帳簿を整理しないと。明日からまた新しい案件が始まりますから……最悪、タクシーを呼びます」

小百合さんの声が背後から追ってきた。

俺は振り返った。

「……本当に大丈夫か? 天気は崩れそうだ」

「はい。大丈夫です。……翔さん、もし遅くなったらお電話します。その時はお願いしてもいいですか?」

「俺の家はここから近い。連絡をくれればすぐに迎えに行く」

「ありがとうございます……ご迷惑をおかけしますね」

言葉を交わした直後、乃亜が俺の腕を引っ張り、子供のようにせかした。

「もう行こうよ翔兄!ねえ、帰る前に映画かショッピングでもどう?」

「駄目だ。ついて来たいなら休め」

俺は冷たく突き放した。

「ひど〜い……女の子にそういう言い方、誰かに教えてもらえなかったの?」

事務所を出ると、外は相変わらず小雨が降っていた。街路樹の葉から滴る雫が、アスファルトに細かい音を刻む。傘を差しながら車へ向かう道すがら、俺の頭の中には一枚の写真と、琵琶湖のほとりで見た女の腹に刻まれた印が焼き付いて離れなかった。

――これはまだ、始まりにすぎない。

***

新開地・神戸。【相沢小百合の視点】

2016年11月25日・午前11時30分。


翔さんと乃亜が出て行ったあと、事務所には静寂が広がった。

外では小雨が窓ガラスを叩き、疲れたようなリズムを刻んでいる。その音が、奇妙な落ち着きを部屋に満たしていた。

事務所の帳簿を整理する――そう言ったのは口実にすぎない。本当の目的は、一人になって資料を精査することだった。

机のランプを点け、カップにコーヒーを注ぐ。谷口さんが置いていった資料を広げると、温かな光が紙の上だけを照らし、影が部屋の隅々にまで濃く落ちていった。空間が急に広く、そして寂しく感じられる。

書類には、事務的で冷たい文字が並んでいた。

名前:杉本 美咲。

年齢:22歳。

居住地・職業:大津市、大学生。

失踪日:2016年11月15日。

発見日:2016年11月21日。

発見場所:琵琶湖の湖畔。

死因:予備報告・溺死による窒息の可能性。

特記事項:なし。

その一行を目にして、私は思わず眉をひそめた。

「……溺死の可能性、ね」

写真を手に取り、白布に覆われた遺体を見つめる。顔は鮮明ではない。それでも――いや、それだからこそ――十分だった。

顎の緊張、無理に引きつったような筋肉のこわばり。そして何より、首に残る圧痕。

「……これは絞殺以外あり得ない」

小さく呟き、自分の見立てを改めて確信する。

湖の水が彼女を殺したわけじゃない。遺体が湖に置かれた時、彼女はすでに死んでいたのだ。

もうひとつ、奇妙な点があった。靴がまったく汚れていない。泥も藻もついていない。

『……この時期に、わざわざ湖に入るはずがない。それに……靴がこれほどきれいなままなんて』

自殺の可能性が頭をよぎったが、すぐに打ち消した。彼女の腹部に刻まれた、月輪教団の印がそれを否定していたからだ。

つまりこれは――計画的な殺人。そして遺体の移送。

「……もし、私自身の手で検視できれば……『レジデュアル・エコー』を使って、もっと確かな証拠を掴めるのに」

独り言のように漏らし、深く息を吐いた。

大津の法医たちは、安易な結論を選んだのだろう。あるいは、そうせざるを得なかったのか。だが、私には分かる――

この死は、歪められ、隠されている。誰かが、嘘を命じたのだ。

私はしばらくの間、写真を見つめ続けていた。

同じ運命に囚われている女性が、今も何人いるのだろう――そう考えたくはなかったが、頭から離れなかった。

「……十二人行方不明……発見されたのは一人だけ……残りは不明。生きているのかしら。そして、この腹部の印……月輪教団」

小さくつぶやき、目を閉じる。革手袋をはめた拳に力を込めた。

誰も気づかないのなら、私自身がこの痕跡を追うしかない。

ふと、空腹を覚えた。朝食をとっていなかったことを思い出す。

傘を手に取り、事務所を出た。細かな雨が新開地の路地を濡らしている。私は小さな和菓子屋に立ち寄り、まだ温かい饅頭を一袋買った。包み越しに伝わる熱が、雨の冷たさの中で心を和らげてくれる。

事務所に戻り、袋を机の資料の横に置いた。改めて写真を見つめる。胸の奥に重くのしかかるものがあった。しかし同時に――確かに掴んだという確信もあった。

この証拠は、事件の流れを変える鍵になる。

私は電話を取り上げ、ためらいながらも番号を押した。

『小百合さん、何かあったのか?』

受話器の向こうで翔さんの声。

「翔さん……少し手がかりを見つけました。被害者の靴です。彼女は湖で死んでいません……後から運ばれたんです」

返事はすぐには返ってこなかった。重苦しい沈黙の中、窓の外に視線を向ける。雨脚は少し強くなり、街は変わらぬ日常を送っている。その光景は、この街に忍び寄る影とは無関係のように見えた。

やがて翔さんの声が低く響いた。

『……なるほど。やはりあいつらの仕業で間違いないな』

「……ええ」

『分かった。乃亜を家まで送ったら迎えに行く。その時に詳しく聞かせてくれ』

「はい……分かりました」

通話を切り、写真を机に置いた。窓の外では、絶え間なく雨が降り続けていた。

――これは、まだ始まりにすぎない。

***

須磨区・神戸。【天宮翔の視点】

2016年11月25日・午後1時。


雨は朝から途切れることなく降り続いていた。

俺は国道2号線を西へと車を走らせ、新開地を後にした。ワイパーが単調なリズムでガラスを叩き、視界を絶えず揺らしている。

左手には時折、灰色に濁った瀬戸内海が姿を見せ、右手には黒瓦の古い家並みと、雨に濡れた石垣の斜面が迫っていた。国道2号を走りながら須磨駅の横を通り過ぎると、雨粒に滲んだホームの看板が一瞬だけ視界をかすめた。

そこから細い坂道に入り、やがて須磨寺へと向かう参道へ。

濡れた石畳と苔むした塀が続き、山門の向こうには弁慶と義経の像が雨に打たれて立っていた。庭の池には鯉が跳ね、落ち葉が水面に張り付いている。

海風に混じった塩気が喉にまとわりつき、息が重くなる。

助手席では乃亜がマフラーの端を指で弄んでいた。

「ほらね、翔兄。結局お昼食べたじゃない」

少し得意げに笑う。

「……君を引きずり出さなきゃ、煙草とコーヒーだけで済ませただろ」

「わざとよね?時間を引き延ばしたかったんでしょう」

「えへへ……もしかしてね」そう歌うように言って、窓の曇りガラスに額を寄せた。

「ふん……」

俺は短く鼻を鳴らした。

狭い坂道を曲がると、苔むした石垣と街灯が並び、薄暗い昼を支えていた。

佐伯さんの家は高台にあり、黒い木の門の奥には庭が広がっている。濡れた飛び石が光り、石灯籠と蹲踞、その傍らには散った紅葉が雨に貼り付いていた。

車を止め、エンジンを切った。

「……お姫様、ここまでだ」

「ひどい翔兄……映画も買い物もなし。私、デートのつもりで服を選んだのに」

口を尖らせて文句を言いながらも、その声には本気の怒りはなかった。ドアを開け、黒い傘を花のように開き、乃亜は軽く振り返った。

「ラーメン、ごちそうさま」

そう言って門の中へ消えていった。

再び家の門が開き、黒い傘を差した佐伯さんが現れた。黒のシャツに同じ色のスラックス、雨の中でも靴は一切濡れていない。

「翔くん、乃亜ちゃんを預かってくれてありがとう」

「心配なさらず。これからは俺が面倒を見ますから」

「ははは……その通りだな」

嬉しそうに笑う佐伯さんの横で、乃亜は玄関へと駆け込んでいった。

「それじゃあ、俺は失礼します。小百合さんが待っているので」

車へ戻ろうとした時、背後から声がかかった。

「……翔くん、少し時間をくれるか?」

胸の奥で、いつか来ると分かっていた瞬間が、ついに訪れたと悟った。ずっと避け続けてきた話。

俺はゆっくりと振り返り、作り笑いを浮かべた。

「……ええ、もちろん」

そして二人で屋敷に入った。

畳は靴下越しにわずかに軋み、閉ざされた障子の向こうで炭火の火鉢が赤く息づいている。香の煙と古い木の匂いが、庭から入り込む湿気と混ざり合い、重く静かな空気を作っていた。

奥の座敷に通され、畳に座るよう促された。

佐伯さんは落ち着いた手つきで徳利を傾け、俺の盃に酒を注いだ。

「……調子はどうだ?」

前置きもなく切り出す。

「……まあ、悪くはないさ。良いとも言えないけどな」

「俺が聞いているのは、復讐を果たしたあとのお前のことだ」

そう言って、盃を口に運んだ。

俺は指先の中で、冷たい磁器の感触を弄んだ。

「……やった。母さんは……もう安らげる……それで十分なはずだ」

「訊いているのは、お前自身のことだ。……どうなんだ?」

答えられなかった。

胸の奥に、鈍い空洞が広がっていた。安堵でも、後悔でもない。ただ、長い間付きまとっていた雑音が、ふっと消えた後に残る静けさだけ。

佐伯さんは盃を卓に置いた。

「翔くん……聞け。猶予はもう少ない。『青龍会』の親分が、お前に近いうち戻って来いと言っている」

――この話をするために、わざわざ俺を家に招いたことは分かっていた。

だが俺には、その世界に戻る覚悟がまだなかった。復讐に囚われていた間だけは、戻らなくてもいいと錯覚していたのだ。

「……俺には、まだ時間が必要だ」

「分かってないな…お前は大津で仕事を請けた。あそこは『水月会』――つまり『青龍組』の縄張りだ。お前が湖に石を投げ込めば、当然、波紋は広がる」

俺はうなずいた。

「……楽な道とは思っちゃいない」

佐伯さんは乾いた笑いを漏らした。そこには笑みの色などなかった。

「楽じゃないどころか、これはお前だけの問題じゃない。2016年だ。俺たちが青龍組から分かれて青龍会を立ち上げて、まだ二年ちょっとしか経っていない。あの傷口は塞がっていない。街ではいまだに報復が繰り返されている……お前は『荒鷲会』の息子だ。その血筋は消えない。傘がなければ、どんな若衆でも、お前を狩る理由になる」

言葉を返せなかった。佐伯さんの言う通りだった。

これまで偶然、直接の衝突を避けてきただけだ。

いつか必ず狙われる。

「それに……お前一人の命じゃ済まない。小百合さんも、乃亜ちゃんも一緒に大津へ行くんだろう? 敵地に足を踏み入れたら、情けはない。親分の下にいれば組が守る。だが一匹狼なら、全員が的になる」

声にわずかな焦りが混じっていた。普段冷静な佐伯さんが、本気で案じているのが分かった。

「……これは誇りの問題じゃない。生き残るための話だ。それに……乃亜ちゃんを守ると誓ったんだろう?」

俺は一瞬、心の扉に手をかけそうになった。彼の心を覗けば、忠誠か恐れか、あるいは計算か分かる。だがそれは越えてはいけない一線だった。佐伯さん――俺が全てを失った時に支えてくれた唯一の男。

その心だけは汚すべきじゃない。まして乃亜のこととなれば、彼が迷うはずはない。

「……俺が親分に話してみる。ただし――お前も顔を出せ。家族からは逃げ切れない」

彼は淡々とそう言い、再び盃を満たした。

「……感謝します、佐伯さん。もう少しだけ……時間を」

俺は深く頭を下げた。

「それと――藤川くんの件だ。彼の働きと俺の口添えで、もう事務所のソファで眠る必要はなくなる。板宿に住まわせる。目立たず、近くて安全な場所だ」

「……助かります。本当に……あいつは必ず応えてみせます」

雨が障子を叩く音が、火鉢の火の音と重なった。

佐伯さんはじっと俺を見つめ、わずかにうなずいた。それ以上の言葉はなかった。

玄関先で、佐伯さんは一本の傘を手渡してくれた。

灰色の空へと押し戻されるように外へ出ると、庭には雨に洗われた土の匂いが広がっていた。屋根の向こうには、瀬戸の海が鈍い帯のように横たわっている。

石段を下りるとき、苔の上で靴底がわずかに滑った。

車に戻り、エンジンをかける。

――小百合さんを迎えに行く時が来た。真実を告げなければならない。たとえそれが、自分自身にとっても受け入れがたいものであっても。

***

北野町・神戸。【相沢小百合の視点】

2016年11月25日・午後3時30分。


空は雲に覆われ、灰色の灰を散らしたような暗さを帯びていた。

外から短いクラクションの音が聞こえ、窓の外を見ると翔さんの車が雨の中にぼんやりと浮かんでいた。街灯は昼間にも関わらず灯り、湿った空気に滲んでいた。

傘をたたみ、車に乗り込むと、わずかな暖かさが体を包み込んだ。

「翔さん……少し遅かったですね。渋滞でも?」

軽く微笑みながら問いかける。

「まあな……乃亜を家に送ったあと、佐伯さんに誘われて、一杯やってきた」

彼の声には、何かを抱え込むような重みがあった。心ここにあらず、そんな響き。

「そうですか……実は大津の件で少し手掛かりを見つけました。杉本さんの解剖を担当した法医学者に接触できれば、突破口になる気がします」

「……ああ、分かってる」

返事はあったが、その声色には別の影が混ざっていた。思考は明らかに別のところをさまよっている。

『……佐伯さんの家に寄ったことと関係があるのかしら』

心の中でそう呟き、決意して問いかける。

「翔さん……何かありましたか? いつもと違います」

雨がフロントガラスを叩く音だけが、沈黙を満たした。

彼の横顔は硬く、まるで解剖室で遺族に告げる前の医師のように、重い事実を抱え込んでいる。

やがて、低く絞り出すような声が落ちた。

「……小百合さん。打ち明けなきゃならないことがある」

「……何ですか?」

「前に言っただろ。俺が元ヤクザだって」

「ええ。三宮のバーで初めて会った時に」

「記憶がいいな……だが正直に言うと、あれは嘘だ」

「……え?」

「俺は組を抜けていない。ただ……母が亡くなった時、猶予を与えられただけだ。本当の意味で離れたことは一度もない……すまない、嘘をついていた」

その瞬間、彼の表情にわずかな安堵が滲んだ。長く胸に重くのしかかっていたものを、やっと吐き出したように。

「そうですか……でも正直、なんとなく分かっていました。普通の人や元ヤクザに、あんなに幅広い人脈があるなんて、考えにくいですから」

私は落ち着いて答えた。驚きはなかった。

あの六甲山への潜入を計画した時、すでに佐伯さんから聞かされていたからだ。

「……本当に気にならないの? 俺はずっと嘘をついていたんだぞ」

驚いたように翔さんが問いかけた。

「元警察の鑑識の私に隠し通せると思いましたか?……心のどこかで、ずっと疑っていました。今日、ようやく確信に変わっただけです」

私は小さな勝ち誇った笑みを浮かべた。

「……そうか。嫌われると思ってたが……それでも謝らなきゃな」

その後、彼は必要なことだけを語った。

大津で事件を請けることは、敵地に足を踏み入れることを意味する。私や乃亜を守るためには、再び荒鷲会の傘の下に戻らざるを得ない――。

誇りからでも、恐怖からでもない。ただ、避けられぬ運命を受け入れるように。彼はそう言った。

私は言葉を挟まず、雨に滲む街灯を窓越しに眺めていた。胸の奥には苦い痛みと、不思議な安らぎが同時に広がっていった。

――この闇の底でさえ、彼は私に打ち明けてくれたのだ。

すぐには答えなかった。考える時間を装いながら、思った。

裏社会での争いは、もはや法律も正義も存在しない世界。ただ血と忠誠だけが支配する場所。

そこに身を置くことの意味は、分かっている。

それでも――翔さんは私を信じて告白した。

革の手袋の中で拳を強く握りしめる。

『翔さん……あなたがその重荷を背負うのなら、私も共に歩む。たとえ影の中でも』

声に出すことはなかった。沈黙を疑念と思わせたまま、決意は胸に刻んだ。

北野町の自宅に着くと、私は車を降り、短く「ありがとう」と告げた。

雨脚は一層強くなっていたが、その夜、灰色の空の下で翔さんは一つの扉を開けた。

――もう後戻りできない道への扉を。

次回:『危険への一本道。』


最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

よければ評価していただけると、今後の励みになります!

これからもどうぞよろしくお願いします!



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