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第9章。 『満月の下で明かされる真実…』(第2部)

神戸――

闇に潜む宗教団体、腐敗した警察、そして血にまみれた過去。

母を奪った真犯人を追い続ける青年天宮翔は、仲間と共に街の裏側に踏み込んでいく。

しかし待ち受けていたのは、常識を覆す陰謀と、命を賭けた戦いの連続だった。

復讐か、守るべきものか。

答えを選ぶたびに、彼の心は深く傷つきながらも確実に前へ進んでいく。

裏社会の探偵事務所を舞台に、仲間たちとの絆と、逃れられない宿命が交錯する――

怒りと涙が交わる中、翔はついに「母を殺した男」と対峙することになる。

真実は、想像を超えた闇の中にあった。

天宮・翔(あまみや・しょう)  

相沢・小百合(あいざわ・さゆり)  

佐伯・健三(さえき・けんぞう)  

佐伯・乃亜(さえき・のあ)  

渋木・命(しぶき・みこと)  

渋木・廉次郎(しぶき・れんじろう) 

藤川・雅人 (ふじかわ・まさと)  

谷口・健太郎(たにぐち・けんたろう)  

金田・功(かねだ・いさお) 

田中・与一郎(たなか・よいちろ) 

月城(つきしろ)  

龍炎会(りゅうえんかい )  

荒鷲会 (あらわしかい)  

月輪教団(がちりんきょうだん) 


六甲山・神戸。【天宮翔の視点】

2016年11月7日・午後10時41分。


「ハハ……引退で腕が鈍ってないといいが、師匠。花火が欲しいなら……見せてやるよ」

俺たちは言葉少なに再集結した。計画は単純――騒ぎを起こし、あの狂信者どもの間に穴を開けること。復讐を果たすには絶好の舞台だった。祭壇の混乱に紛れて教団の指導者が倒れても、誰一人驚きはしないだろう。

佐伯さんは通信機を握りしめ、俺は乃亜と藤川に近づいた。その隣には佐伯さんのもう一人の仲間が、無言のまま木立を見据えていた。

「名前は?」銃口を下げずに問いかける。

「田中陽一郎」――まるで鍵を渡すように、彼は短く答えた。

頷いた。簡潔な返答が気に入った。覚悟はすでに固まっている。

俺は弾倉を確認した。銃に装填済みが一つ、腰に二つ。

「残弾は?」

乃亜もぎこちなさを残しつつ手元を確かめる。藤川はいつも通り煙草をふかし、吸い殻を踏み消して沈黙の鋭さを纏った。

目の前に広がるのは、朽ちた寺院。数十本の松明が石灯籠や地面に突き刺さり、夜を古代の舞台に変えていた。傷んだ木柱、首の折れたように傾く鳥居、苔に覆われた石段、そして琥珀色の炎が生み出す影の奔流。

広場の中央には即席の祭壇。古びた板を石で支え、その上に縄で縛られた五人の少女が項垂れていた。

「チッ……渋木命を一刻も早く救い出さなきゃ」俺は吐き捨てるように呟いたが、頭の奥では別の思いが蠢いていた。

樹脂の焦げた匂い、火に炙られた木の匂いが、山中に漂う火薬の残り香と混じり合う。

教団員たちは低く反復する詠唱を口にしていた。膝をつく者、直立する者、皆が同じ深井の能面をつけ、感情の消えた顔で虚空を見つめている。

さらに奥には龍炎会の残党が柵の犬のように警戒し、周囲を固めていた。数はまだ多いが、俺たちを完全に止めるには足りない。

「囮作戦だな?」藤川が首を傾げる。

「ああ……要するに、好きに暴れろ」俺は薄く笑みを浮かべ、癖のように弾倉を数え直した。

乃亜はまだ不安を隠しきれずにいた。少しでも重圧を減らそうと声をかける。

「乃亜、無理なら後ろで援護してもいい」

「冗談じゃない。心配なんかしなくていいよ、翔兄」即答する彼女に、父親の目が見開かれる。

そのやり取りに俺は口元を歪めた。

「……やっぱり親子だな」

佐伯さんが通信機を持ち上げ、短く告げた。

「小百合さん、チャンネルに注意を。翔くんが走ったら、それが合図だ」

そう言って端末をしまい、俺を刃物を使う前に眺めるような目で見た。

「行くぞ」

叫びも演説もない。ただ動き出した。

陽一郎と功は左の斜面へ低く速く走り出す。まるで山が彼らの名を知っているかのように。俺と藤川は中央を突き進み、乃亜が半歩後ろで息を整えながら高く狙いを定める。佐伯さんは二メートル後方で援護に回り、挟撃を防ぐ役を担った。本当は一緒に見せ場を盗むと言い合っていたが、父親らしく乃亜に舞台を譲った。

最初の銃声は俺たちからだった。乾いた二発が木柱を砕き、能面の一つが首を失い、別の一人は遅れて屈んだ。

それでも詠唱は止まらない。

松明が煙を橙色の幕に変えていく。俺は自動的にボルトの後退音を聞き、装弾数を確認した――九発。

身体を捻り、幹の影から覗いた影にダブルタップ。重みを解き放たれた体は素直に後ろへ倒れる。陽一郎と功の射撃は短い三発、沈黙、二発。まるで呼吸を合わせているようだ。

佐伯さんの弾はほとんど外れない。一発一発が、俺たちの背後の扉を確実に閉じていく。

その時、寺院の反対側から二つの影が現れた。黒装束で周囲と同化している。龍炎会の援軍かと狙いを定めた瞬間、佐伯さんが叫んだ。

「翔くん……撃つな! 谷口くんの部下だ、味方だ!」

俺たちと同じ黒衣。最初は敵としか思えなかった。だが佐伯さんを疑う理由もない。

合図は不要だった。彼らもこちらを認めるや否や引き金を引き、龍炎会の二人を薙ぎ払う。二つの戦線が同じ鼓動を刻んだ。

乃亜が大きく息を吸い、一発撃つ。突進してきた刃物の男は理解する前に崩れ落ちた。乃亜は銃口をわずかに下げ、目を鋭く固定し、再び構え直す。

「……いいぞ」俺は心の中で頷いた。癒せる傷はなかった。与えられるのは方向だけだ。

「弾数は?」

「七発」乃亜は視線を逸らさず答える。祈りのように正確なカウント。

光景は息苦しいほど鮮明だった。

松明の爆ぜる音、宙に舞う砂塵、跳ねる薬莢、そして能面の群れが呼吸するようにざわめく声。

俺は紫の幟の支柱を撃ち抜いた。布に巻き込まれ二人が倒れ、藤川が短く止めを刺す。陽一郎が澄んだ金属音でマガジンを交換し、その動作を佐伯さんが二発で援護する。

「狂ってる……死んでいくのに、まだ歌ってる」思わず口に出した。

比喩じゃない。至近で血を流し尽くす仲間の傍らで、能面の列は立ち尽くし、声を途切れさせない。まるで俺たちを雨粒としか見ていないように。

俺は再び祭壇を見やった。少女たちはまだ生きていたが、意識はほとんどない。衣服の上半身は剥ぎ取られ、まるで中之島の事件で月城が小百合さんにしたことの再現だった。

その中で――命はまだ息をしていた。冷気に奪われる前のか細い呼吸。胸が上下し、縄が手首の皮を食い破っていた。

背後の石灰と炭で描かれた五芒星の向こうに、奴はいた。

母を殺した男――能の翁面を被り、他の者とは違うその仮面で、目のない視線をこちらに向けていた。

何も言わなかった。ただ杖を掲げただけだった。

それで十分だった。周囲の仮面たちは道を開け、言葉を持たぬ老王に従う家臣のように退いた。

「翔くん!」佐伯さんの声が飛ぶ。飾り気のない短い一言。

わかっていた。これだ。堺からアクセルを踏み切って戻ってきたのは、この一瞬のためだ。

それ以外ではない。

手の中の銃の重みを確かめる――頭を欺くための習慣。

乃亜がこちらを見ているのを確認し、もうついてくるなと目で伝える。

一度うなずいた。肩で扉を押し開けるように。

「今だ」

駆け出した。

世界は松明の回廊に縮まり、幕のように開く影、湿った葉を踏み砕く音、焼けるような腹の奥。

左右では佐伯さんたちが撃ち続け、俺が抜けるための混沌を支えていた。

顔すれすれに熱い風――かすった弾丸か、誰かの最後の一発か。

祭司の杖が僅かに上がる。声なき命令。それに従う仮面たち。

俺は従わない。

無表情の顔を見ずに駆け抜ける。祭壇、命、白墨の線――あと三歩、二歩、一歩。俺を正気に繋ぎとめる唯一の理由がそこにある。

小百合さんへの約束が喉を灼いた。だが飲み込んだ。

『まず命、それから全て……最初の一撃で道を開け、次に復讐だ』

銃を体に押し付け、腰を沈め、一気に踏み込む。

轟音、光、詠唱、すべてが一直線に折り畳まれる。

駆けながら、仮面たちが一斉に振り返った。まるで山そのものが俺と呼吸を合わせたかのように。

***

六甲山・神戸。【相沢小百合の視点】

2016年11月7日・午後10時44分。


私は木々の間に身を潜め、松明の光に照らされた広場を見据えていた。

その時すでに戦いは始まっていた。翔さん――ようやく辿り着いた彼と、佐伯さん、そして仲間たちが正面から突入し、銃声と詠唱が交錯していた。

間に合った――本当に良かった。

静かに思い返す。数分前、翔さんへ連絡を入れた後、谷口さんに命を救われたあの瞬間を。アスタロトの指示によるものだった。

ほどなくして私服姿の警官二人が合流し、私たちは右側から迂回する形で広場を包囲した。谷口さんと彼の部下たちは事前に見張りの配置を把握しており、その情報をもとに先回りするように動いた。

警察は儀式が真夜中に行われると踏んでいたが、予定より早まった。それでも警戒の配置は変わっておらず、その油断を突いて一人ずつ静かに排除していった。

「先を読んで部下に山中で巡回を続けさせておいてよかった」谷口さんが低く言う。

「ふふふ……案外、役立つじゃないか、健太郎くん」アスタロトが薄笑いで返した。

谷口さんの部下は迷いなく先行した。サプレッサー付きの銃声が短く鳴り、倒れた体を藪へと引きずり込む。だが詠唱は止まらない。

「本当に……この人たちは人間なの?」心の奥で呟く。

アスタロトはほとんど動かなかった。だが、ひとりの信者がこちらを振り向こうとした瞬間、彼は音もなく崩れ落ちた。引き金は引かれていない。死の直前に見た何かに怯え切った表情で。

アスタロトはただ私の背後を歩き、子供の悪戯のように楽しげに笑った。

無線を口元に寄せ、息を殺して囁く。

「佐伯さん、こちらは配置につきました。合図をお願いします」

雑音交じりに、彼のかすれた声が返ってきた。銃声の反響が途切れ途切れに混じる。

「踏ん張ってくれ、小百合さん。こっちは人数が足りない……翔くんが早く来てくれるといい。お前の合図は、すぐに出す」

「了解しました」そう答え、通信機を握りしめて再びしまう。

茂みの隙間から、即席の祭壇と縛られた少女たちの影が見える。空気は煙と樹脂、火薬の臭いに満ちていた。指は震えていたが、引き金から外すことはしなかった。失敗は許されない。少女たちの命がかかっている。

――合図はもうすぐ。

やがて翔さんたちが正面から突入する姿が遠目に見えた。谷口さんは部下に援護を命じ、人数を増やして圧をかけていく。

「佐伯さん、こちらは待機完了。救出対象は視認済みです」通信機に囁く。

「よし。見ての通り想定より手こずってる……だが翔くんが道を切り開いてくれる」彼の息遣いの向こうで、銃声が重なった。熟練の動きは一目でわかる。

「了解。合図は?」

「翔くんが――教団の指導者に向かって突っ込む、その時だ」

通信はバチッと途切れた。息を呑む。

そして――時が来た。

広場の反対側、翔さんが疾風のように駆け出し、教祖へ一直線。信者の大半がそちらへ引きつけられる。佐伯さんの援護射撃が火花のように響き、詠唱の声はなお続くが、混乱で細切れに崩れていく。

――道が開いた。

「今だ!」

両手で手袋を締め直し、茂みから躍り出る。谷口さんが後方から冷静に撃ち、敵の注意を逸らす。アスタロトは私の隣を歩む。炎に照らされても揺らがぬその姿は、すべてを嘲笑っているかのようだった。

祭壇を守るのはわずか半ダースの残党。だが狂信の光を目に宿し、真正面から突進してきた。

二人が私を狙って迫る。肩を低く滑り込ませ、ひとりを弾き飛ばす。もうひとりに手首を掴まれたが、ひねりと蹴り上げで間を取った。煙と樹脂の匂い、こめかみを打つ鼓動――止まることなどできない。

谷口さんの銃声が背後で響いた。乾いた、抑え込まれた一発一発が、私が独りではないことを思い出させてくれる。

「進め」――低く囁かれた声に、振り返らず従った。

頭上には満月。冷たい光が即席の祭壇を白々と照らし出し、その赤い炎と鋭い対比を描く。縄で縛られた少女たちが並び、口を塞がれ、怯えた瞳だけが炎に反射していた。

私はすぐに彼女たちの傍へ身を屈めた。手は震えていたが、指先は確かだった。

「命さん……お父さんの命で来ました。必ず助けますから、大丈夫」

掠れるように囁くと、彼女は涙をこらえたまま小さく頷いた。

指先で縄を解こうと試みたが、手袋越しでは全く歯が立たなかった。舌打ちし、腰のベルトからナイフを抜いた。だが焦りで刃が指先から滑り落ち、石に当たって乾いた音を立てた。血の気が引いた。

「ちっ……」

「小百合さん、これを」

谷口さんが右側から近づき、前を警戒しながらナイフを差し出した。

だが、その手は届かなかった。闇の中から突如現れた影が、拳を彼の胸に叩き込み、数メートルも吹き飛ばしたのだ。谷口さんの身体は草むらに消えた。

耳の奥で世界が凍りついたように静まり返る。顔を上げる。

――いた。

堂々と、月明かりに立つその姿。祭壇を護る番人のように、私を見下ろす影。

あの男だ。中之島で月城と共に私を襲った、あの日の恐怖が一気に蘇った。

膝を折ったまま、呼吸さえ乱れている不利な体勢。背後ではアスタロトがただ立ち、見守るように笑んでいる。

仮面の男が立ち塞がった。月光に照らされた翁面は感情を示さず、ただ冷ややかに沈黙していた。

次の瞬間、拳が落ちてきた。槌のように。

反射で腰をひねり、体重を外へ逃がす。拳は地面を砕き、砂塵と石片が跳ねた。

――化け物。直撃を受ければ終わる。

仮面がわずかに上を向き、今度は横薙ぎの一撃。反射的に前腕を上げて外へ払う。体を軸に回し、相手の力を流す。入身投げ。わずかに体勢を崩すことに成功し、一歩距離を取った。だが腕には鈍い痛みが残っていた。

「くっ……」

短く息を吐き、汗を拭う暇もない。

男は即座に体勢を立て直し、突進してきた。重量に押し潰されそうになりながらも、私は肘を掴み、力任せにねじり下げる。小手返し。巨体が一瞬沈み、揺らぐ。だが倒れはしない。異様な強靭さに、背筋が粟立った。

「どうやらあの怪力は一撃ごとに間を置く必要がある……今のうちに隙を突くしかない」

そう結論づけた。

それでも、力を抑えたはずの拳ですら、棍棒のように重かった。鼓動がこめかみを打ち破る。踏み出すたびに地面が震え、骨の髄まで響いた。腰をひねって突進をかわし、前蹴りを放つ。踵が膝に当たったが、男はほとんど揺るがない。すぐさま鞭のような掌打が振り下ろされる。

間一髪、身を伏せて転がる。湿った石に擦れる衣の布地。視界の端に、刃が光った。私のナイフだ。手を伸ばしたが、距離が足りない。仮面の守護者が再び立ち塞がり、進路を遮った。

視線の隅で捉えた光景――アスタロトが跪き、落ち着き払った様子で少女たちの縄を切っていた。命さんの瞳には恐怖の光が揺れていたが、彼女の動きは遊戯のように静かで正確だった。

轟音に振り返ると、谷口さんが草むらから這い出てきた。胸を押さえつつも銃を構え、こちらに照準を合わせる。

「駄目!」思わず叫び、手を振って制止する。『撃つな』――口の形で伝え、次に祭壇を示す。『彼女を援護して』

谷口さんは理解した。銃口を下げ、迷わずアスタロトと少女たちの護衛に回った。

私は再び守護者と対峙する。無言のまま、仮面の奥からこちらを値踏みするように見据えている。世界は狭まり、呼吸だけが響いた。震える身体を押さえ込み、両の掌を固く握る。退くつもりはなかった。

「来い」

重い足音が近づく。威圧するためだけに計算された動き。肺が焼ける。汗がこめかみを伝い、唇に苦さを残す。勝つためではない――時間を稼ぐために戦っているのだと悟った。

横へ回り込もうとしたが、即座に反応された。肩は壁のように分厚く、腕は大槌のように振るわれる。再び振り下ろされた拳を、体を滑り込ませてかわす。石に擦れて服が裂けそうになる。

「ナイフ……」

祭壇の前で金属が月明かりにきらめいていた。そこに辿り着けば――

だが守護者も気付いた。仮面がわずかに揺れ、森に目を向ける。アスタロトと谷口さんが少女たちを連れ去っていくのを見ていた。

――殺す気だ。奪い返す気だ。

「駄目ぇっ!」

声が裂け、喉を焼いた。

地面に身を投げ出し、必死に這い進む。指先がようやく冷たいナイフの柄を捉えた。心臓が胸を突き破りそうに打ち鳴る。振り返れば、影が背を向けて離れていく。考えるより先に、恐怖と怒りが突き上げる。私は渾身の力でナイフを投げ放った。

「これでも喰らえ……!」

空を裂く音。刃は左肩甲骨の下に突き刺さり、乾いた音を響かせた。守護者の体が震え、腕が引き絞られた弦のように硬直する。荒い呼吸が一瞬だけ途切れ、肺を貫いたと悟った。だが膝をつくことはなく、ゆっくりと首を回してこちらを見据えた。

月光に白い仮面が浮かび上がる。

背筋に冷気が走る。傷は与えた――だが、まだ立っている。しかも、歩み寄ってくる。

アスタロトと谷口さんが少女たちを連れて森へ消える枝葉の音が背後に響いた。命さんの姿が闇に溶けたのを見届けて、胸に一瞬安堵が広がる。

「ようやく……彼女たちは助かった」

だが、息をつく暇もなかった。

守護者は背中にナイフさったままの刃を無造作に引き抜き、血の筋を衣に滴らせながら立ち上がる。肩幅は広く、身長は私より二十センチは高い。岩のような胴体が、血に濡れた布を張り裂かんばかりに盛り上げている。呼吸は荒いが、その仮面に迷いはなかった。

「こんな傷でも……止まらないのか」

視線を逸らした一瞬の隙に、遠くで翔さんの影を捉えた。仮面の翁と刃を交わし合う姿――母を奪った相手に挑む姿。光と影が交錯し、再び闇に沈む。胸が締め付けられる。助けたいが、今は目の前の相手を止めねばならない。

守護者が突進してきた。両腕で攻撃を逸らし、背中に潜り込んで背負い投げを仕掛ける。だが動かぬ石壁のようにびくともしない。逆に体重を利用され、押し潰される。

拳が頬にめり込み、世界が反転する。血の味が口いっぱいに広がった。倒れ込んだ私の喉を、鉄のような腕が鷲掴みにした。空気が途絶え、視界が白む。指が無意識に彼の腕を掻きむしるが、びくともしない。

――殺したくない。人を殺すなんて……

だが脳裏に冷たい声が囁いた。

『生かしておけば、また殺す。誰も止められない。警察だって、無理だ。……分かっているだろう?』

爪が彼の皮膚に食い込み、割れて血がにじんだが、ただかすかな傷しか残せなかった。視界が闇に覆われ、焚かれた松明の音は遠い水の底で揺れる囁きのように変わっていく。胸を叩く鼓動は狂ったように暴れ、意識が遠のいていくのがわかった。

その時、指先が腰のベルトに触れた。冷たく拒んでいた鉄の重み。ホルスターに収めた拳銃が、肌に擦れる。使いたくなかった。これだけは認めたくなかった。だが、首を絞める圧力は増し、気管が軋み、視界が赤に染まる。

――考える暇などなかった。私は銃を抜き、ただ引き金を引いた。

バン! バン! バン!

至近距離の轟音と閃光に、一瞬、視界が白く塗り潰される。奴の体は痙攣したが、掴む手は緩まない。再び照準を合わせ、声にならぬ叫びを吐き出しながら、残弾を絞り出すように撃ち続けた。

バン! バン! バン!

カチャリ。空になったマガジンが虚しく落ちる。硝煙の匂いが血の臭いと混ざり合い、ようやく奴の腕の力が抜けていった。肺に空気が流れ込み、喉から獣のような叫びが迸った。

膝から崩れ落ち、咳き込みながら血を吐く。震える手にまだ拳銃を握っていた。視線の先では、番人の巨体が数歩よろめき、やがて地に崩れ落ちる。痙攣しながらも、まるで死を拒む獣のように暴れていた。

安堵は訪れない。ただ胸の奥に、冷たい虚無だけが残った。

銃声を聞いた残りの信者たちは怯えて森へ逃げ込んだ。だが追う力など、もう私には残されていなかった。

血で黒く染まる土。その上で息を整えていると、近づく足音が耳に届いた。反射的に銃口を向ける――が、弾はない。視界に入ったのは佐伯さんの姿だった。戦闘を終え、部下たちと共に現れたのだ。

「少女たちは……谷口さんとアスタロトが連れ出した……お願い、助けて……」

掠れた声で訴えると、彼は力強く頷いた。

「心配するな。俺の部下をすでに向かわせた。必ず守らせる」

胸の奥で硬く結ばれていたものがほどけていく。だが次の瞬間、遠くから再び轟音が響いた。木々を揺らす衝撃。森全体が震える。

私は佐伯さんの肩を借り、血に濡れた唇を拭いながら立ち上がった。

「……翔さん」

名を呼び、足を引きずりながら音のする方へ進み出す。どんな地獄が待ち構えていようと、彼を一人にするわけにはいかなかった。

***

六甲山・神戸。【天宮翔の視点】

2016年11月7日・午後10時44分。


振り返らずに走った。血の音が耳を叩き、戦鼓のように鳴り響く。もう何も聞こえない。いや、聞く必要もなかった。

そこにいた。

奴だ。

能の翁面を被ったあの男。

堂々と、広場の中心で立ち尽くし、まるで俺を待っていたかのように――俺の存在を知らぬはずなのに。

幾人かの狂信者が俺の行く手を遮った。意味のわからない叫び声を上げながら突進してくる。

腕を振り上げ、一人目に拳を叩き込もうとしたその瞬間――

バン! バン!

銃声が俺を追い越した。

藤川、乃亜、功、陽一郎の連射が信者たちの体を撃ち抜き、道を切り開いていく。

佐伯さんも横手から援護射撃を加え、俺の側面を守る。振り返らなくても分かった。皆が俺を支えてくれているのだと。

それでも二人が距離を詰めてきた。一人は俺に飛びかかり、拳一発で仮面を粉砕した。もう一人は腕を掴んできたが、鳩尾に膝を突き立て、さらに踏みつけて沈めた。止めを刺す気などなかった。生きるか死ぬかなどどうでもいい。ただ俺の前に立ち塞がる存在を排除するだけだ。

一歩踏み出すたび、皮膚の下から剥ぎ取られるように記憶が蘇る。母の顔。守れなかった罪悪感。腹部に刻まれていた忌まわしい印。その夜、死を知らされた時の絶望――。俺は今、逆行している。走るごとにあの夜へと遡っていくようだった。

そして――奴と対峙した。

銃声も、叫びも、松明の燃える音すら消え去り、世界が水底に沈んだかのような静寂。

残ったのは、俺とあの男だけ。

能の翁面。白く、不気味に笑みを湛えた仮面が、炎を映して揺らめいていた。まるで俺が生まれる前から見続けてきたかのように、そこから目が離せなかった。

数歩手前で足を止める。震える手は、恐怖ではなく――純粋な怒りに突き動かされていた。

「……やあ、クソ野郎。お前は俺を知らないかもしれないが――俺は、お前を殺しに来た」

言葉と共に、一歩。地獄への入口に踏み込んだ。

祭司は答えなかった。ただ黙って杖を振り下ろす。空を裂く風音。間一髪でかわすが、頬を掠める風に冷たい汗が走る。すぐに杖の軌道が翻り、今度は脇腹へ。鈍い衝撃、骨の軋む音、口から呻きが漏れる。

「……くそっ……!」

苦しげに息を吐きながらも、俺は肩から体当たりを仕掛けた。巨体を押し込んだが、一歩後退しただけですぐに大地に根を張るように踏み止まる。返す膝蹴りが鳩尾に突き刺さり、体が折れ曲がった瞬間、杖の石突が顎を打ち抜いた。口内に血が広がる。

唾を吐き捨て、血に濡れた口元で嗤う。

「……ただの老人の戦い方じゃねぇな。どうだ、その面を外してみせろ……死ぬ前に、お前の顔を見てやる」

男は沈黙したまま。

「ほら……その穢れた仮面の下を見せろよ!」

その刹那、視界の端に光が走った。

小百合さんだ。彼女もまた、命を救うために必死に戦っていた。だがそれは一瞬の幻のように火と煙に掻き消える。

俺は再び、目の前の男だけに意識を注いだ。

祭司が再び杖を掲げた。旋回するその動きは不気味なまでに精緻で、俺が踏み込むたびに肋骨や腕を狙って木の鞭が襲いかかる。まるで近寄ることすら許されない結界だ。

このままでは消耗するだけだと悟った。

「クソッ……一晩中、この距離で踊らされてたまるかよ」

腰のホルダーに手を伸ばし、折り畳みナイフを抜き取る。

カチリ――金属の音が夜気を裂き、刃が松明の光を反射して煌めいた。

「どうした? 間合いを詰めるのが怖いのか? 女ばかり痛めつけるのは得意なんだろう!」

吐き捨てるように言ったが、祭司は応じない。ただ無言で杖を振り下ろす。

刹那、頭上を掠める一撃を避けざま、脇腹へナイフを突き立てようとした。だが――杖が鞭のようにしなり、俺の前腕を打ち据える。息が詰まり、思わず罵声が喉から漏れた。すぐさま脚が閃き、大腿を蹴られて体勢が崩れる。

「……ちっ、この野郎……素手でぶち殺してやりてぇ」

怒りに任せて再度踏み込む。

一、二、三度――ナイフを閃かせ畳みかける。だが、金属を仕込んだ杖の両端が的確に受け流し、カンッ、カンッと乾いた音を響かせるばかり。

あの杖は壁だ。俺と奴を隔てる、絶対の壁。

肩で押し込み、肉体同士をぶつけ合う。だが仕込み杖の主は俺の手首を掴み、信じがたい握力で捻り上げた。

「ぐっ……!」

反射的に体を引いたところへ、肘が側頭部にめり込み、視界に火花が散る。それでも倒れない。

銃を抜けば終わる。

だが――それは望んでいない。俺が欲しいのは速い決着じゃない。

あの夜の母と同じ痛みを、奴自身に刻むこと。速さではなく、苦しみだ。

口の端から血を垂らし、笑みを歪ませる。

「……その面を剥がせ。お前の顔を、この目で確かめてから殺す」

祭司は依然として沈黙したまま、荒い息だけを仮面の下から響かせる。翁の白面は月光を受けてなおも不動に輝く。

再び杖が舞う。

夜風すら従えるかのように正確で、円環を描く動きは近寄る者を斬り払う死の領域。黒衣の裾が紅を帯びて揺れ、月光を背に影が伸びる。その能面は冷たく無機質に俺を拒絶していた。

「……見せろォッ!」

怒号と共にナイフを突き立てる。

だがまたもや杖が弾き、衝撃が腕を痺れさせた。返す一撃が俺の胸前を薙ぎ、後方に弾かれる。呼吸が荒れ、膝が軋む。

――このままじゃ、届かない。

あの杖がある限り。

反射のように腰へと手が伸びた。そこにあるのは拳銃。弾は装填済み――だが俺は誓った、この男をただの銃弾で終わらせはしないと。自分の手で命を引き剥がす、そのためにここまで来たのだ。

それでも、再び杖が顔を掠めた瞬間、選択肢は消えた。

「……まあいい。銃でも拷問はできる」

引き金を絞る。ドンッ!――火花が森を裂き、閃光が夜を照らした。

祭司は杖を振り、弾丸を弾き飛ばす。火花が散り、金属音が木霊する。

「アニメの少年漫画のキャラにでもなったつもりかよ…?」

二発目が黒衣を裂き、肩口に紅を走らせた。

初めて――その防御を抜いた。

「……やっとだッ!」

胸が破裂しそうな鼓動を刻む。

だが祭司は怯むことなく迫る。杖が唸り、空気を断ち割る。紙一重で避け、俺は地面を掴んだ。湿った土を鷲掴みにして面へと叩きつける。

低く唸る声。仮面の翁が泥に汚れる、その刹那。

前進。ナイフ先が布を裂き、腹部近くを掠めた。深くはない。だが確かに通った。

後退する祭司。

次に放ったのは杖ではなく蹴り――胸に直撃し、肺から空気が一気に吐き出された。俺は地に叩きつけられ、見上げた先に白い能面が立つ。月光を戴き、処刑人のように。

「血は流れる。……無敵じゃねぇ。この手で、今度こそ逃がさない」

そのとき、森を震わす銃声が連続して轟いた。

一発ではない。二発でもない。乾いた破裂音が幾度も重なり、山肌に反響する。

俺と祭司は同時に動きを止めた。

血の舞踏を中断された獣のように。翁面が僅かに傾き、背後の斜面へと向く。

その硬直――俺の耳にも届いた。制御を失った銃撃の咆哮。

「……小百合さん」

名を呼ぶより早く、気付く。祭壇に縛られていた少女たちの姿はもうなかった。小百合さんがやり遂げたのだ。

「よし……これで、復讐に集中できる」

老僧の視線が逸れた瞬間を逃さず、脚を叩き込む。膝を砕く勢いで踏みつけ、肩から体当たりをかます。

湿った土を削りながら、仮面が後退する。杖で体を支え、倒れはしなかったが――今までで一番近い。翁面が目の前、手を伸ばせば届く距離。

荒い息。白い能面の空洞に、自分の顔が映り込む。

「……あと少しだ」

ナイフを握り直す。

だが次の瞬間、杖が唸り、再び強引に俺を弾き飛ばす。それでももう逃がさない。安全な間合いは崩れた。

視界の端で、佐伯さんが丘の方へ走るのが見えた。小百合さんのもとへ――彼女はまだ戦っている。

近くでは藤川と乃亜が銃火を絶やさず、閃光の合間に倒れていく仮面の影が土に転がる。

混沌。

だが、確かに制御された混沌。

俺たち一人ひとりの暴力が、この地獄を支えていた。

だが、そんなことはどうでもよかった。

俺の眼前には――あの忌まわしい祭司がいる。

杖が再び弧を描き、後退を強いられる。速い。老人とは思えない速度で、寸分違わぬ正確さ。

「……悪魔にでも魂を売ったか、この野郎」

刃は木に触れるだけで、翁面は揺るがない。俺を嘲笑うかのように。

喉が焼け、胃の奥¥から胆汁が込み上げる。

もう、こんな消耗戦は続けられない。

汗を流しながら、俺は懐に手を入れる。

「……もう、遊びは終わりだ」

銃を抜き、引き金を引く。ドンッ!

弾丸が左肩を貫いた。黒衣が鮮血に染まり、杖が大きく揺らぐ。

初めて――あの翁面が揺らいだ。

銃声の余韻の中、地に転がる杖。

よろめく祭司に、俺は全ての憎悪を叩きつけるように飛びかかった。

胸の奥で燃え盛る火が血管を焼き、息が肺を裂く。

押し倒し、拳を振り下ろす。

「……死ねッ!」

拳が翁面を砕く。木片が弾け、血混じりの皮膚に突き刺さる。

割れる音と共に、白い仮面が崩れ落ち――その下に現れた顔。

俺は凍りついた。

胸の奥が空洞になり、息が途絶える。

――まさか。

皺に刻まれた目元、馴染み深い顔。

子どもの頃、俺を捨てた男。母を置き去りにし、すぐ戻ると言いながら二度と帰ってこなかった男。

……俺の父親だった。

腹を刃で貫かれたような痛み。

母が台所で泣いていた姿。帰りを待って玄関を見つめ続けた夜。破られた約束。

すべてが蘇る。

「……お前……」

声にならぬ声。獣のような呻き。

奴は平然と、唇の端を歪めた。

「勘違いするな。お前も、母親も……俺の人生にとっては、ただの事故だった」

――その一言が、刃よりも深く胸を抉った。

それでも俺は自分の能力を使い、彼の思考を探った。

言葉が真実かどうか確かめたかった。

だが、そこにあったのは――俺と母への憎悪だけだった。

理解できた気がした。捨てられた理由も、母の死も、この狂った儀式も。

だが知りたいわけじゃなかった。理由も、言い訳も、もうどうでもいい。

俺は、こいつを父親としてではなく――敵として殺す。

唯一わかっていたのは、これ以上聞く必要はなく、今こそ全ての清算を果たす時だということだった。

「地獄で会おう……お前の神ですら、そこからは救えない」

怒りに目が眩み、歪んだ笑みを浮かべながら吐き捨てた。

手に握ったナイフは、まるで俺の憎悪そのものの延長のように重く感じられた。指先に滲む自分の血で滑りそうになりながらも、振り上げ、そのまま老人の身体へ突き立てた。喉の奥から獣のような叫びが迸る。肉を裂く感触、溢れ出す熱、下で震える老いた身体。

考える暇も、ためらう余地もなかった。

一度、二度、三度――突き刺すたびに脳裏に蘇る記憶。

斬り裂くたびに思い出す約束の破片。

流れ落ちる一滴一滴が、母の命の代償だった。

ようやく手を止めた時、俺は獣のように息を荒げ、両手は怒りで震えていた。弱さではなく、燃え尽きぬ激情のせいで。

その時だった。

血に濡れた影の中から、小百合さんが現れた。全身傷だらけで疲弊しきっていたが、その瞳は真っ直ぐ俺を射抜いていた。言葉はなかった。言えるはずもなかった。周囲の誰も、俺に声をかけることなどできなかった。

小百合さんは理解していた。今は言葉など不要だと。

ただ一つの視線だけが、どんな打撃よりも深く俺の胸を抉った。

父の血に塗れたまま、俺は息をすることすら辛かったが、どうでもよかった。

復讐は果たされた。

たとえ魂を代償にしても。

俺はゆっくりと立ち上がった。荒い呼吸、手に残る血の滴るナイフ。

目の前には、砕け散った能面と共に横たわる父の亡骸。

その虚ろな瞳は、どこまでも空を彷徨っていた。

そこには栄光も、解放もなかった。ただ胸に広がる深い空洞だけ。

「……終わった」かすれた声で呟いた。

期待していたような高揚感はなかった。代わりにあったのは、奇妙な虚無感。まるでこの戦いは、俺が生まれるずっと前から始まっていたかのように。

背後で足音がした。振り返ると、そこには小百合さん。傷だらけの顔、しかし揺るがぬ眼差しで近づいてきた。

風と焚き火の爆ぜる音の中、彼女の声だけが届いた。

「翔さん……」

その声は優しく、だが確かな重みを持っていた。

唾を飲み込む。胸の中でまだ怒りは獣のように暴れていた。答えのない問い、そしてそれ以上に重くのしかかる哀しみ。

「母さんは……やっと安らかに眠れる」声を絞り出した。

小百合さんは、哀しみと強さを併せ持つ表情で俺を見つめた。

「失ったものが戻るわけではない……けれど翔さん、あなたは一人じゃない。私たちがいる」

そう言って周囲を指差す。そこには佐伯さん、乃亜、藤川の姿。

言葉は出なかった。ただ歯を食いしばり、立っているだけで精一杯だった。

「……命は? 救い出せたのか?」ようやく絞り出した声は震えていた。

「アスタロトさと谷口さんと一緒にいる。佐伯さんが部下を向かわせた。彼女は無事よ」

安堵の息を吐いた。最後に一度だけ父の亡骸を見下ろし、ナイフを手放した。

鈍い音を立てて地面に落ちた。

「――行こう」

俺たちは背を向けた。佐伯さん、野亜、藤川と合流する。

その顔に浮かぶのは疲労と、そしてほろ苦い安堵。

すべてが、ついに終わったのだ。

振り返ることはなかった。

もう見るべきものは何もなかった。

谷口が送り込んだ警官二人は、有馬温泉の方へ姿を消した。彼らもまた警察官だ。大量殺人を犯した者たちと一緒にいる姿を、誰かに見られるわけにはいかなかった。

***

新開地・神戸。【相沢小百合の視点】

2016年11月8日・午前1時30分。


翔さんの戦いが終わってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。

一時間か、それ以上か。

確かなことは、あの混乱の後に残ったのは、山に漂う静けさと、再び合流する私たちの疲れ切った足音だけだった。

翔さんの車は弾丸で蜂の巣のように破壊され、もう動かなかった。

そこで佐伯さんが電話で部下に別の車を持って来させるよう指示した。

その間、谷口さんは救出した少女たちを連れて行った。

表向き、彼だけが警察や家族に彼女たちを引き渡すことができる――私たちにはできない。

私たちは二つのグループに分かれた。

一台目には佐伯さん、翔さん、アスタロト、そして疲れ果てて眠っている命さんと私。

二台目には佐伯さんの部下たち、そして野亜と藤川さん。

神戸の街へ戻る車内は、言葉を失ったかのように沈黙していた。

誰も話す力など残っていなかった。

衣服にはまだ火薬と血の匂いが染みついており、今夜が完全には終わっていないことを思い知らされる。

窓の外に見える神戸の灯りは遠くで瞬き、まるで山中で起こった出来事など知らぬふりをしているようだった。

午前一時半を過ぎ、新開地に到着した。

この街はまだ眠らず、酒場や店から人々のざわめきがこぼれていた。

夜明けなど遥か先だと言わんばかりに、酔客の笑い声と自転車のベルの音が交じり合う。

パチンコのネオンは半分消えかけ、それでも光を手放そうとはしなかった。

車を降りた途端、乃亜が眉をひそめ、不機嫌そうに声を上げた。

「ちょっと! なんで私を翔兄から離したの?! 彼には看病が必要でしょ! 私こそが一番適任なのに!」

思わず小さく笑ってしまった。

あれほどの出来事の直後に、その子供っぽい不満を聞かされると、緊張がふっとほどけて日常の火花を取り戻したように思えた。

私は答えずにそのまま歩き出す。

乃亜は文句を言い続け、私たちは事務所に入った。

――帰ってこられて、こんなに安堵するなんて。

ソファに身を沈めながら、心の底からそう思った。

佐伯さんは用意していたアタッシュケースを開け、ためらいもなく包帯や消毒液、縫合用の針を配り始めた。

漂うアルコールの匂いが、まだ服に染みついた火薬臭と混じり合う。

アスタロトは椅子にどかっと腰を下ろし、含み笑いを浮かべて言った。

「へぇ、小百合ちゃん、武道なんてやってたんだね」

「ええ、昔から格闘技には興味があったのと……警察にいた頃に護身術を叩き込まれたのよ」

「ふん……まあ、あの役立たず健太郎くんには何も身についてなかったみたいだけどね」

「フフフ……でも、あんたの戦いは見応えがあったよ。おかげで退屈しなかった。ご褒美として助けてやったと思いな」

相変わらずの皮肉混じりの調子に、私はただ微笑んだ。

「……まあ、ありがとう。理由が何であれ、君の助けがなかったら少女たちを救い出すことはできなかった」

私の言葉に、アスタロトは思わず顔を赤らめた。

「ふん……勘違いするな。次は絶対に助けないからな」

眉をひそめ、わざとらしくそっぽを向く。

その間、乃亜が翔さんの肩の傷を丁寧に手当てしていた。

私自身も腕に擦り傷や青あざが広がり、ひりついていたが、気にしないふりをした。

ふと翔さんを見ると、彼の瞳はどこか遠く、私たちには見えないものを見つめているようだった。

尋ねなかった。――今は、知らない方がいい気がした。

その時、不意に電話の着信音が重苦しい空気を破った。

翔さんが震える手でポケットから取り出す。拳にはまだ乾いた血がこびりついていた。

受話器を耳に当てた瞬間、その声色で誰からの電話か分かった。

――渋木廉次郎さんだった。

「すぐに行く! 今すぐ娘に会わせろ!」

切羽詰まった声が、受話器越しに事務所の中にまで響く。

翔さんはため息をつき、低くしかし鋭い声で遮った。

「落ち着け……娘さんは今眠っている。俺たちも傷だらけだ。今は動くのは危険だ……夜明けまで待て。新開地まで来い」

通話はそこで唐突に切れた。

誰も何も言わなかった。

それぞれが黙って傷を手当てし、心の奥に沈んでいった。

時間はゆっくりと流れ、夜は終わりを拒むかのように長かった。

だがやがて、事務所のブラインド越しに朝の光が差し込み始めた。

オレンジ色の光が新開地の古びた建物を染め、街に皮肉なほど穏やかな気配をもたらす。

数時間前まで喧騒を放っていたネオンの看板も、今は影のように霞み、朝日の色にその存在を奪われていく。

新開地はゆっくりと目を覚まし、古びた街並みに鉄道の音と朝のパンの匂いが重なる。

そして、私は窓の外にその姿を見つけた。

――渋木廉次郎さんだ。

二人の用心棒を従え、慌ただしく通りを横切ってくる。

両手には二つのアタッシュケース。中身が何か、推測する必要すらなかった。

「本当に必死ね……まあ、娘のためだもの」

思わず呟いた。

窓辺に佇み、しばしその姿を見つめたあと、眠っている命さんへと視線を戻した。

彼女の呼吸は穏やかで、顔にはまだ恐怖と疲労の色が残っている。

私はそっと身を屈め、彼女に囁いた。

「命さん……お父さんが来たわ」

ゆっくりと目を開けた命さんが、かすかに震える声で言った。

「ほ、ほんとうに……?」

「ええ。もう終わったの。あなたはもう大丈夫」

その瞳の奥に、消えない影と、そして微かな希望の光が揺れていた。

扉が勢いよく開かれた。

渋木さんが二人の護衛を連れて事務所に飛び込んできた。空気が張り詰め、皆が一瞬にして目を覚ます。

彼は娘の肩を強く掴み、声を震わせながら叫んだ。

「命!」

命さんは言葉を発せず、弱々しく頷いた。

渋木さんは震える顎を隠すように顔を伏せる。抱擁と呼べるほどではなかったが、その手の力が全てを物語っていた。

その瞬間だけは、彼は実業家でも組織の長でもなく、ただ一人の父親だった。

私は口を挟まなかった。

しかし耳に届いた。渋木さんが声を詰まらせながら翔さんに向けて言った言葉――

「……代金は鞄の中にある」

感謝の言葉はなかった。ただ、娘を取り戻したという事実だけがそこにあった。

数分後、父娘は護衛と共に去っていった。

残されたのは、妙な空虚さだった。

再び事務所に静寂が訪れる。

外では、冷たい朝の風の中、街がゆっくりと目を覚まし始めていた。

今度は佐伯さんがコーヒーを淹れていた。

私たちはソファに身を投げ出し、応急処置を終えた身体を休めていた。山中での夜を思えば、この狭い空間は何よりも温かく感じられた。

私は深く息を吐き、背中をソファに預ける。骨の奥まで疲労が沁みてくる。

乃亜の拗ねた声、アスタロトの皮肉混じりの笑い、佐伯さんの低い声が藤川さんへと指示を与える。

皆がようやく息をついたように見えた。

――翔さんを除いては。

彼の視線は窓の外、遠いどこかへと彷徨っていた。

「…まあ、終わった……少なくとも今は」

そう心の中で呟いた。

柔らかな橙色に染まる空を見上げながら、私は思う。

次に訪れるものは何だろうか。

せいぜい三十日――嵐が再び押し寄せるまでの猶予。いや、もっと早いかもしれない。

アスタロトの笑い声、乃亜の文句、佐伯さんの重い声。

それらが混ざり合い、奇妙に心地よいざわめきとなる。

――そう、今だけは。私たちは、決して一人ではなかった。



次回:『最初のあとがき。』


最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

よければ評価していただけると、今後の励みになります!

これからもどうぞよろしくお願いします!

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