1121. レラジェ誘拐事件?
レラジェは意外にもアンナによく懐いた。赤子が生まれたら休暇を取る予定のアンナだが、今はレラジェの面倒を見るのが仕事だ。屋敷の庭をよたよた歩くレラジェを見守りながら、手元の書類の仕分けを行っていた。転移魔法陣を応用して、物を転送するための箱が開発されている。
書類を提出するのを後回しにするルキフェル用に作られた箱は、書類を入れると事務方のデスクにある箱に届く仕組みだ。魔力の消費量も少なく、ほとんどの種族が扱えることから普及したが……魔王城では重要書類専用の箱が存在した。
その箱のひとつを借り受け、手元で書類を分類する。髪留めを応用したクリップでまとめると転送し、顔を上げた。レラジェは蝶々を追いかけるのに夢中だ。暖かな日差しが心地よい庭は、かつての持ち主が塀を作っていたため囲まれている。子供が行方不明になる心配は少なかった。兄イザヤの肩ほどの高さだが、アンナだと頭の先がぎりぎり見える程度だ。
「レラジェ、ご飯にするわよ」
一段落ついたタイミングで食事にしようと声を掛けたら、大喜びで走ってきた。まだ足元が覚束ない1歳児だ。案の定転んだが、泣かずに堪えて起き上がる。しかし口をへの字に曲げて我慢していた。痛かったのだろう。
「あらあら、おいで」
近づいて屈み、レラジェの手を見ると泥で汚れていた。覚えたての水の魔法で流して、手のひらの傷にちゅっと音をさせてキスをする。
「お呪いよ。これで痛いのは消えちゃうわ」
「ほんと?」
「あら、信じられない?」
くすくす笑いながら手を繋ぐ。大きなテラス窓の前でレラジェを椅子に座らせ、料理を取りに室内へ入った。数分後戻ると……レラジェがいない。転ばないように注意しながら机の下を覗き、庭を見回した。室内も同様に確認するが見当たらず、名を呼んでも出て来ない。
「どこに隠れちゃったのかしら」
それほど深刻に考えなかったアンナだが、1時間後には青ざめていた。さすがに、こんなたちの悪い隠れ方をする子ではない。お腹も空いていたはずで、幼子が一人で壁を登って出ていくことも考えにくかった。確認した門も閉まっている。
「イ、イザヤ! あなた、早く帰ってきて」
叫んで通信の魔道具を握り締める。魔力を流した量が多かったのか……反対側では大声で叫ぶアンナの声が放送された。
「レラジェがいなくなっちゃったわ!!」
驚いた顔をしたルキフェルが、連絡を飛ばした直後に転移する。他人の家へ不法侵入だが、そんなことを言っている場合ではなかった。庭に降りたルキフェルが、取り乱したアンナに駆け寄る。
「どうしたの」
「いなくなったの。どうしよう、ご飯を取りに行くまで、ここにいたわ。座ってたのよ!」
示された椅子を睨みつけたルキフェルの後ろに、連絡を受けたルシファーが飛び込んだ。当然、リリスも同伴である。事情を聞いたルシファーが、時間の巻き戻しを試みた。大量の魔力が消費されるが、問題ないと判断した。
ぶわっと魔力が可視化される。圧倒する強烈な濃度の魔力が、陽炎のようにルシファーを包んだ。長時間は無理だが、半日程度なら確認可能だった。読み込まれる大量のデータを処理しながら、目的の時間を探る。椅子に座った子供……その指針を頼りに時間を追い、映し出した。
手を繋いで歩いてきたレラジェが椅子によじ登り、アンナが室内に消える。直後、空から近づいた黒い動物がレラジェを咥えて走り去った。あっという間の出来事だ。
「今の……」
「ワイバーンだ」
かつて即位記念祭でリリスを攫った、トカゲもどきの空飛ぶ魔物だった。
「覚えてるわ、食べられないやつよ」
……リリス、その覚え方はどうかと思うぞ。苦笑いしたルシファーをよそに、犯人が分かったルキフェルの行動は早かった。人の可聴域ではない音で、笛に似た声を放つ。一定地域内にいるドラゴン種が、一斉に反応した。




