逃がすとは言っていない
※残酷描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
「そういえば、ちゃんと布噛ませてきたんだろうな?」
宿の1階に小さく設けられた、テーブルについて足を組んだエーレが聞いた。
宿には誰もおらず、静まり返っている。
「勿論、出てくる前にやっといたよ。死なれたら、ここまでの苦労が台無しだしねぇ」
紙コップに、お茶を淹れてきたシュトルツが答えた。
どこから拝借してきたんだろう……
勝手に厨房にでも入ったんだろうか?
目の前に置かれたお茶を誰一人、手に着けようとしない。
ついさっき、お茶にルーンサリカの花を盛られたのだから、当たり前だった。
「飲んでも平気だよ。さっき宿の主人で試してきたから」
そう言って、平然とお茶を呷ったシュトルツ。
この男が敵でなくて本当によかったと思う。
それでも僕を含む、他の3人はお茶に手を伸ばさない。
「情報を吐かなかったら、本当に1つ目と2つ目、実行するんですか?」
先ほどエーレが上げた選択肢を思い出して、顔を顰める。
手足を切り落とした上に目まで潰して、獣の餌。
もしくは、壊れるまで拷問。
すると、エーレは肩を竦めたあと、椅子に深く凭れた。
「するわけねぇだろ。面倒くせぇ」
「面倒くさくなかったらするんですか……」
つい、言葉にはそうこぼしたけれど、僕は少し安堵を感じた。
「見せしめが必要なら、多少面倒でもするだろうが、今はそんな必要がない」
テーブルの上のお茶に視線を落としたリーベ。
「陽が昇るまであと2刻もない。吐かないなら、もう少し継続して、様子を見る。
それでもダメなら諦めるしかない」
「吐いてくれたらいいですね……」
続けられた彼の言葉に、もうそれしか言えなかった。
見せしめか……
城にいるときにも、そう言ったことは稀にあった。
君主制の国――つまり、帝国と王国では稀にあることだった。
見せしめと言う名の牽制。
最近、悪夢に見る光景が脳裏をかすめた。
――足元まで飛んできた血しぶき……
兄妹はあのとき……
思わず、身震いが走って、首を小さく振る。
「そういえば、ミレイユさんは?」
彼女にも、お礼を言わなければいけない。
けれど、こんな時刻に訪問するわけにもいかなかった。
「あいつなら、イレーネに付き添ってるはずだ」
「イレーネさん、どうしたんですか?」
エーレの言葉に聞き返すと、僕のお茶を手に取って、飲み干したシュトルツが答えた。
「精神的ショックが大きかったみたいでねぇ。ま、しゃあないよね」
たしかにイレーネはこの道中、何かあるたびに、一番怯えていた気がする。
同僚であるレナータが裏切ったのだ。気の弱そうな彼女には、耐えられないくらい辛いはずだ。
「ミレイユ自身も、落ち込んでいるだろうな」
「レナータさんは、ミレイユさんの付き人だったんですよね」
「側近だったんだ」
その言葉に驚いて、僕はリーベを見た。
側近――どれくらいの期間を一緒にいたかはわからないけど、一番近くで信用していた人に裏切られる辛さを、僕はよく知っていた。
けれど、僕とアルフォンス、ミレイユとレナータでは、立場も関係性も全然違うだろう。
忠誠の在り方も、全然違うはずだった。
「そうだったんですか……」
僕のその言葉と共に、シュトルツが立ち上がった。
「さって、行くとしましょうかねぇ」
彼は言いながら、リーベのお茶も飲みほした。
リーベはどこから取り出したのか――懐中時計を手にエーレに続いて、部屋に入った。
今度は、2人が男の前に立った。
僕とシュトルツは男の後ろ。シュトルツがすぐに、男に噛ませていた布を取る。
エーレは、今度は椅子ではなくて、男の前にしゃがみこんで、目線を合わせた。
「決まりましたか?」
この部屋に入ったエーレは、また別人のようだった。
その隣で、リーベは懐中時計を見ている。
「あと20秒で15分」静かに呟く。
男の表情は見えない。けれど、動揺と混乱が伝わってきた。
「15分まで待つといった。それまでに答えろ」
リーベの無慈悲な声色。
シュトルツが後ろから、男の左手に手を伸ばしたのが見えた。
沈黙の中、リーベの数字を刻む声だけが、部屋に響く。10秒を切る。
「3、2、1.15分だ」
即座に響いたのは、空気を断ち切るような「パキン」という音だった。
前の男が、苦悶の声を噛み締める。僕は息を呑みかけて、咄嗟にそれを飲み込んだ。
「答えは?」
その中で、急かすようなエーレの声がした。
男は痛みに耐えながらも答えない。それを見たリーベが懐中時計を懐に仕舞うと、腰に下げていた剣を抜いた。
半歩前のシュトルツが動いて、男を戒めるロープを左腕だけ解くと、その腕を横に引っ張った。
まさか……!
「最後にもう一度だけ、機会をあげよう。頭の現在の拠点は?」
目だけでエーレを見ると、深い奈落色の瞳が細められている。
ほんの数秒の沈黙。
リーベが剣を振り上げた。
何をやろうとしているかなんて、想像しなくてもわかる。
僕は思わず、目を瞑った。剣が空気を裂く音――
「……ラン!」
肉を絶つ音も、悲鳴でもない。代わりに聞こえてきた声に、僕はそっと片目だけ開いた。
そこには、男の左腕ギリギリで止められたリーベの長剣。
視界の端で、エーレは緩やかに首を傾げたのがわかった。
「モラン山脈……それしかしらない」
モラン山脈。それは帝国と聖国の間にある山脈だった。
男は情報を吐いたのだ。やっとこの拷問も終わる。
肩の力を抜いて、もう片方の目も開けると、前のエーレがゆっくりと立ち上がり、男を見下ろした。
「モラン山脈。そのどこにいる?」
暗殺ギルド員が、果たして頭の居場所を知っているものなのだろうか?
僕はつばを飲み込む。
「知らない! 教えられていないんだ!」
情報を吐いたことによって、まるで今まで抑えていた緊張と恐怖が溢れ出たように、男は狼狽を露わにしている。
エーレが、リーベを一瞥した。
「そうか、それが全部ということなら……切り落とすしかないな」
柔らかい口調から一変、普段の口調に戻ったエーレの声色は暗かった。
リーベが再び、剣を振り上げようとした時――
「‘’モランの懐‘’……! 本当にこれで全部だ!」
必死に訴える男の言葉に、エーレは眉を寄せた。
「モランの懐? 正確な位置は?」
モランの懐なんて場所は聞いたことがない。
「そう呼んでいることしか……霧のかかる谷……俺たちはそこまでしかいけない!
そこから先は、マスターの信用している側近しか知らされていない!」
叫びに似た男の声が、部屋に響く間の短い沈黙。
リーベは目を伏せて、剣を鞘に納めた。
同時に、エーレも肩の力を抜くように、息をつく。
「そうか、よく話してくれたな。もういい」
僕の少し前で、シュトルツが男の縄を解きだした。
そしてリーベが約束通り、光魔法で男の傷を治癒する。
それが終わると、リーベはシュトルツの隣へやってきた。
暗殺ギルドの男は拷問から解放されたことへの安心からか、はたまた裏切ったことへの罪悪感からか、放心したように、脱力している。
エーレがちらりと、こちら側――シュトルツ、もしくはリーベを見た気配があった。僕はその視線に妙な違和感を覚えて、そちらを見た。
その時、目の前で信じられないことが起こった。
シュトルツがーーいつの間にか、リーベから受け取っていた長剣を、振り返りざま、横に薙いだのだ。
空気が裂けるような音がした。
次の瞬間、何かが宙を舞っていて……
それを目で追っていた。
時間が引き延ばされたように、ゆっくりと回転しながら、何かが落ちていくのが見えた。
何を見ているのかわからない――そんな感覚のまま、頬に生温い飛沫がかかる。
どさり、と何かが床に落ちた音。
その音で、ようやく我に返った。
「え……」
それでも、目を離すことができなかった。
床に転がった"それ"を見て、ようやく理解が追いついた。
あれはーー男の首だった。
その瞬間、体の奥底から、言い知れない何かが湧き上がってきた。
それが胸と胃に集まって、上に込みあがってくる。
気が付くと、僕はその場で吐いてしまっていた。
まともに何も食べていないから、床に吐き出されるのは胃液だけだった。
そのまま膝と手をつき、何度も吐き出す。
眼前の鮮血を見るたび、吐き気が込み上げて止まらなかった。
「ちょ、ルシウス大丈夫?」
シュトルツの声がして、背をさすられた。
けれど今、その優しさを受け取ることは出来なかった。
「……じゃない、ですか……」
彼らは3つの選択を与えて、男は3つ目の選択肢を選んだ。なのに……
口を手で拭って、振り返った。
「約束が違うじゃないですか! 情報を吐いたら解放するって……!」
近くの男の死体が視界に入りそうになって、思わず目を背ける。
「あ~」シュトルツがバツ悪そうに、頬をかく。
その頬は、血で赤く染まっていた。
「俺たちは、‘’逃げる‘’という選択肢は与えたけど、‘’逃がす‘’とは言ってないよ」
「っ……そんなの……!」
詭弁だ。
最初からこの男を生かしておくつもりなんて、これっぽっちもなかったのだ。
シュトルツから剣を受け取ったリーベが、それを鞘に収める音がした。
「割り切れ、ルシウス。
この男を逃がした後に、処罰を覚悟で、今のことを伝えられたらどうする?
暗殺ギルドのマスターは、今の拠点をすぐに放棄するだろう」
冷静で、冷酷な判断。その通りかもしれない。
男を逃がすことは、デメリットしかない。
僕はゆっくり立ち上がって、エーレを見た。
視界に、男の死体が嫌でも目に入った。
エーレは顎で扉を示す。彼の顔や首筋、服にも、男の血で汚れていた。
「言いたいことがあるならなんでも聞いてやる。とりあえず出ろ」
僕は目を瞑って、首を逸らし、死体から目を背けた。
隣で、シュトルツが肩を優しく押してきた。
人を傷つけ、殺すこと――それは彼らの日常に溶け込んでいるのだ。
彼らが、その事実に動揺を示すことはない。
僕は、血まみれになった自分の両手を見ていた。
――俺は必要なら、いくらだって残酷になれる――
もう、彼らは何も感じることはないんだろうか?
僕は促されるままに部屋の外へと出た。




