選んだ"名前"
首筋に、ひんやりとした感触がする。
それを見たエーレが、僅かに眉を跳ねさせたのが見えた。
「来るな! その場から、一歩も動くな!」
アルフォンスが、耳元で叫んだ。
これほど取り乱すアルフォンスは初めて見た――
そう思えるくらいには、僕は冷静だった。
それでもエーレは一歩を踏み出し、同時に刃が僕の僅かに、首を切り裂く感覚があった。
「お前は……今、誰に剣を向けてるのか、わかってるのか?」
静か――それでいて、唸るような声。
「来るな。私は殿下を連れて帰らねばならない! お前のような邪悪なものに、殿下を差し出すわけにはいかない!」
次を踏み出そうとしていた、エーレの足が止まった。
「おい」
彼は、真っすぐ僕を見た。
「――お前が決めろ」
凛とした声色。僕はその続きの言葉を知っていた。
「このまま、’’ユリウス’’として城に帰って生きることを選ぶなら、俺はここで身を引く。あとは好きにしろ。
もしお前が、’’ルシウス’’として俺たちと行くことを選ぶなら、俺は全力でお前を守ってやる」
何故だろう――僕は思わず、笑いそうになってしまった。
続けられたエーレの言葉。僕はきっとこの言葉を待っていたんだ。
「ユリウスか? ルシウスか? 今、俺の前にいるお前は、どっちだ」
真っすぐ見つめられた深淵の底のような瞳が、強く光る。
「――僕は、ルシウスだ!」
お腹の底から声を張り上げる。その声が部屋に響いた。あれだけ冷え切っていた頭は、いつしか熱を帯びていた。
「そうか」
エーレが小さく笑った。ほぼ同時だった――目の前に紫電が走ったのは。
気が付くと、アルフォンスは右側の壁に蹴り飛ばされていて、背後にはエーレが立っていた。
「覚えとけ、ルシウス。雷の魔法ってのは、こういう使い方もある」
いつものエーレの声だ。
隣にきた彼は僕の枷に目を落とすと、忌々しそうに顔を歪めながら、枷の上に手を翳した。
すると、枷は灰すら残さず、跡形もなく消えていった。
途端、体が一気に軽くなる。
エーレはそれを見届けると、壁の前に投げ出され、立ち上がれないままのアルフォンスに、静かに歩み寄る。
その背は、抑えきれない怒りを漂わせていた。
「お前は、自らの主に剣を向けた。許されないことだ」
静かな、静かで冷え切った怒りとほんの少しの諦めを漂わせた声に聞こえた。
エーレは片手剣をアルフォンスの額に突き付ける。
「代償はその命を持って償え」
その剣が振り上げられた――
考えるよりも先に、体が動いていた。
「待って! エーレ!」
僕はその腕を強く掴む。
「アルフォンスは皇帝に洗脳されてるんだ。それに家族が人質に……」
まくしたてるように説明したけど、エーレは目だけで僕を一瞥しただけだった。
制止の甲斐もなく、エーレはそのまま剣を振り下ろすのを止められない。
しかし、その剣がアルフォンスを切り裂くことはなく、代わりに氷の砕けるような音が響いた。
「お前はそういうやつだったな。
アルフォンス・オズヴァルド・デュラン。お前の主に感謝することだ。
二度目はない」
「ありがとう、エーレ」
そう告げると、振り返ったエーレは眉を寄せて、舌打ちをした。
「一時的に支配魔法を切り離した。長くは持たん、あとはお前が中和しろ」
「中和って……」
その時、前から「ユリウス様」と呼びアルフォンスの声がした。
ハッとして彼を見ると、アルフォンスは悲痛な表情で僕を見上げていた。
「アルフォンス!」
僕は咄嗟に、彼に駆け寄る。
「ユリウス様。私は……」
彼は言葉をなくしたように、顔を伏せ、
「私は、貴方の騎士でありながら、貴方に剣を向けました。
どうか私を裁いてください」
と、持っている剣を僕に差し出してきた。
「いいんだ。全部、支配魔法のせいなんだ。だから……」
「でも」
僕はその剣を上から抑えて、彼を宥める。
「おい、茶番はそこまでにしておけ。さっさとここから離れるぞ」
いつの間にか、剣を鞘に納めたエーレがこちらを見下ろしていた。
そうして、ゆっくりと歩み寄ってくると、その口から今では少しわかるようになった言葉が、紡がれ始める。
彼が歌うように数言呟くと、どこからともなく風が、ふわりと舞い上がった。
それは、みるみるうちにタンポポの綿毛のように形を変えると、僕たち3人を包みこんだ。
視界が真っ白に覆われる。
僅かな浮遊感を感じたあと――数秒後、開けた視界の先には洞窟があった。




