静かな引き金
宿に戻る道にあった書店で「アリレオ・シア」の新刊を発見した。
僕はそれを、自分のお金で買って、宿に戻ることにした。
街道を真っすぐいけば、宿の看板が見えてくる――そういうところで「殿下?」と聞き覚えのある声が、背からした。
よく知っている声だ。毎日のように、聞いていた声。
思わず足を止めかけて、どうにかそれを堪えた。
振り返ってはいけない――咄嗟に、そう思った。
ここで振り返ってしまうと、足を止めてしまうと、僕が’’ユリウス’’であると、バレてしまう。
後ろの彼は、僕を知っている。だから、隠蔽の効果は発動されていない。
フードを被っておくべきだった。そう後悔した。
そのまま歩調を変えずに、前へ進んだ。走り出してしまいたかった。
後ろの彼が、人違いであると諦めてくれるのを願った。しかし――
「殿下!」
いつの間にか、声がすぐ後ろからした。
僕は反射的に走り出す。けれど、その手を彼が掴んだ。
思わず振り向くと、そこには――やはりよく知る顔。
エーレと、さほど変わらない年齢。リーベと同じくらいの背丈。
精悍な顔つき。赤茶色の短い髪と透き通る茶色の瞳が揺れていた。
帝国騎士の制服ではないけれど、それでも一見して、騎士とわかる服装。
不安と焦燥と、ほんのすこしの安心。
そんな感情がない交ぜになって、一気に湧き上がってくる。
「人違いです!」
咄嗟にその手を振り払おうとしたが、彼の力は強くて、振りほどけない。
彼は眉根を寄せて沈黙した後、静かにその場に跪いた。
「殿下」
周りを行き交う通行人の視線が、一度に集まったのを感じた。
「ちょ、やめてください! 立ってください!」
誤魔化すどころではない。
いくら隠蔽の魔鉱石をつけていたとしても、騎士に跪かれる人なんて、目を引くに決まっている。
しかし、今なら逃げ出せる。そのまま宿に向かってしまえば……
足元で跪く、僕の専属護衛騎士隊長――アルフォンスを見て、それは出来なかった。
城から抜け出す時に、手助けしてくれたのは彼なのだ。
どうして今頃、彼とこんなところで……
気が付くと、僕はアルフォンスに手を差し出していた。
「立ってください。周りの視線が痛いんです」
アルフォンスは少しだけ顔をあげて、僕を見つめてきた。
「早く」
催促すると、彼は僕の手を掴まずに立ち上がった。
「僕に用事があるなら、場所を変えてください」
「申し訳ありません。取り乱しました」
アルフォンスはそう言うと、静かに僕の後をついてきた。
宿の近く――その一つ奥に入った路地で、僕たちは話すことにした。
「ご無沙汰しております、殿下」
向き合うとすぐに彼は、胸に拳を当てて、騎士としての忠誠の礼をする。
顔を見て、確信をしてしまった彼を誤魔化すことは出来ない。
「どうして、こんなところにいるんですか、アルフォンス」
「殿下をお迎えに参りました」
そうではないかと思っていた。けれど、一番聞きたくなかった言葉だった。
「僕は帰らないよ。あの城に、僕の居場所はない。僕はもう、父上の傀儡に戻るつもりはない」
きっぱり言った。アルフォンスに、ここまではっきり断言したのは初めてかもしれない。
その言葉に、アルフォンスは目を見開いた。
そして、小さく微笑んだ。
「皇太子としての威厳が出てきましたね、殿下」
「そうじゃない。僕は僕だ。皇太子には戻らないと言ってるんだ」
僕は首を振りながら否定する。
「貴方に言ったはずでしょう。僕の兄弟たちのことを。
僕は……もうあんなところに帰りたくない。
まだ馴染めないけど、大切にしたいと思える居場所を、見つけられそうなんだ。
だから――」
「殿下と共に行動している、3人の男ですね」
僕の言葉を遮って、アルフォンスの淡々とした声が、路地に響いた。
思わず、彼を凝視してしまう。
皇帝は――父上は、すでに知っていたのだ。
僕たちの行先とそのルート、共にいる彼らのことまで。
エーレの言葉が、頭に過った。
城塞都市での動きが慌ただしいという報告だ。
まさか……
その答え合わせをするように、アルフォンスは続けた。
「レギオンに在籍する、クラン名――カロンの3名は、ユリウス殿下の拉致容疑で捕縛命令が出ています」
「彼らに手を出さないで! 僕が自分からついて行ったんだ!」
路地に、僕の悲鳴にも似た叫びがこだました。
拉致容疑だって? 皇帝のやりそうなことだ。
今まで動きがなかったと思えば、この機会を狙っていたんだ。
隠蔽で姿を隠しているというのに、どうしてわかったのか。
僕の姿を知る人が、どこかから監視していたのか?
それとも、どこかに内通者が……
「落ち着いてください、殿下。だからこそ、私がお迎えに上がったのです」
「どういうこと……?」
「殿下が私と共に、帰城すること。それで、彼らの罪は問わないとの言伝です。
加えて、陛下は今後、殿下の意思を最大限尊重すると仰っておいでです。
監禁された……殿下のご兄妹についても、殿下の意思を汲み取る準備は、出来ているとのことです」
「そんなの……」
信じられるわけがない。
「皇帝陛下は、殿下のことをとてもご心配なさっています。どうか私と共にご帰還ください」
まるで、駄々をこねる子供を諭すような優しい論調だった。
目の前に差し出された大きな手を見て、僕はそれを力任せに払った。
「どうして今更、そんなこと言うの?
そんなこと、僕が信じると思ってて言ってるの!?
今までのことも、あんな光景を見ても……まだ僕が、素直に従うような馬鹿だって言いたいのか!」
隠された塔の地下で、監禁された兄妹たちの姿が、目に浮かんだ。
反抗した兄弟を呆気なく殺した皇帝の声も、飛び散った血しぶきも――
「僕は帰らない! そう伝えてくれ!」
全身から声を出して、喚いた。
路地に反響した自分の声が、耳の奥から入り込んで頭まで震わせた気がした。
帰りたくない。帰ってやるものか。
あんな地獄に帰るなら、エーレたちと一緒に、この危機から逃げた方が幾分マシだ。
帰って、すぐに知らせないと……
「殿下。陛下は狙った者は、決して生かしておく方ではありません。
大切な人たちならば、殿下が身を引かねばなりません」
アルフォンスは、引き下がらなかった。
ただただ、冷静に宥めるように言った。
その時、路地の向こう側から、聞きなれた声がした。
「お子ちゃまの声しなかった?」
シュトルツだ。
「今夜の日付が変わる頃――アルテミスの時、第一刻(0時)に、この場所でお待ちしております。
慎重に考えてみてください。もう一度、その時に話し合いましょう」
アルフォンスは路地の向こうを気にしながら、小さな紙を渡してきた。
「私のためにもどうか、賢明なご判断をお願いします」
最後のそう言った彼の声は、震えているように聞こえた。
「それってどういう……」
「やっぱりお子ちゃまじゃん。こんなところで何してんの? 迷子?」
シュトルツの姿が見えた時――すぐ隣にいたアルフォンスは、いなくなっていた。
「いや、あの……宿がわかんなくなっちゃって……」
何故か僕は、今あったことをシュトルツに言えなかった。
全て言ってしまえば、彼らは対処してくれるだろう。僕を守ってくれるに違いない。
そうわかっているのに、喉まで這い上がってきているのに、それを声にすることが出来なかった。




