存在しない運命を
その時、湖の底からよく知る生命力を感じた。
――よく知っているなんてものじゃない。これは僕の生命力だ。
『君がユリウスにもルシウスにもなれないなら。君の旅はここで終わりにしてよ。
そうじゃないと、エーレたちの足枷になる。
君は……僕は、運命の轍を打つ楔にならなきゃいけないんだ。
僕は、ユリウスとして――皇太子として生まれたんだから、彼らに応えなきゃいけない』
どこからか、そんな声がした。
僕と全く、同じ声。
――君は誰なの? 何を言ってるの?
『その覚悟がないなら、僕が君を終わらせる』
静かに沈んでいた体が更に強く引きずられた気がした。
――嫌だ!
唐突に体の底から湧き出たのは、恐怖だった。
心で叫び、全身でもがくが、何かに掴まれた手は振りほどけない。
息が続かない――
肺に溜め込んでいた酸素が、口から漏れ出ていく。
苦しい……
嫌だ、死にたくない。でも、もう…
最後の一息が大きく漏れ、死を覚悟したときだった。
「ルシウス!」
遠のく意識の中、水中に浮いた手を掴まれたのがわかった。
「ルシウス! もういい、もういいんだ!」
――これは、リーベの声?
その声が聞こえた瞬間、僕を湖の底へ引っ張っていた力が急激に弱まっていった。
『貴方はいつも、僕に甘いんですよ。リーベ』
悲しそうな、それでいて優しい声だった。
それを最後に、もう一人の僕の生命力が感じなくなった。
引き上げられた体が呼吸を求めて、大きく咽せかえってしまう。
数えきれないほど咽た先で、ようやく開いた視界に暗闇で光る銀髪が映った。
リーベの脇に抱えられたそこは、湖の上だった。
一体、どこまで引きずられていたのか……
呼吸が少し整ってリーベを見上げると、彼は湖の上に立っていた。
「リーベ……」
「大丈夫か?」
表情は、暗くて見えない。
「リーベ、僕……今のは……」
「一旦、休もう。そのままでは体調を崩す」
彼は僕を抱えたまま、湖の中央の方へと歩き出した。
水の魔法だろう――湖の上を歩く彼の足取りは、地面の上を歩いているようにしっかりしていた。
ふと、視線を湖に向ける。
ぼんやりと僕が映り込んでいる。しかしそこにはもう、僕しか映していない。
あれは誰だったんだろう。もう一人の僕……
虚ろな思考を持て余したまま、視野を少し開いた時――
息が詰まった。
リーベが……いない?
彼の姿は湖のどこにも映っていなかった。
ただそこには夜空が映し出されている。
僕の髪から水滴が落ちて、彼を映さない湖に波紋を描いた。
背筋に怖気が走った。まるで幽霊を見た時のような――
驚いて顔をあげるが、そこにはしっかりリーベがいる。
当たり前だ。彼が僕を抱えているのだから。
「リーベ……湖が……」
そんな僕の動揺を露わにした声に、彼は僅かに首を下に傾けた。
すると「ああ」と平然と声を漏らしたあと、小さく笑った。
彼が、嘲るような笑いを見せたのは初めてだった。それが更に、僕を動揺させる。
「未来に存在する余地すらないということか」
「そ、れはどういう……」
その時、彼の足が小島に乗り上げた。
リーベは答えないまま木の下へといくと、火と風の魔法を使って僕を乾かしてくれた。
「まだ夜は冷える」
更に彼は自分のコートを僕の肩にかけてくれた。
二人並んで、木の根元に座る。
そこから見える湖は絶景のはずなのに、僕はそれが怖くて仕方なかった。
「リーベ、僕……
未来じゃなくて、湖にもう一人の僕が映ってて……」
うまく説明できない。
あれは僕なのだ。それに間違いはない。
けれど、未来を映すと言われている湖に、今の僕と同じ僕が映るなんて。
あれは、少し未来の僕なのか?
でも、短く切られた髪の長さも、来ている服も、リーベがくれた魔鉱石のペンダントも。
全て、そっくりそのまま僕だった。
まるで湖越しに、こことは全く同じの、別の世界があるような――
リーベはしばらく沈黙して、空を見上げていた。
彼は「彼らに」と小さく言った。
「神や精霊に、時間の概念はない。
彼らは、数多ある未来の分岐点のどこにでも存在している。
過去も現在も未来も。彼らにとっては、今ここに在るものなんだ」
「それってどういう……」
リーベは頭を下げて、湖を見た。
「逸話があながち嘘ではないと言ったのは、そういうことだ。
私たちにとっての未来も、彼らにとっては、いくつも存在している今の一つでしかない。
磁場を形成しているこの湖で、彼らは別の分岐点を見ている自らと、全てを共有することが出来る。
彼らはここにいるが、どこにでも同時に存在しているんだ。
つまりここで見る未来は、湖を見た人が辿る、未来の可能性により近いものでしかない」
「つまり精霊たちは、あらゆる可能性の未来に存在してて、それを共有してて……
じゃあ、僕たちがいる世界とは、別の世界もあるってことですか?
運命の轍が決まっているわけではなくて、分岐してるってことですか?」
――運命の轍を打つ楔とならなければいけない――
湖の中にいた僕の言葉が、頭によぎった。
「信じられないかもしれないが、そういうことだ。しかし――」
リーベはそこで、沈黙を挟んだ。
言葉に迷っているというよりかは、話すべきかどうかを迷っているような間だった。
「運命の轍には、法則のようなものがある。
ある程度は決まっているんだ。
私たちは、その法則に楔を打てる存在を探している」
彼はそう言って、僕を見た。
彼らは、もしかして――
「存在しない運命を引き寄せようとしてるってことですか?」
「そういう解釈で合っている」
法則を打ち破り、存在するはずのない、運命の轍を刻もうとしている。
湖にリーベが映らなかった。
あらゆる未来の可能性にいる精霊たちが、どんな未来でもリーベを見つけることが出来なかった。
ふと、突飛な憶測が頭に過った。
「もしかしてリーベたちも、色んな未来の可能性を見れたりするんですか?」
それなら、今までの全ての疑問が払拭出来た。
僕のこと全てを見透かしていたような言動も、湾港都市で群れの嵐が起こるのを、誰よりも早く予測したのも――
他にあった些細なこともその全てが、綺麗に解決できる。
リーベは小さく微笑むようにして、首を緩やかに振った。
「もしそうなら、私たちはここまで苦労していない」
「そう……ですよね」
そんな、おとぎ話のようなものはない。
あらゆる可能性の世界……先ほど湖に映った僕は、その違う分岐点にいる僕だったのか?
「さっき僕が見た、もう一人の僕は……」
静まりかえる湖を見た。
世界の深淵を映し出すような、得体のしれない恐怖。
けれどそれは、ただの湖だった。
「ルシウス」
静寂の中で、リーベの深みのある声が凛を響く。
「貴方は貴方だ。たとえ他の世界に貴方と同じ人がいたとしても、それは貴方ではない」
「同じ存在なのに?」
僕の疑問を置き去りにして、リーベは立ち上がった。
「明日一日は、休暇のようなものだ。
今日はもう眠って、明日新しい服でも買いに行くといい」
そうだった。
エーレがミレイユと話したあと、その報告を思い出した。
レナータが体調を崩したから、もう一日この街に留まることになったらしい。
加えて、この街の先の城塞都市で動きが慌ただしいという報告があったため、城塞都市は迂回するということにもなっている。
明日一日は、ゆっくり休んでおかないといけない。
彼の提案を受けて、そう自分に言い聞かせることにした。
「そうですね、そろそろ夏服を買わないと」
僕も立ち上がって、湖を見渡した。
彼の説明をうまく理解できたわけではない。
湖の中にいた僕の存在も、彼が言っていたことも、全て理解はできない。
けれどリーベもう、そのことについて話すつもりはないように見えた。
ただ――
ユリウスにもルシウスにもなれないなら。
その覚悟がないなら。
もう一人の僕が向けてきた――その言葉だけが、頭の中で反響し続けていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
お気軽にブクマ、感想いただけたら嬉しいです!
この回で説明役担当リーベが話してましたが、この話は「精霊」がかなり重要な役割をしています!
ややこしいところもあると思いますが、お付き合いいただけたら嬉しいです!
2章終盤はほんとに、ほんとに見てもらいたいので、その時はXで通知します!
よろしくお願いします!




