水面の先に
しばらく、天井を見つめていた。
眠るのを諦めて一旦、外の空気でも吸おうと、宿の外に出ることにした。
上着を羽織って、リーベからもらったネックレスが首元にあることを確かめる。
日付が変わってしばらく経つのに、フィレンツィアの街は明るい。
観光名所なのもあって、夜に開いている店も多いようだ。
ふと、空を見上げた。
星々が輝いているのに、月が見当たらなかった。
四月十一の日。
そうか、今日は新月だ。
――新月の夜に湖を見つめるものは、未来の自分の姿を見ることが出来る――
ヴェリタス湖の逸話が、頭に過った。
未来の自分か……
全く想像できない。
未来の僕は、どこで何をしているのだろう。
そもそも、僕に未来なんてあるのだろうか?
明日のことすら想像できないのに、遠い未来のことなんて、これっぽっちも思い浮かべることが出来なかった。
春先だけれど、まだ夜風は冷たい。
逸話は逸話でしかない。未来を見ることなんて、できるはずがないに決まってる。
そう思って、部屋に戻ろうとした時だった。
「――お兄さん!」
この時間に聞くには違和感のある声に驚いて、その方向へ振り向くと、そこには僕より幼い女の子がこちらへ走ってきていた。
幼く貧相な体を、露出度の高い服で飾っている。
僕は困惑して、思わず一歩後ろへ下がった。
「ねぇ、眠れないんでしょ? なら、私を買ってくれない?」
声色も表情も幼いのに、どこか大人びた口調と雰囲気を醸し出していた。
「え、いや……」
たじろいだ僕を見て、少女は「ふふふ」と笑う。
「もしかして、そういうこと慣れてない?
私、今日売上悪くて困ってるんだよね。助けると思って、どうかな?」
「売上って……」
すると、少女は通りの角を指さした。
「そこを曲がった、奥にある店なんだけど」
「そうじゃなくて……まだそんな小さいのに、なんで身売りなんか」
すると少女は、ムスッとふてくされたような表情を作って見せた。
「お兄さん、そういう真面目なこといっちゃう系の人なんだー
人には、いろいろな事情ってものがあるでしょ?
だから、そういうのは聞かないのがマナーなの。
で、どう? 安くしとくから」
ぐいぐいと迫ってくる少女に、僕は小さな恐怖を感じて、気づけばポケットから取り出した小さな皮袋を押し付けていた。
そして逃げるように、背を向けて走った。
駆けながら、何に逃げているのかわからななって、途中で足を止めた。
部屋に戻ってしまえばよかったと後悔もした。
まだ十代半ばの女の子が、こんな深夜に身売りをしているなんて……
どの街も貧富の差が激しい。その現実を見ることから、僕は逃げようとしていたのかもしれない。
気が付けば、足は自然とヴェリタス湖の方へにあった。
湖に繋がる街道は静まり返っていて、人影はない。
僕はそこで足を緩めて、もう一度、空を仰いでみた。
やはり月は見えない。
未来を見て、その未来を変えるために努力する。
もし本当に未来が見えるなら――僕が今、何をすべきなのかもわかるかもしれない。
そう思って、前に進むことにした。
新月の夜だというのに、時間が遅すぎるせいか、そこには人一人いなかった。
湖に沿うように設置されている街灯だけが、唯一の灯りだった。
新月の夜に自分の未来を見ることで、心の中で消し去れなかった過去の後悔を知り、これからの未来をどのように進むべきかを見つけるための試練。
本当にそんなものが、存在するなら。
リーベの言う通り、精霊たちの力によって、それが引き起こされるとするなら――
未来の僕は一体、どんな後悔を背負って、どう生きているのだろうか。
それは今、僕の胸の中にくすぶる言葉にできない、何かを明らかにしてくれるだろうか。
そして、僕がこれからどうやって進むべきなのか、答えを教えてくれるだろうか。
カロンのメンバーとして、エーレたちの仲間としてついていくと決めた、あの日。
エーレの煽りに、乗せられた自覚はあった。
それでも、自分でついていくと決めたことだった。
それでも……
本当にこれでよかったのか、いまだにわからない。
僕に、何が出来るのかも見えてはこない。
エーレの言葉を待つばかりだった。
彼らが全てを話してくれた時には、本当の意味で、覚悟を決めることができるのだろうか。
目の前に広がる、ヴェリタス湖。
それは、昼とは違った顔を見せてくれた。
神聖とも言える、静寂に包まれた湖は、まるでどこか遠くの何かに繋がっているようだ。
風のない今日、湖の水面を揺らすものはない。
小島に聳える一本の木が、湖の主のように、静かにこちらを見据えている。
荘厳――大自然に感じる、あの畏怖のような感覚……
僕が取るにならない、ちっぽけな存在であると感じさせられるほどの壮大な佇まいで、鎮座するヴェリタス湖。
世界に、たった一人で取り残されたような、寂寞感が過った。
僕は湖に近寄り、膝をついて、そっと湖を覗き込んでみる。
街灯に照らされた湖には、ぼんやりと僕が映った。
「なんだ、やっぱりただの作り話だよね」
多少がっかりしたけれど、同時に安堵も覚えた。
こんな深夜に、湖であり得ないものが映るのは、少し怖い。
僕はため息をついて立ち上がろうとした時――風もないのに、湖が大きく波紋を打ったのがわかった。
驚いて湖を見ると、僕が僕を見つめていた。
「……!」
未来の僕ではない――今の僕と、全く同じ背格好をしている。
けれど固まった僕とは対照的に、湖に映る僕はこちらへ向けて、何か話しかけているようだった。
それだけではない。
彼の凛々しい顔つきも、強い眼差しも――今の僕にはないものだった。
僕の探し求めていた何かを、湖の先の僕は持っている。
今の僕とは違う、別の僕。
そんな確信があった。
僕はもう一度膝をついて、その彼をジッと見つめる。
湖の僕は何かを言っているのに、それは音にはならない。
口の動きだけでは、何を言っているのか判然としない。
そんな彼が言い終わり、立ち去ろうと立ち上がった。
「……待って!」
思わず手を伸ばした――その瞬間、伸ばした手が何かに引っ張られて、体が傾く。
どこか遠くで水が弾ける音がして、気が付いた時には湖に落ちていた。
――資格のないものが未来を垣間見ようとすると、精霊たちが怒って、引きずり込む――
そうか……僕には、その資格がなかったんだ……
僕を掴む謎の手は、そのまま湖の底へと引きずり込もうとしている。
真っ暗だ。何も見えない。
死にたくない。でも、何故か抗えない。
湖に映った僕は、僕に何を言っていたんだろう。
微かな思考の中で、僕は目を閉じた。




