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調和の王〜影から継がれたもの〜  作者: 俐月
2章

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水面の先に

 



 しばらく、天井を見つめていた。

 眠るのを諦めて一旦、外の空気でも吸おうと、宿の外に出ることにした。



 上着を羽織って、リーベからもらったネックレスが首元にあることを確かめる。


 日付が変わってしばらく経つのに、フィレンツィアの街は明るい。

 観光名所なのもあって、夜に開いている店も多いようだ。




 ふと、空を見上げた。

 星々が輝いているのに、月が見当たらなかった。


 四月(アプロニア)十一の日。



 そうか、今日は新月だ。



 ――新月の夜に湖を見つめるものは、未来の自分の姿を見ることが出来る――



 ヴェリタス湖の逸話が、頭に過った。



 未来の自分か……

 全く想像できない。



 未来の僕は、どこで何をしているのだろう。

 そもそも、僕に未来なんてあるのだろうか?


 明日のことすら想像できないのに、遠い未来のことなんて、これっぽっちも思い浮かべることが出来なかった。



 春先だけれど、まだ夜風は冷たい。


 逸話は逸話でしかない。未来を見ることなんて、できるはずがないに決まってる。

 そう思って、部屋に戻ろうとした時だった。



「――お兄さん!」



 この時間に聞くには違和感のある声に驚いて、その方向へ振り向くと、そこには僕より幼い女の子がこちらへ走ってきていた。


 幼く貧相な体を、露出度の高い服で飾っている。


 僕は困惑して、思わず一歩後ろへ下がった。



「ねぇ、眠れないんでしょ? なら、私を買ってくれない?」



 声色も表情も幼いのに、どこか大人びた口調と雰囲気を醸し出していた。



「え、いや……」



 たじろいだ僕を見て、少女は「ふふふ」と笑う。



「もしかして、そういうこと慣れてない?

 私、今日売上悪くて困ってるんだよね。助けると思って、どうかな?」


「売上って……」



 すると、少女は通りの角を指さした。



「そこを曲がった、奥にある店なんだけど」


「そうじゃなくて……まだそんな小さいのに、なんで身売りなんか」



 すると少女は、ムスッとふてくされたような表情を作って見せた。



「お兄さん、そういう真面目なこといっちゃう系の人なんだー

 人には、いろいろな事情ってものがあるでしょ?

 だから、そういうのは聞かないのがマナーなの。

 で、どう? 安くしとくから」



 ぐいぐいと迫ってくる少女に、僕は小さな恐怖を感じて、気づけばポケットから取り出した小さな皮袋を押し付けていた。

 そして逃げるように、背を向けて走った。



 駆けながら、何に逃げているのかわからななって、途中で足を止めた。

 部屋に戻ってしまえばよかったと後悔もした。



 まだ十代半ばの女の子が、こんな深夜に身売りをしているなんて……


 どの街も貧富の差が激しい。その現実を見ることから、僕は逃げようとしていたのかもしれない。



 気が付けば、足は自然とヴェリタス湖の方へにあった。


 湖に繋がる街道は静まり返っていて、人影はない。

 僕はそこで足を緩めて、もう一度、空を仰いでみた。


 やはり月は見えない。



 未来を見て、その未来を変えるために努力する。


 もし本当に未来が見えるなら――僕が今、何をすべきなのかもわかるかもしれない。


 そう思って、前に進むことにした。










 新月の夜だというのに、時間が遅すぎるせいか、そこには人一人いなかった。


 湖に沿うように設置されている街灯だけが、唯一の灯りだった。



 新月の夜に自分の未来を見ることで、心の中で消し去れなかった過去の後悔を知り、これからの未来をどのように進むべきかを見つけるための試練。



 本当にそんなものが、存在するなら。

 リーベの言う通り、精霊たちの力によって、それが引き起こされるとするなら――



 未来の僕は一体、どんな後悔を背負って、どう生きているのだろうか。


 それは今、僕の胸の中にくすぶる言葉にできない、何かを明らかにしてくれるだろうか。

 そして、僕がこれからどうやって進むべきなのか、答えを教えてくれるだろうか。



 カロンのメンバーとして、エーレたちの仲間としてついていくと決めた、あの日。


 エーレの煽りに、乗せられた自覚はあった。

 それでも、自分でついていくと決めたことだった。



 それでも……

 本当にこれでよかったのか、いまだにわからない。


 僕に、何が出来るのかも見えてはこない。



 エーレの言葉を待つばかりだった。

 彼らが全てを話してくれた時には、本当の意味で、覚悟を決めることができるのだろうか。




 目の前に広がる、ヴェリタス湖。

 それは、昼とは違った顔を見せてくれた。



 神聖とも言える、静寂に包まれた湖は、まるでどこか遠くの何かに繋がっているようだ。


 風のない今日、湖の水面を揺らすものはない。

 小島に聳える一本の木が、湖の主のように、静かにこちらを見据えている。



 荘厳――大自然に感じる、あの畏怖のような感覚……


 僕が取るにならない、ちっぽけな存在であると感じさせられるほどの壮大な佇まいで、鎮座するヴェリタス湖。



 世界に、たった一人で取り残されたような、寂寞感が過った。




 僕は湖に近寄り、膝をついて、そっと湖を覗き込んでみる。

 街灯に照らされた湖には、ぼんやりと僕が映った。



「なんだ、やっぱりただの作り話だよね」



 多少がっかりしたけれど、同時に安堵も覚えた。

 こんな深夜に、湖であり得ないものが映るのは、少し怖い。



 僕はため息をついて立ち上がろうとした時――風もないのに、湖が大きく波紋を打ったのがわかった。

 驚いて湖を見ると、僕が僕を見つめていた。



「……!」



 未来の僕ではない――今の僕と、全く同じ背格好をしている。

 けれど固まった僕とは対照的に、湖に映る僕はこちらへ向けて、何か話しかけているようだった。



 それだけではない。

 

 

 彼の凛々しい顔つきも、強い眼差しも――今の僕にはないものだった。



 僕の探し求めていた何かを、湖の先の僕は持っている。

 今の僕とは違う、別の僕。


 そんな確信があった。



 僕はもう一度膝をついて、その彼をジッと見つめる。


 湖の僕は何かを言っているのに、それは音にはならない。

 口の動きだけでは、何を言っているのか判然としない。



 そんな彼が言い終わり、立ち去ろうと立ち上がった。



「……待って!」



 思わず手を伸ばした――その瞬間、伸ばした手が何かに引っ張られて、体が傾く。

 どこか遠くで水が弾ける音がして、気が付いた時には湖に落ちていた。



 ――資格のないものが未来を垣間見ようとすると、精霊たちが怒って、引きずり込む――



 そうか……僕には、その資格がなかったんだ……


 僕を掴む謎の手は、そのまま湖の底へと引きずり込もうとしている。

 真っ暗だ。何も見えない。



 死にたくない。でも、何故か抗えない。

 湖に映った僕は、僕に何を言っていたんだろう。



 微かな思考の中で、僕は目を閉じた。






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