殺気が呼んだ暗い声
宿屋の地下のバーで、情報屋のトラヴィスと話したエーレとユリウス。
その翌日からです
翌日、陽が昇る前に、シュトルツに叩き起こされた。
今回、同室だったシュトルツは、湾港都市の時と同じように、僕が寝るまで部屋に戻ってこなかった。
ほとんど寝ていないはずの彼は、いつにも増して上機嫌だ。好みの女性でもいたのだろうか?
支度を済ませて、陽が昇る頃には、交易都市を出た。
次の湖上都市――フィレンツィアまで、荷馬車では約十日かかる。
中間地点で、中規模の鉱山都市があるらしく、それまでは村があれば村に泊まり、そうでなければ野営ということだった。
交易都市を出て、しばらくすると見渡す限りの草原に入った。
三月も終わりが見えてきて、日差しは暑くなってきている。
でも、草原を駆け抜けていく風が涼しくて、日向ぼっこをするには、丁度いい季節なのかもしれない。
「十日間も御者の真似事なんてしたくない」
そう言い出したシュトルツが、交易都市で御者を雇った。それはいい。僕だって、十日間も馬を繰れと言われたら、途中で投げ出す自信がある。
問題はそのシュトルツが、広くない幌の中で、仰向けに寝転がっていることだ。
ご機嫌は続いているようで、鼻歌まで漏れている。
僕はリーベにいつも通り、古代言語を教えてもらっているし、エーレもやっぱり読書の最中だ。
聞き覚えのない――お世辞にも上手いとは言えない鼻歌が、少し煩わしい。
「何かいいことでもあったんですか?」
集中力が切れてしまって聞いてみると、シュトルツはその言葉を待っていたように、勢いをつけて起き上がった。
「そう! 昨日の俺には、勝利の女神様がついてたんだよ!」
荷馬車の下で、車輪が悲鳴をあげたのが聞こえた。車体が傾き、ガタンと音を立てた。
奥にいる護衛対象さん人と、更に先にいる御者に申し訳なさが湧き上がる。
肝心の彼は、そんなこと全く気にしてない素振りで、隣においていた鞄を揺らす。
中から、ジャラジャラと小気味良い音がした。
勝利の女神ってまさか……
心なしか護衛対象――奥の三人から、冷ややかな視線が、シュトルツに注がれている気がした。
「ルシウス。絶対にああなってはいけない」
隣にいたリーベも同じような視線を彼に向ける。
「ほら、路銀が心許なかったから、俺が頑張って増やしてきただけじゃん?
褒められる覚えはあっても、そんな目で見られる覚えはないんだけど!?」
「よくエーレは許しましたよね」
「増やせたんだから、いいんじゃないか?」
これほど騒がしくしても、本から顔をあげないエーレが興味なさげに返答をした。
「ほーら、エーレさんもこう言ってる。謝って?」
エーレの許諾を得られたシュトルツに怖いものはない。
このままだと調子に乗る一方だと思った僕は、あえて苦言を呈してみようと思い至った。
「でもですね? 勝てたからいいものの、もし負けてたらその心許ない路銀すら失ってたんですよ?」
「仮定に意味はないって言わない? 勝てたんだからいいしゃん」
「仮定かもしれませんが、現実的な可能性の話です。
今回は運良く勝てたかもしれないけど、次はそうなるとは限りません。
それなら確実な方法で、稼ぐのが一番じゃないですか?」
「確実……」 シュトルツは、一瞬だけ考えるような素振りをした。
「悪いやつらから、金を巻き上げるとか?」
「貴方の思考は、本当に悪党のそれですよね」
昨日、彼が暗殺ギルドを蹂躙して、清々しそうにしていた顔が思い浮かんだ。
もう本当に、どちらが悪党なのかわからない。
「悪いやつを懲らしめるついでだから、別に悪党ではないでしょ」
呆気からんとした表情で小首を傾げる彼を見て、これ以上の問答に意味がないことを察した。
「それよりさぁ~、聞いてよ。昨日のカジノで大勝したのもあるけど、すんごい美人さんが声かけてくれてさぁ~」
シュトルツは声を大きくしながら、エーレの隣――幌のふちに背中を預けた。
無理やり端へと、追いやられるようになったエーレが視界に入る。同時に、本をパタリと閉じる音がした。
嫌な予感がして、目だけで視線を上げた。
そこには、眉間に皺を寄せたエーレが、目だけで隣のシュトルツを睨んでいた。
次いで、何かに耐えるように静かに目を閉じた。
あ、これはやばい。エーレが激怒する前の仕草だ。
その短い間にもシュトルツはカジノで出会った女性の話を続けている。
「シュトルツ」
「はぁい?」
エーレの静かな声に、シュトルツはご機嫌の声色で応える。
「てめぇの目は節穴らしいな? なら、そのお飾りは必要ないよな?」
無駄の動きは、一切ない――左隣の床に置いてあった長剣を音もなく持ち上げたのが、どうにか目に映る程度だった。
気づけばエーレが鞘から半ば抜いた剣を、じわりとシュトルツに向けていた。
その刃が陽のを浴びてギラつき、空気が一瞬、ひやりと張りつめる。
その段になって漸く、自分の言動がエーレの読書の邪魔をしたことに気づいたのか――シュトルツは口角を引きつらせた。彼の両手がそっとあがる。
水を打ったような沈黙の中、数瞬遅れて、奥から悲鳴が聞こえた。
僕だって、悲鳴をあげたかった。
エーレの機嫌を損ねると斬りかかられるなんて、悲鳴どころの話ではなかった。
けれど、体は硬直し、息が喉に詰まって、悲鳴にすらならない。
剣を向けられているのが僕ではないと知っていても、刃の冷たさが肌を掠めたような錯覚に陥った。
その間にも、鞘から剣身が徐々に姿を見せていく。
「――エーレ、シュトルツ」
静寂を割るように、今まで黙っていたリーベが二人を呼んだ。
こういうときの調整役はリーベだ。救われた気がして、助けを求めるようにそちらを見る。
でも、彼を見た瞬間――喉から、自然と悲鳴が漏れた。
深淵。金をばら撒いたような瞳は、まるで虚無の底からこちらを見上げているようだった。
’’静かな殺意’’とは、こういうことを言うのかもしれない。
彼の殺意に怖気が走って、目を背けられないどころか、ぴくりとも動けない。
数秒の沈黙が幌の中に漂う。
その中に、ガタゴトと馬車が揺れる音だけが響いた。
「エーレ、それを仕舞え。シュトルツ、静かにしろ」
静か、それでいて有無を言わせない声色。
逆らってはいけないと、本能が警鐘を鳴らす類のものだった。
「はい」
シュトルツは両手を挙げたまま、素直に頷く。
エーレはリーベを一瞥して、静かに剣を収めた。
場の騒がしさは収まったものの、慣れない殺意に触れた体が言うことを聞かない。
その時になって、後から追い付いてきた恐怖に息がうまくできなくなる。
徐々にリーベを見ている視界も、ぼやけて焦点が合わなくなっていった。
浴びせられる殺意――その恐怖が、頭の隅に追いやっていたはずの記憶を無理やり引きずり出してくるような感覚があった。
「おい」
遠くから、エーレの声がした。
「悪かったから、殺意を抑えろ。ルシウスが当てられてる」
「すまない。平気か?」
肩に小さな衝撃が走り、思わず体を大きくのけ反らせてしまった。
勢いよく投げ出された体が荷馬車の床を打ち、車輪の跳ねる音が響いた。
ぼんやりと視界に広がったのは、穏やかな平原だった。
――ああ、ここは城ではない。
それを理解した瞬間、肺に溜まっていた空気をようやく外に逃がせた。
「申し訳ない」
声を辿ってリーベを見ると、彼は目を伏せていた。
「いえ、僕の方こそ……」
自然と口からは、習慣になった謝罪に対する言葉が溢れた。それでも、頭を掻き乱す違和感は、消えきらない。
もう一度、幌の外に広がる草原を見た。
そうすることで、ここは城より安全なことを、自分に言い聞かせた。
少しずつ、頭がはっきりしていく。
「これくらい慣れてないと、この先やっていけねぇぞ」
「元はと言えば、貴方たちが悪いんですよ」
全く悪そびれることのないエーレの言葉で、ようやく意識が現実に、引き戻された気がした。
すると、張りつめていた恐怖が和らいだ隙間から、苛立ちがじわじわと顔を出した。
僕は気が付いた時には、シュトルツとエーレを睨みつけていた。




