地下に咲く秘密の花
王国の湾港都市――ヴェルティアを発って、荷馬車で六日目。
交易都市ラデスタに到着した。
荷馬車の馬を替えるためシュトルツは厩舎に行き、護衛対象が寄りたいところがあるとの申し出に、リーベが護衛として付き添うことになった。
残された僕とエーレは一足先に宿屋へと向かうことになり、迷う素振りもなく扉を潜ったのはどこにでもある宿だった。
受付で、すぐに四室を確保するとエーレが足を向けたのは部屋ではなく、何故か地下に続く階段。
反対方向へと行く彼の背を見て、くすんだ生成りのシーツが頭によぎった。
ああ、真っ白な肌触りの綿のシーツが恋しい。
そんな贅沢は言わないない。せめて……
部屋で僕を待っているだろう――ベッドへの郷愁が湧き上がる。
けれど、有無を言わせない「ついてこい」との言葉に、渋々ついていくしかなかった。
階段の先。ドアベルが頭上でした後、すぐに鼻をついたのはアルコールの匂いだった。
中は少し薄暗い。橙の蛍光灯に反射した光が視界の端で煌めいた。
カウンターの奥の棚に綺麗に並べられている瓶の数々。酒瓶だ。
どうやら、地下はバーが併設されているらしい。
陽は暮れようとしていたけど、まだバーでお酒を飲むには時間が早いのか――客が数えるくらいしか入っていない。
「ヴェラウイスキー二つ」
エーレは迷うことなく、カウンターの椅子に腰かけると、目の前の男に注文した。
注文を受けた男は「少々お待ちください」との声と共にちらりとエーレを一瞥だけして、席を外した。
ウイスキー?
そんなもの僕は飲めない。そもそも、エーレがお酒を飲んでいるところなんて、見たことないのに……
すぐ前の漆黒の髪は、振り向こうとすらしない。
仕方なく、僕もエーレの隣に座ることにした。
しばらくして戻ってきた男性は、赤く揺れるワイングラスを二つ、僕たちの前に置いた。
ウイスキーと注文したはずなのに、出てきたのはワイン。
注文とは違うお酒に、エーレが文句ひとつ言うことなく一口だけ口に含んだのを見て、僕は思わず二人の間に視線を行き来させる。
バーテンダーの男性はグラスをクロスで拭きながら、目だけでエーレの様子を見ていた。
僕の聞き間違えだったのだろうか――
前にあるワインが目に入って、それをジッと睨んでみた。
睨んだってワイングラスの中身が減ることはない。
「僕、飲めないんですけど」
「飲む必要はない。しばらくじっとしとけ」
そういうエーレもそれ以降、ワイングラスに口をつけなかった。
慣れないバーという場所。落ち着かない。
どうにかそれをやり過ごそうと、目の前で丹念にグラスを拭いていく男性の手元を見つめる。
エーレは何かを待っているようだ。
男性の手元を見るのにも飽きてきて、ふと隣のエーレに目を向けると、彼はしきりに壁にかけられた時計を見ていた。
今度はその回数を数えることにした。
十回を超えたくらいから、バーの扉にかけてあったドアベルの音が、頻繁に聞こえるようになった。
僕の隣に男女のペアやってきて、楽しそうに話し出す。
つい、そちらに目をやりたくなったが、ぐっと堪えた。
更に時計を見るエーレの動作が、八回繰り返されたとき――
「おまたせぇ~、遅くなってごめんねぇ~」
引っかかるような、きごちない声色が背後からした。
隣でエーレが顔を顰めている。
その声の主であろう――足音が近づいてきているのがわかった。
まさか、と思って振り返ると、そこにはエーレより二回りは大きい男性がいた。
目が合うと、彼はウインクを飛ばしてくる。
ほぼ同時に隣でエーレが素早く立ち上がり、唸るような声で言った。
「遅い」
「相変わらず怖い顔しちゃって~。私ちゃんと謝ったでしょ~?」
本来のトーンを無理やり引き上げた不自然な声が耳に張り付き、思わず顔が引きつってしまうのを感じた。
エーレは、この男性を待っていたらしい。
「待たせたお詫びに、奥の部屋でイイコトしましょ」
男性はそう言って、エーレの肩を抱く。
エーレは諦めたような顔で、その手を振り払おうとはしない。
カウンターの先にある――扉へと向かう二人を、僕は呆然と見ていることしか出来なかった。
並ぶと、あのエーレが小さく見える。
男女の視線が二人の背中に注がれていた。
「さぁ、僕ちゃんもこっちへどうぞ」
男性は勢いよく振り向くと、再びウインクを飛ばしてきた。
隣の男女がそれにつられるように僕を見た。想像もしたくない勘違いをされているに違いない。
首だけ振り返ったエーレが「さっさとこい」というように、顎をしゃくる。
短気なエーレが我慢してまで会おうとしていた男性だ。何かわけがあるのだろう。
僕は勢いをよく立ち上がって、そのあとを追うことにした。




