リクサより提案
少し西に移動すると川があった。
僕は早速疲れた体を少しでも癒そうと、川沿いの地面へ体を投げ出していた。
青々とした空が眼前に迫ってくる。
ずっと見つめていたいけれど、空から降り注ぐ日差しが目を焼いて、視界の端がチカチカした。
ふと右側から最近聞き慣れてきた蹄の音に首を傾けると、馬と黒いコート。コートの隙間からの長い足が見えた。
そのまま視線を上になぞると、涼しげな顔のシュトルツの顔。
黒ずくめ集団を相手に、あれだけ暴れまわったのに……
彼はやっぱり鬼神なのかもしれない。
何故かため息が漏れ出た。
体に積もっていく倦怠感。顔を洗えば少しでもすっきりするだろうか?
思ったものの、一度地面に座り込んでしまったら、もう動く気が起きなかった。
荷馬車に揺られていただけだったのに、思ったより体力を削られてるなぁ。
どこか他人事のように口の中で呟いきながら、もう一度、空へと視線を戻す。
眺めた空には、軽やかな雲がいくつも漂っていて綺麗だった。
「ルシウス」
ぽつり、そう口にしてみる。
その名前が与えられたときのことが、頭に過った。
あれは確か、十日前くらいだったはず――
◇◇◇
長い船旅を終え、王国の港街ヴェルティアに到着した。
今後の行動について話し合うため、レギオンの宿屋を借り、エーレの招集で食堂へと向かった。
湾港都市で予想外の出費があったため、路銀の補充をすべく、レギオンでの依頼を受けるらしい。
僕がリーベと共に食堂に着いたときには、すでにテーブルの上には三枚の紙が並べてあった。
シュトルツが早速、その三枚の用紙を僕とリーベの前へと置く。
「どれがいいと思う?」
「浄化依頼と護衛依頼、討伐依頼か」
リーベはそれらを一瞥するだけで、概要を把握したようだった。
「急ぎ路銀が必要なら、まとめて受ければいいだろう?」
「そうしたいのは山々だが、一クランにつき同時に二件までしか受けれん。
それに護衛は二人以上必須だ。他は報酬が悪い」
エーレが不機嫌そうに答える。
「そうなるとまぁ、無理があるよねぇ。浄化と討伐をささっと終わらせて、そのあと護衛でよくない?」
まだ昼だというのに、エールを飲みながら言うシュトルツは、心底面倒くさそうだった。
三人の会話を聞いていると、まるで今からお遣いにでもいってくるような軽さだ。
「パーッと稼げて、首都に進める依頼とかがあればいいんだけどねぇ」
このまま北上して首都に進む――どうやら彼らの次の目的地は、王国の首都エルディナらしい。
エーレからまだ今後の方針は聞かされていない。
帝国から、王国の主権を取り戻す。
そのために、今後彼らはどうやって動くつもりなのか、僕は何をすればいいのか。
とりあえず、路銀を補充するために依頼を受けるにしても、僕で出来ることはやりたい。
彼らもそのつもりで、僕を連れて行こうとしていたはずだった。
そう思い、口を開こうとした。その時だった。
「こちら」
空気に溶け込むような、あまりにも自然に浮かび上がった声。
一秒にも満たない沈黙が、その場を支配した。
そう、一秒にも満たないはずだ。
その瞬間が、切り取られたような奇妙な錯覚に陥った。
ここにはいないはずのものが、突然どこからともなく現れたような――そんな恐怖に似た戦慄だった。
僕以外の三人も全く気付かなかったらしい。彼らが誰かに遅れを取るところをあの時、僕は初めて見た。
戦慄とそれに伴う硬直。それを振りきって、僕はその声の方を見た。
テーブルのすぐ隣に立つ人物――フードを目深にかぶっていて顔は見えない。
身長も体躯も男とも女ともとれず、この世のものならざる雰囲気を醸し出していた。
三人はフードの人物に対して、嫌悪の眼差しを投げたが、エーレはその人物が差し出した用紙を黙って受け取った。
「リクサより提案。首都エルディナまでの密護衛」
低くもなく、高くもない、感情が見えない声色。けれど透明感のある綺麗な声だった。
それが更に、フードの人物の異様さを増幅させた。
その余韻の中。エーレが舌打ちが飛び込む。
「介入してくるってことは、別途報酬が出るんだろうな?」
「完了後速やかに」
フードの人物は決められた定型文を話すように端的に答えた。
同時にローブに隠された腕が、緩やかな動きで持ち上げられていく。
三人が身構えた気配に 僕も無意識に、体を強張らせた。
しかし、フードの人物は、僕のほうへ指を示しただけだった。
細く伸びる指先の奥で、フードに隠されていた瞳を見つけた。
その異様さからは想像できない――とても澄んだエメラルドの瞳だった。
僕がその瞳に惹きつけられ、吸い込まれる感覚を覚えた時。
「賜名。ルシウス」
――シメイ? ルシウス?
告げられたやはり短い言葉を追った時には、その瞳がすでに隠されていてしまっていた。
突然の正体不明の人物の乱入、わけのわからない言葉のやりとりに、置き去りにしていた動揺が湧き上がってくる感覚があった。
それが居ても立ってもいられないような不安感に変わりかけた頃、エーレがフードの人物を睨む。
「依頼は受ける。さっさと失せろ」
彼が了解の意を告げた途端、その場の空気感が変わった。
気が付いた時には、フードの人物は最初からそこにいなかったかのように、跡形もなく姿を消した後だった。
同時に、周りにまとわりついていた空気の重さが一気に軽くなったようで、肩の力が抜けるのを感じた。
あの三人がここまで警戒する人物。今のは誰なんだろう。
彼、もしくは彼女が口にした、リクサとは一体……
「なんなの? 今回介入早くない? 一体全体何がどうなってんの?」
「知るか、こっちが聞きてぇよ」
捲し立てるように愚痴をこぼしたシュトルツに、エーレは吐き出す。
「今に始まったことじゃない。‘彼女’の意図はさておき、私たちに提案をするということは、こちらにも利があるということなんだろう」
リーベはそう言って、エーレから用紙を受け取った。
いつも通り、冷静で淡々とした口調のリーベに、少しだけ心が落ち着きを取り戻していくのを知った時、エーレがこちらを見るともに嘆息をこぼす。
「おい、ついてこい」
「ついていきますけど、あとでいろいろ説明してください。
僕には、何がなんだかさっぱりですよ」
気を取り直した僕は強気に出てみた。
さっきまでは話がややこしくなるから口は挟まなかったけど、そろそろ説明をしてほしい。
エーレに連れられたのはレギオンの受付カウンターだった。
「カロンのクランメンバーを追加する。
許可証の発行を頼む」
手短に受付の女性へと言い渡すと、女性は一枚の用紙を差し出してきた。
それを覗き見ると、どうやら身元確認のために書くものらしい。
名前、出身地、年齢。他にもいろいろ記入欄があった。
年齢以外正直に書ける気がしない。
どうするべきなのかと悩んだのも一瞬だった。
隣に並んだエーレが、それをこちらに渡すわけではなく勝手に記入し始めたからだ。
「ちょ、エーレが書くんですか?」
「たしか十六だったな。身元は俺が保証する。年齢と名前だけでいいな?」
女性は用紙を受け取り、頷いた。
「カロンの実績からみて問題ないとは思います。
ではルシウス様、年齢は十六歳で間違いありませんね?
すぐに許可証を発行しますので、お待ちください」
ルシウス――そういえば、さっきフードの人物がそう言っていた。
「カロンでのお前は、今日からルシウスだ。
文句は受け付けん。どうせすぐに慣れる」
たしかに偽名は必要だ。しかし一応、ルークと自分で名付けていた名前もあった。
なのに突然、ルシウスと言われても……
「俺がつけたわけじゃないし、文句ならさっきのやつか、リクサに直接言え。
ただの呼び名だ。なんでもいいだろ」
「だから、そのリクサって……」
誰なんですか、と言おうとしたところで受付の女性が戻ってきた。
手元にエーレたちが持っているものと同じ小さな銀板が置かれ、僕はそれを受け取った。
「登録は完了いたしました」
「あとこれを受ける」
エーレは先ほどフードの女性から受け取った用紙を差し出した。
受付の女性は受け取り、手元を確認すると困惑の表情を浮かべた。
「この依頼はすでにカロンへと依頼が受理されていますね」
エーレが顔を顰めるのが見えた。どうやら舌打ちはすんでのところで我慢したらしい。
「わかった、そのままでいい」
それだけ言うと、さっさと踵を返すエーレに、僕は三歩ほど距離を取って続いた。




