勇気と覚悟のいる一歩
翌日の夕刻。ユリウスたちの乗り合う貨物船は、セラノを出航した。
セラノから目的地ヴェリティアへの予定渡航日数は三日。
夕刻に出たため、天候の関係も相まって着くのは、四日後の朝だろうとのことだった。
出航して翌日にユリウスはエーレに対して水の力を行使し、前より感覚を掴めるようになっていた。
セラノで血の匂いをさせていたことを聞きたい気持ちもあったが、ユリウスはそれを飲み込む。
――ま、少なくともおこちゃまは、知らなくていいことかな――
ユリウスは知らなくていいこと。
今思うと、やんわりとした牽制だったようにも思えるシュトルツの言葉。
彼らと共に行くと決めたわけでもないのに、余計な詮索をできる立場ではなかった。
ヴェルティアに到着するまでの間、毎日同じ時間に甲板でエーレに水魔法――感覚の共有を行う許可は取り付けた。
一度思考と感情まで共有してしまっているのだから、もう減るものではないと開き直ったのである。
よくよく聞いてみると、思考や感情は力を行使している間のものであって、過去の記憶や感情までは伝わっていなかったらしい。
それでもやはり、心が筒抜けであることに変わりはなかったが。
二日目の正午前。
甲板に出たユリウスをエーレはすでに待っていた。
顔色は悪くない。
もしかしたら以前よりほんの少しだけ、効果時間が長くなっているのかもしれない。
エーレはユリウスを認めても、挨拶すらせず沈黙を続ける。
そんな彼の態度はすでにもう慣れてきていて、今や萎縮や緊張はない。
ユリウスは「じゃあ、しますね」と一言かけて、そのまま力を行使した。
回数を重ねるごとにやり方も掴めてきた。
前ほど気を張らなくても、エーレの感覚がユリウスに流れてくることはない。
ただどうしても思考や感情まで伝わっているようなので、そこを区別して制御するという課題はあった。
処置が終わり、ユリウスは充足感を感じて一息つく。
出来ることが増えるというのは、小さな達成感に繋がって心地よい。
そのままユリウスは空を仰いで、その心地よさの余韻を味わうことにした。
呼応するように、ゆらゆらと微弱な水の生命力の余韻も体から流れているのを感じる。
その中でエーレが踵を返すような気配がした。
一拍遅れて、船が一度大きく揺れた。
穏やかな海でも一時的な自然現象でたまに起こることらしい。
ユリウスは咄嗟にレールに捕まって難を逃れた一方で、レール離れていたというのに、エーレはどんな体幹をしているのか、というほど微動だにしていない。
彼らを見ていると、体を鍛えるべきなのだろうか、とつくづく思う。
僕も部屋に戻って、本の続きでも読もうかな。
そう思って、レールを離れたときだった。
じわり、と肌の上を小さな波紋が撫でていった。全身に鳥肌が駆け巡る。
ユリウスの周りの空気だけ振動するような感覚。
同時に脳天を突き刺すような痛みが走り、耐えきれず頭を抱えた。
その痛みの原因を考えるよりも早く、誰かの感情やイメージがユリウスの頭の中に反響した。
暗くて、冷たい狭い場所。
耳障りな金属の擦れる音と、誰かの泣き声。
苦痛と絶望――そして諦観。
身に覚えのない情報に呑まれそうになり、気が付くと、膝をついて体を折っていた。
見開いた目の先の床は霞んでぼやけ、ただ荒い自分の息だけが耳の奥に鳴り響く。
意図せず、やってきた何かに同化しそうになっている。
けれど、何故か体から生命力があふれ出すのを止められなかった。
いつしかそれは、船全体まで広がっていった。
自然と船の全ての情報が、頭の中に流れ込んでくる。
甲板にいる乗組員。
船室で休む人。厨房で食事の用意をしている人。
流れてくる情報はそれに留まらず、何かに呼ばれるように、船の奥へ奥へと入り込んでいく。
――何か、何かがおかしい
人の数が異常に多い。それも一か所に詰め込まれているようだ。これは……
その瞬間、ユリウスはその全てから引き離された。急激に頭の芯が冷える感覚。
もう慣れてしまった氷魔法――断絶の力だ。
顔をあげた先には、エーレがいた。
まるでユリウスの前に立ちはだかるように。
「余計なことはするな」
貨物船に詰め込まれるようにして集まっている人の気配。流れ込んできた感情。
ユリウスの脳裏に、セラノで遭遇した亜人の奴隷の姿が浮かんだ。
貨物船で、奴隷を移動させるのなんて珍しくない。
どうして、そんな発想に至らなかったのだろう。
エーレの様子から見て、最初から知っていたのか。
もしくは、先ほどのユリウスの魔法から状況を読み取ったのだろう。
前に立ちはだかる彼がいなければ、衝動で足はすでに動いていたに違いない。
ユリウスは甲板の床に目を落として、両手の拳を強く握った。
セラノで感じた絶望感が、再び沸々と湧き上がってくる。
「目の前のできることをやりたい、そう言ったな?」
頭上から、エーレの泰然とした声が落ちてきた。ユリウスは顔をあげる。
「これに関してお前ができることはないし、今すべきは、それではない」
そんなこと言われなくても……わかっている――
ユリウスは唇を嚙み、強く目を閉じた。
「王国のヴェルティアに着いて、どうするかはお前次第だ。
お前が望むなら、大陸の外に出る手段を用意してやってもいい。
全てのことを忘れて、他の大陸で1からやり直すのも悪くないだろう」
冷静に、淡々と提示された選択肢にユリウスは頭が真っ白になった。
――大陸の外に出る?
ユリウス一人ではその手配も厳しいだろうが、彼らならできるのかもしれない。
その方法なら、逃げきれる可能性は今より断然上がってくる。
けれど……逃げる?
知ってしまった全てを投げ出して?
僕だけ逃げる?
枷を付けた幼い亜人の姿。
今、船のどこかで、悲鳴と絶望の中にいる人たちの感情が、ユリウスの頭を埋め尽くした。
頭の中で、全ては混ざり合って反響する。
それは、どんどん大きくなっていった。
似ても似つかない――けれど、僕はそれを知っている。
それなのに……それなのに……!
湧き上がる感情は衝動に変わり、無力感は怒りに変わった。
気が付いた時にはそれらに突き動かされるまま、勢いよく立ち上がり、声を荒げていた。
「僕に逃げろってことですか……!? 今までのことを全部忘れて、僕だけ!
苦しんでいる人を放っておいて! 僕だけ……!」
エーレは動ずることなく、冷ややかにユリウスを見下ろす。
「なら、お前の現状は何だっていうんだ。
恐怖と支配から逃げ出し、答えも見つけることからも逃げ、短絡的な思考で目の前の偽善的な衝動にだけ駆られている。
変わることが怖いなら、そのまま逃げれるところまで逃げてしまえばいい」
ユリウスとは相反して、どこまでも淡々と並べられた言葉。
しかし何もかもがエーレの言う通りであった。
咄嗟に反論する言葉は思い浮かばなかった。
それでも……
それでも、ユリウスは黙っているわけにはいかなかった。
反駁できなかった自分を叱咤するように、ユリウスは大きく首を振る。
「見くびらないでください! 僕はこれでも一国の王子だ。
このまま僕だけ、逃げるわけにはいかない!」
キッと睨んだ先――漆黒の瞳を見たユリウスは、エーレの胸倉を掴みかかっていた。
声を荒げたユリウスの息は荒く、引き下がるまいと必死に睨む彼を見て、エーレは鼻で小さく笑う。
潮風が二人の間を通り抜けていった。
エーレはユリウスの頭を押さえて胸倉から引き離すと、乱れたシャツを整えながら言った。
「その短絡的思考が役に立ったじゃねえか。それがお前の答えなんだよ」
ユリウスは、ハッと目を見開く。
ずっとどうしたらいいのか、自分がどうしたいのかわからなかった。
皇太子という肩書はあっても、僕自身には何もない。
どうすることもできない、どうしていいのかわからない……
そんな思考に溺れるうちに、いつしか深い諦念が心を支配していた。
けれど……
心から湧き上がる怒りと、それに伴う熱意に、ユリウスは困惑を覚えた。
先ほどのあれは、まるで自分ではない自分が言い放った言葉のようにすら思えた。
捨てきれていなかった……いや、捨てきれるはずのない皇太子としての自尊心。
そして、一人の人間としての自尊心。
きっと……逃げ出した先に、幸せな未来なんて、存在しない――
たとえ日常に平和が訪れようとも、過去の後悔に苛まれ続け、命を終えるその日まで、本当の意味での心の安寧を得られることは出来ない。
心がはっきりそう告げていた。
いつのまにか強く握っていた拳が痛い。
それでも、その痛みを頭に刻むようにユリウスは握り続けた。
怒りと困惑、焦燥――言葉にできない様々な感情が、ユリウスの胸に激しく渦巻く。
「お前はまず、自分を知る努力をしろ。無知であることに甘んじるな」
続けて落ちてきたエーレの声。
反駁は許されない、厳しい言葉。
今、向き合い、立ち向かうべき相手――
まだ見ぬ敵でも、父である皇帝でも、ましてや国でもない。ユリウス自身なのだ。
ユリウスはエーレの言葉からその真意を受け取り、一度強く瞑目した。
目じりから涙が流れる。
どうして自分が泣いているのか、わからなかった。
怒りのような悲しみような、それでいて焦燥感に似ている心が焼ける、辛い感情――
「悔しい」
口から零れ出た言葉に、驚いたのはユリウス自身だっだ。
悔しいなんて気持ちは、今まで一度も感じたことがなかった。
絶対的存在に言われる通りに生きて、抗うこともない。
それ故の諦めや失望は、嫌というほど感じてきたのに……
何が辛くて、何が悔しいのかなんてわからない。
目の前にある全てが、嫌で嫌で仕方ない。
変えたい。自分も、自分を取り巻く現状も、なにもかもを。
ユリウスはようやく目を開いて、前で言葉を待つように沈黙を守るエーレを見た。
その瞳には、怒りも同情も期待も――何もないように見えた。
ただただ、ユリウスの言葉を待つだけの無色の色だった。
「行きます。エーレさんたちについて行かせてください。
僕は目の前の理不尽の全てを変えていきたい。
それが、この国と大陸の在り方を変えることと言うなら、僕はそうしたい。
大それた願いかもしれないし、ただの馬鹿げた理想かもしれない。
それでも僕は逃げたくない。僕は……僕の自由のために、戦いたい」
本当の自由を勝ち取る?
それがどういうことなのか、僕にはまだわからない。
それが本当に可能なのかもわからない。
でも、それでも、一時の自由の中で選んだこの選択に嘘偽りはなかった。
「僕一人じゃ、何もできない。
だから……力を貸してください」
静かにこちらを見据えていたエーレは一度はっきりと頷いた。その瞳が強くユリウスを見つめる。
「俺たちもお前の協力が必要で、お前も俺たちの力が必要だ」
最初から、一貫して変わらない。
泰然で淡々とした口調だった。
「目的を共にしている。だが、勘違いするな。
俺たちはお前を利用するだけだ。だから、お前も俺たちを利用しろ」
続けられたのは利害の一致の確認のような言葉だった。
協力の同意の後にしては、はっきりと牽制の色を宿したような語調でもあった。
エーレは踵を返すと、振り返らず言った。
「現実を知って受け止める覚悟があるなら、ついてこい」
その言葉から一拍おいて、彼がどこに連れて行こうとしているのかを理解した。
背を追おうとしたユリウスは最初の一歩踏み出し、次の歩を思いとどまった。
その瞬間――宙に浮いたままの右手が、視界の端に映り込む。
それはまるで、何も得る覚悟をしてこなかった今までの自分のように思えた。
宙に浮いた右手をぐっと握る。
「いきます」
次の歩を踏み出した。
勇気と覚悟のいる一歩だった。
でも、踏み出してしまえば、思っていた以上にあっけなく感じる一歩でもあった。




