銀鱗の午後
それからユリウスはずっと部屋にいて、翌日も外に出たいとは思わなかった。
原因不明の倦怠感で、億劫だったのもある。
けれど街に出て、再び亜人を見かける可能性があると思うと、怖くて出る気がしなかったのだ。
昨日早くに寝て、夜中に起きてしまったユリウスは、戻ってきたエーレに鉢合わせた。
彼は何を言うでもなく、先に就寝してしまった。
その後、昼食も夕食も食べなかったユリウスは空腹を抱えて、一人で食堂に行き、軽いものを食べて再び眠ったのだった。
起床は遅かった。そのためか、やはり今日もエーレの姿は見当たらなかった。
一方、リーベとシュトルツは、ユリウスが起床しても、しばらく部屋で過ごしていた。
そこに特に会話はない。
リーベは読書をしていたし、シュトルツは二本の短剣の手入れをしていた。
しばらく経って手入れの終わったシュトルツが大きく伸びをして、誰にいうでもなく告げた。
「よっし。やることないし、釣りでもいくか」
ぱたりと本を閉じる小気味良い音が応える。
「悪くないな」
シュトルツの誘いに、リーベが乗るところを初めてみた。
ユリウスは意外に思って、二人を交互に見る。
「やったことないだろ? 釣り」
シュトルツがニヤリと笑う。
ユリウスは怪訝にも思ったが、小さく頷くことにした。
シュトルツとリーベに連れられたユリウスは、街から少し外れた河口に向かった。
釣り道具一式は、貸出品である。
シュトルツの言う通り、城から出たためしのなかったユリウスが釣りをしたことはない。
釣り竿を見るのも初めてだった。
右も左もわからないユリウスはシュトルツの教授の元、一からやり方を学んだ。
釣り針に虫餌を引っかける段になって、ユリウスは大量の見慣れない虫に、悲鳴をあげた。
とてもじゃないが、触るなんてできない。
リーベはそれを知っていたかのように無反応だったし、シュトルツはユリウスのその様子を揶揄うように笑った。
ユリウスはムキになって、恐る恐る虫を掴みかけては手を引き、再び挑戦しては、その感触に悲鳴をあげるを繰り返す。
時間をかけて、それにも慣れてくると、ようやく釣りを開始した。
水面は落ち着いているものの、なかなか魚は釣れない。
けれど、港の近くを行き来する船を見ているだけで、不思議と退屈だとは感じなかった。
隣で氷室箱から、シュトルツが缶に入ったエールを取り出していた。
いつの間に買ってたんだろう……
あまりの用意周到さにユリウスはそんな彼をしばらく見ていた。
釣り竿を持って座り、片手に缶のエールを持って、海を眺めている。
やっていることが、どこにでもいる中年男性に見えて、途端ユリウスは可笑しくなった。
「こうしていると、煙草が吸いたくなるなぁ」 ふと、シュトルツが呟く。
「吸ってたんですか?」
「随分昔にね。体に悪いからやめろって、エーレさんがいうもんだから渋々」
随分昔――ユリウスと十ほどしか変わらなく見える彼。
その言いぐさはまるで、老人のようだった。
そういえば、何歳なのだろう……
ユリウスは彼らの正確な年齢を知らない。
「まぁ実際は、エーレさんが煙草の煙と匂いが嫌いらしいけどね」 シュトルツが小さく笑った。
「毎日大量にお酒を飲んで、煙草も吸って、女癖も悪いとか……ただの屑じゃないですか」
「気が向けば、ギャンブルだってする」
ユリウスの毒舌は全く響いていないようで、シュトルツは全く悪びれるふうもなく答えた。
「この男を庇うわけじゃないが、根は真面目な方だ。
遊び心が行き過ぎてはいるせいで、他人への迷惑を顧みないだけであって」
「それ、もうフォローになってませんよ」
リーベのよくわからないフォローに、ユリウスは呆れた後、小さく笑った。
昨日のことが、夢のように、穏やかな時間が流れている。
それが、ユリウスの心と頭を冷やしていくようだった。
二人はユリウスを見かねて、ここへと連れ出してくれたのだろう。
厳しく冷たいと感じることも多いのに、こうして面倒見がよくて、優しさすら感じることもある。
友達とは違う。仲間でもない。
今はただ、行先を共にしているだけの他人のはずだった。
ユリウスには彼らとの距離感も関係も、よくわからないままだった。
それでも彼らは、信用に足る人物なのではないかと思い始めてきている。
その時、ユリウスの釣り竿が揺れた。
ユリウスはそれに驚いて立ち上がる。
すぐにシュトルツが側にやってきて、ユリウスの腕の上からやり方を教えてくれた。
初めて釣ったのは、細くて銀の鱗が美しい魚だった。
それからしばらく、ユリウスたちは釣りを楽しんだ。
十匹程度の魚を釣り上げ、陽が暮れだしたのを知った三人早々に宿へ戻ることにした。
シュトルツは厨房から借りてきたらしい――七輪と網を持って、部屋に戻ってきた。
彼は部屋の窓を全て開け放ち、少しだけ設けられたバルコニーで魚を焼き始める。
初めて釣った魚の味は、絶品であった。
そこに帰還したエーレの怒号が飛んでくる。
「何やってんだ、お前ら」
窓を全て開け放ち、バルコニーで焼いているとはいえ、風向きのせいもあって部屋の中には煙が入らないわけではない。
「ちゃんと宿主に許可はとったから、問題ないって。エーレさんもどう?」
「そういう問題じゃねえんだよ」
エーレは額に手をあてて、大きなため息をついた。
最初は彼らのうちエーレが一番の難所だと思っていたユリウスだったがが、もしかしたら一番の問題児はシュトルツなのかもしれない。そう思うようになっていた。
バルコニーで魚を焼くと言い出した彼を止めなかった、
ユリウスの良心はほんの少しだけ痛んだが、それでも魚の誘惑には勝てなかった。
コートを羽織ったままエーレは、バルコニーへとやってきた。
「俺にもよこせ」
シュトルツは待ってました、と言わんばかりに串に刺した焼き魚をエーレに差し出し、奪うように受け取ったエーレは、さっさとテーブルへと戻っていく。
近くでエーレが踵を返したとき、ふわりと奇妙な匂いが、ユリウスの鼻腔をくすぐった。
――知っている匂いだ。一度、どこかで……
「あとで、この煙と匂いをどうにかしておけ」
「りょーかい」
さっさと食べ終えて、再び部屋を出て行ったエーレを見送った後、ユリウスは疑問を口にした。
「エーレさん、何してたんですかね?」
全ての魚を焼き終えたシュトルツが、火を消し、ふと思い出したように空を仰いだ。
「さぁ……。ま、少なくとも、おこちゃまは知らなくていいことかな」
先ほどとは打って変わって、静かな声で話した彼の視線を追って、ユリウスも空を見上げる。
もう陽は完全に暮れていた――仰いだ空は曇天で、月も星も見えなかった。
ふと、先ほどの匂いが、近くで香るような気がした。
――そうだ、あれは血の匂いだ。




