亜人の奴隷
湾港都市レネウスを発つため、貨物船に乗り合ったユリウスたち。
エーレ率いる2人の目的を知り、彼らと共にいくか、この先は一人で逃げるかを考えていた。
船酔いが酷いエーレを見かねたユリウスは、水の魔法――感覚の共有で、彼の船酔いを治す提案を持ちかける。
その度に断られるものの、ムキになってしつこく申し出てくるユリウスに、エーレは最終的に折れ、ユリウスは水魔法の応用を習得するのであった。
ほんの少しだけエーレと距離が近づいた気がしたユリウス。船は途中停泊するセラノへ到着する。
翌日の夕刻。停泊する予定の王国、セラノに到着した。
ユリウスたちは、セラノの港街に用はない。
けれど、五日間船に缶詰状態だったため、港で気分転換をすることにした。
港に降りる頃には、エーレは船酔いが再発していたようだったが、それも港に降り立つと、すぐに回復していた。
夕刻ということで、四人は近くの大きな食事処に入り、夕食にした。
船で寝泊まりは出来たものの、乗組員の邪魔になってはいけない。
と、いうのは建前で、また狭い部屋に戻るのは息が詰まるという、全員の意見の一致から、港の宿屋に泊まることとなった。
春の港は込み合っていたようで、いつもの部屋割りではなく、四人同じの大部屋しか空いていなかった。
ユリウスとしては何の問題もなかった。エーレが少し機嫌を悪くしたことを除いては。
船旅の疲れのせいかユリウスは早くに就寝した。
翌日。港に降りたといっても、街を発つまでユリウスにやることはない。
今後の身の振り方――彼らについていくか、王国についたら一人でいくか――を考えるということは頭の隅に常にあるが、四六時中そのことを考えていても埒が明かない。
それに未だに答えは出そうにない、
食事は宿屋に併設された食堂で用は足りる。
街を見回りたいが、おそらく一人行動は許してくれないだろう。
エーレに借りた本でも読むしかないか……
そう諦めていたとき、シュトルツから誘いを受けた。
「素敵なお嬢さんでも、ひっかけにいこうぜ。
俺がおこちゃまに、女性を口説くテクニックを教授してやろう」
意気揚々と言ったシュトルツに、ユリウスは嫌な予感しか覚えず、リーベに視線を投げた。
「ほどほどにしておくんだぞ、シュトルツ」
彼はシュトルツを止めることはせずに、それだけ言うとどこかへ行ってしまった。
エーレはというと、朝からすでに姿はない。
ユリウスは観念して、シュトルツに引っ張られるように、街へと繰り出すしかなかった。
シュトルツは有言実行と言わんばかりに、街で好みの女性を見かけるたびに声をかけていく。
ユリウスはそれから必死で逃れるようにして、遠目から見守っていた。
シュトルツはたしかに外見はいい。
背も高いし、顔だって整っている。
声はエーレやリーベよりは少し高めではあるが、よく通る声で、明るく馴染みやすい印象を与えた。
けれど、どうも掴みどころがなく、飄々としていて本心が読めない。
気遣いは出来る。というか、思ったより周りをよく見ている。
なのに、あえて空気を読まないことだってある。
もう少し誠実に振舞えば女性は引く手は数多だろうに……
ユリウスは何度目かに、振られて戻ってくるシュトルツを見て思った。
女性は直観が鋭い。
掴みどころのなく、軽やかな雰囲気の男性に惹かれる人も多いだろうが、シュトルツにはやはり、どこか危ない雰囲気を感じるのかもしれない。
それにシュトルツが声をかけている女性は、全員そういった香りを敏感に嗅ぎ分ける、身持ちの固そうな女性ばかりだった。
まるで、振られるために声をかけているようだ。
一体、彼は何がしたいんだろう……
遠目でぼんやり彼を見ながら、そんなことを思っていた。
呆れながらもシュトルツを迎え入れようとした。
その時だった――
ユリウスの目の前を馬車が激しい勢いで通りすぎていった。
馬車も通れる道幅の広い大通りではあったが、人が多く歩く通りでこんな勢いを出して、馬車が通るなんて非常識すぎる。
そう思う暇もなく、咄嗟に後退して、尻もちをついた。
通りの端にいたユリウスは路地裏に放り出され、お尻と背に衝撃を受けた。
同時に真後ろから小さくか細い、驚愕の声が落ちてきた。
ユリウスは衝撃に顔を顰めながらも、ぶつかってしまった人に謝ろうと、すぐに後ろを振り返る。
けれど、視界に入った姿を見て、咄嗟に言葉が喉に引っかかった。
標準より小さな体躯、頭の上に生えた人間ならざる獣の耳。
瞳孔の開いた大きな瞳、五指から伸びた鋭い爪。
――亜人だ。
それだけではない。
首には鉄の首輪が嵌められ、両手足にも鉄の枷があった。
足の枷は鎖が無残に引きちぎられていて、すでに枷としての機能を果たしていない。
「大丈夫か?」
言葉を失って唖然としていたユリウスの後ろから、聞きなれた声がした。
大きな影が落ちてくる。
その声にハッとして振り返り、ユリウスが何かを言うよりも早く、シュトルツがその腕を掴み、ぐいっと引き上げた。
次の瞬間、ユリウスは強引に表の通りへと、引きずり出される。
「ちょ、まって……!」
冷静になって考えると、あれは亜人の奴隷だ。
あの手足の枷を見るに、逃げ出してきたに違いない。
「待たないよ。君をこのまま好きにさせると、また厄介事に持ち込むに決まってる」
シュトルツに掴まれた手は、いくら振りほどこうとしても無駄だった。
体格差も力の差もありすぎる。
随分な距離を引っ張られて、ようやくユリウスは解放された。
「どうして――」
口から訴えがこぼれ出るが、シュトルツの言葉を思い出してぐっと飲み込む。
――逃げ出した亜人の奴隷。
その逃亡をほう助したとして、厄介事にならないわけがない。
セラノに停泊するのは三日だけだ。乗り遅れるわけにはいかない。
「さっき見たことは忘れることだね。亜人の奴隷なんて、珍しくもないでしょ」
「そんなの……実際、見たのは初めてだし」
亜人の数は少ない。
人間より身体的には優れているが、魔法――精霊と同調して生命力を行使する適正には乏しい種族だった。
結果として人間に迫害され、森の中に隠れ住むか、こうして奴隷として人の街での暮らしを余儀なくされている。
ユリウスは知識としては知っていた。けれど、実際に見るのは初めてであった。
奴隷制度は勿論知っていたし、もともと王国では、奴隷制度が禁止されていたことだって知っている。
帝国主権の政治に移行してからは、王国にも奴隷制度が復活したのだ。
ユリウスは重りがつけられたように、心が沈んでいくのを感じた。
もう街を出歩く気分ではない。
そんなユリウスの心情を察してか、シュトルツはユリウスを率いて、さっさと宿屋に引き返した。
宿の部屋には、誰もいなかった。
ユリウスはベッドに体を投げ出して天井を仰ぐ。
しばらくはシュトルツも在室していたが、思い出したように立ち上がって扉の方へと向かった。
「一人で出歩くなよ。部屋には結界を張っておくから、何かあったら、すぐわかるようになってるからね。
とりあえず、頭冷やしておきなよ」
すぐに扉の閉まる音が聞こえた。
ユリウスの吐き出した長く重い溜息が、部屋に吸い込まれていく。
今なら闇の精霊と同調できるのではないか、というくらい心は重い。
あの時――シュトルツが来る前に声をかけることが出来ていたら、咄嗟に亜人の手を握って逃げられていたら……
そんな考えが頭に過って、ユリウスは強く首を振る。
そうしたとして何になる。
ユリウス一人の力では、街から出ることだって難しいだろう。
ユリウス自身も逃げている身であり、逃げ切れる自信もない。
その上、逃げ出した亜人の奴隷が一緒ではすぐに捕まってしまうことは、目に見えている。
湾港都市を出発していて、それほど時間も経っていないというのに、身に覚えのある無力感が、ユリウスの体を支配した。
まるで重力が何倍にもなったみたいだった。
体が重い。
今後彼らについていくかどうかは別としても、今優先すべきは、目の前の衝動に動かされて無謀な真似をすることではない。
出来るだけ、確実に皇帝の支配圏から逃れることであった。
頭ではわかっている。
わかっているのに、心を切り離して考えることが出来ない。
どうしたら彼らのように――時には他人を、そして自分の感情を切り捨て、冷静に合理的に動くことができるのだろう。
――僕には彼らのことも、彼らの気持ちも到底理解できない。
小さな絶望は少しずつ心に波紋を広げていき、そのうちユリウスは思考に溺れるように眠りに落ちた。




