小さな充足
水魔法――感覚の共有で、ユリウスの正常な感覚をエーレに共有して、彼の船酔いを治せたのはいい。
けれど、それと一緒に思考や感情まで、送ってしまっていたなんて……
なにをどこまで、見られたんだろう。
思った以上に歩く速度の速かったエーレの背を追ったユリウスは、船室の前まで質問を繰り返しながらついていった。
部屋の前までくると、さすがに鬱陶しかったらしく、彼はユリウスを締め出そうとする。
扉が閉まる直前――ユリウスは咄嗟に足を引っかけて、それを阻止した。
「足癖が悪いな、坊ちゃん」
その行動は予想外だったらしいエーレの口から皮肉が飛び出た。
「エーレさんにだけは言われたくありません! 教えてくださいよ!
いや、教えなくてもいいので全部忘れてください!」
扉を挟んで押し問答をしばらく繰り返していると、リーベが隣の部屋から出てきた。
隣にはシュトルツもいた。
「なーに騒いでんの、おこちゃま」
ユリウスは我を忘れて、騒ぎすぎたことを後悔した。
エーレに知られたのは不可抗力だとしても、これ以上恥ずかしい思いはしたくない。
シュトルツとリーベの登場で、咄嗟の言い訳が思いつかなかったユリウスの前の扉が不意に開かれた。
「こいつが暇だから、本を貸せっていってきただけだ」
予想外のフォローにユリウスはエーレを見て一瞬、目を見開いたが、すぐに何度も頷く。
「あれ、エーレさん体調もういいの? 顔色よくなってるけど」
さすがシュトルツ――エーレのことになると目ざとい。
そうユリウスは思った。
「寝込んでるのに飽きただけだ」
そう言ってエーレは部屋の中から、一冊の本も持ってきた。
随分と分厚く、装丁の綺麗な高そうな本だった。
「さっさと戻れ」
目の前で閉じる扉の音を聞きながら、ユリウスは手の中の本を見た。
どんな難しい本かと開いてみると、どうやら小説らしい。
エーレがこんなものを持ち歩いているのは意外だった。
本を眺めているユリウスの肩をシュトルツがつついて、隣の部屋を指さす。
ユリウスは二人に促されるまま元の部屋へと戻った。
扉を閉めると突然シュトルツが楽しそうに、どこか嬉しそうに、声を抑えて笑い出した。
ユリウスは彼の反応に、まさか全部聞かれていたのではないのかと、ぎくりとする。
「エーレから貴方の生命力を感じた。意外も意外だが、うまくいったようだな」
二人はエーレを見た瞬間にすべてを悟ったらしい。
人と人との間に生命力の交流があれば、効果が持続している間はたしかに相手に自らの生命力が僅かに残る。でもそれは理論上の話だった。
そんな微弱な生命力を感じ取るなんて芸当が、人にできるのだろうか。
隣のシュトルツは未だに笑っている。ユリウスは彼の笑っている理由がわからなくて怪訝そうな顔をした。
「いやぁ、ほんと君は予想の斜め上をいくねぇ。見ていて飽きない」
どうにか息を整えながら切れ切れに言われ、馬鹿にされているようでユリウスはムッとする。
すぐにリーベの解釈じみた補足が入った。
「これはシュトルツなりの誉め言葉だと受け取っていい」
「まぁ、エーレさんと仲良くなれたみたいだし? いいんじゃない?」
「仲良くってほどではないですけど……」
たしかに意地になって、エーレに対してあれだけ強く出てしまった。
エーレが弱っていたからもあるだろうが、結果として受け入れてくれた。
これが仲良くと言っていいのかは不明だが、少し距離は縮まったような気もする。
「あ、そうそう」 シュトルツは思い出したようにユリウスの本を見た。
「エーレさん、自分の本を汚されるとキレるから、読むなら気を付けて」
ユリウスは今一度、手の中の本へと視線を落とす。
たしかに新品のように綺麗に保存されている。そこにエーレのこだわりを感じた。
そういえば、リーベも本を読んでいた。
「リーベの読んでいたのも、エーレさんのものですか?」
「ああ、小説は得意じゃないが、やることもないからな」
小説が得意じゃないなら、どんな本が好きというんだ……
湧き上がってきた小さな疑問。ユリウスはあえてそれを聞かないことにした。
咄嗟のフォローの結果といえど、彼らが共有しているものがユリウスの手の中にある。
それがユリウスにはなんだか、嬉しかった。
「じゃ、明日到着前に、知らせにくるから」
シュトルツはそれだけ残して、さっさと部屋を出て行った。
リーベは彼を見送り、机の前に座って、読みかけの本を開いた。
ユリウスもベッドに座って、重厚感のある美しい装丁を撫でる。
本をゆっくり読むなんていつぶりだろう。
小さな充足感を感じながら、ユリウスは丁寧に最初の頁を開いた。




