初めての船酔い
船乗りの男性が言ったように、本当に日暮れの辺りから、船が大きく揺れだした。
小さな窓から外を見ると、大雨で風が吹き荒れている。
案の定、ユリウスは酷い船酔いになった。
夕食も食べるどころではなく、一段目のベッドに倒れこんでからしばらく経つ。
机を背に読書をしていたリーベの「大丈夫か?」という声が聞こえたが、ユリウスは答えることすらままならず、小さく頷くだけだった。
「寝てしまった方がいい」
リーベの言う通りに、ユリウスも先ほどから寝ようとしてはいる。
けれど何せ、気分が悪すぎて、寝つくことが出来ないでいた。
酔いが酷くなりだしてから、部屋を出た先にある厠とベッドを何度も往復して、もうトイレで寝てしまいたいと思うほどだった。
それを見かねたらしいリーベは、本を閉じてベッドサイドへとやってきた。
「朝には天候は落ち着くらしいが、机に酔い止めと水を用意しておく。
朝になったらすぐ飲むように」
そんなこと今、言われても……
怪訝に思って、ユリウスはリーベをちらりと見た。
そこにはこちらへ向けて、右手人差し指を向けている彼。目が合った途端、その指がくいっと下ろされた。
刹那――頭の片隅で何かが、ぷつんと切れるような感覚。全身に寒気が駆け巡った。
それも一瞬で、気が付けば頭の芯から回っていたような揺れも、吐いても吐いても気分が悪かった酔いも、幻だったかのように消え去っていた。
同時に、ユリウスは強烈な睡魔に襲われた。
この感覚、知っている……
それがなんだったのか、という思考が行きつく前に、ユリウスは意識を手放した。
目が覚めると、窓から見える空は青々としていた。
窓から差し込む、陽が高い。かなり眠っていたらしい。
ユリウスがすっきりした頭でベッドを出ると、机の上にはスープとハムエッグ、食卓ロールが乗せられたお盆が置いてあった。
その隣に水の入ったコップと錠剤が置かれている。
リーベが、用意してくれたのだろう――部屋を見渡すが彼はいない。
ユリウスは先に歯を磨いて、食事をすることにした。
スープは冷めてしまっていたが、昨日夕食を食べていなかったのもあって、ペロリと平らげてしまう。
食後に薬まで飲んだところで部屋の扉が開いて、リーベが戻ってきた。
「体調はどうだ?」
「よくなりました。ありがとうございます」
リーベの手には、昨日とは違った本があった。
彼の顔を見て、昨日眠ってしまう前の最後の記憶が蘇る。
「そういえば昨日のあれ、氷の――断絶の力ですよね?」
「ご名答」
リーベは一段目のベッドに腰掛けて、本を開いた。
「氷の魔法にあんな使い方があるなら、エーレさんもそれで治したらいいんじゃないですか?」
エーレならリーベに頼らずとも、自力で氷の魔法を使って酔いを切り離すことができそうに思えた。
ユリウスの問いに彼はは本から目を上げないまま、唸るようにして答える。
「船酔いに限らず、酔いのような感覚を切り離すには、外部との感覚を長時間切り離す必要がある。
そうすると、何か起きたときにすぐに気づけないだろう?」
ここは船の上だ――
そこで、何が起きるというんだろう……
まさか船に乗って、敵が襲ってくるわけでもないだろうに。
それに、シュトルツとリーベがいるのだから、そこまで警戒しなくてもいいんじゃないか?
そんな考えがユリウスの頭に過った。
でも同時に、おそらく彼らも一度はそれを提案してたんだろうなとも思った。
エーレが彼らに、甘えることをしなかったのだろう。
「他に方法はないんですか? 光の魔法とか」
あれからエーレには会っていないが、あの様子から見るにまだ寝込んでいるのかもしれない。
昨日、酷い船酔いを経験したユリウスは、あれがずっと続くと思うとゾッとした。
本の頁をめくる音がした。
会話しながら読むなんて器用なことをするものだ、とユリウスは感心する。
「光の力にそういった作用はない。
まぁしかし……水の力なら、応用すれば可能ではあるだろう。
そもそも私たちは、それほど水との親和率が高くないから試そうと思ったことはないが」
彼らが行使する――あれほどの水の魔法であっても、親和率が高いとは言えないのか……
二次性質は、本質ほど親和率をあげるのは難しいのかもしれない。
「どんな風に応用するんですか?」
再び、頁のめくる音。
「水の本質は共感と支配といったが、たしかに調和のような一面も持つとも言った。
共感はすでに把握していると思う。なら支配は? それらを全て考えた上で、どうすればいいと思う?」
ユリウスは考えた。
水の魔法を使ったとき、相手の感情や考えを知ることが出来る。
同時に、こちらの感情や考えを送ることもできる。
そうしたところから、共感や支配という本質につながる。
魔法――つまり人間が生命力を精霊と同調するように、水の魔法を使うと人と人の間に同調を生むことが出来る。
ユリウスは閃いて、勢いよく立ち上がる。
「食器返してきます」
お盆を持ち上げて部屋を出て行こうとした時、背から本を閉じる小気味良い音。彼がこちらを見たのがわかった。
「間違ってもエーレに水の魔法を使おうとはしない方がいい」
その言葉を聞いたユリウスは、湾港都市での魔法の訓練を思い出した。
――自分より圧倒的に’’上位のもの’’に対して、水を使うべきではない――
どうして、今の今までそのことを失念していたんだろう。
「エーレが拒絶したときには、私の時の比ではない反発が返ってくるだろうからな」
ユリウスは思わず顔を引きつらせた。
リーベの時でさえ蹲るほどの衝撃を受けたのに、あれとは比べ物にならない反発なんてものが返ってきたら……
きっと、意識は保っていられないだろう。
想像するだけでゾッとして、体が震えた。
ユリウスは思いついた安易な考えを諦めて、とりあえず食器だけでも戻そうと部屋を出ることにした。




