彼女は禁を異にす
「明日って言ってましたけど、よく考えたらここ、時計すらないじゃないですか!」
「寝て起きたら明日でしょ~」
屋敷への帰路で、冷静に突っ込みを入れたルシウスへのシュトルツの適当な返答。
それはまさに、その通りになった。
屋敷に戻り、エルフの娯楽用だという風呂に入り、眠って目が覚めた時、エーレはすでに準備を終えて待っていたのだ。
起床してすぐシュトルツの言葉を思い出したルシウスは、呆れて低い苦笑を漏らすしかなかった。
「飯食うなら軽めにしとけ。生命力限界まで使うかもしれねぇからな、食いすぎると吐くぞ」
そんな言葉を受けたルシウスが、朝は飲み物だけにして向かった先は、エルフの里を出た先の草原だった。
エーレと一体一の訓練だと思いきや、何故かシュトルツとリーベもついてきている。
相変わらず綺麗で、幻想の中にいるようにすら錯覚させる空。来た時と何一つ変わらない。いや、少し違っている?
昨日はもう少し、群青が広かったような……
仲間全員揃っての訓練に怖気をなしたルシウスは、空を眺めて逃避思考に陥っていた。
前までなら嬉しくて仕方なかったのに、何故だか恐ろしい。
例の風の精霊への接触、その訓練というのも、ひとつの原因になっているのだろう。
エーレが抱いている忌避の正体。前のルシウスの死因を聞かされた今、僕だって怖いと思う。
今の自分とは比べ物にならないくらい、強かったのに違いない。戦闘技術的にも精神的にも。
その前のルシウスが生命力を暴走させるきっかけになった精霊。僕は上手く対話できるだろうか?
「リーベ、頼んだ」
ふと、思考を遮断するようなエーレの声が、隣からした。
間を置かず、数メートルだけ離れた位置のリーベが途端、魔法を展開させる。
地面から伝わってくるのは、範囲指定型の魔法。足元一面にある草の下で、僅かに光った陣。
これは……
何をいう間でもなく、一歩詰めてきたエーレは、首を左右に傾けて息を吐きだすと、
「とりあえず、俺があいつとお前の繋ぎをする。後は自分でどうにかしろ」
ルシウスの返答を待たず、すぐに彼は諷った。
『Eshar, Ves riguna. Elen-Fean netha Lucius』
いつもより数段、低い旋律。
敬意も何もないようにも聞こえる単語の並びを経て、こちらを見たエーレへ、ルシウスはぐっと深く頷いた。
考えれば考えるほど思考の渦に呑まれる。それを許さない彼に従った。
『Elen-Fean.Ves nira sora..eshar?』
――風の精霊、僕と話をしてくれませんか?――
もう前のように、旋律や語彙に詰まることもない。この一か月以上、更に勉強してきたのだ。
控えめだが、確実に届く自信を込めた霊奏を、この場全体へ向けた。
声帯から、口を通り抜けた旋律の終点で――風が激しく舞い上がった。
激しいなんてものじゃない。
体が持っていかれるほどの暴風に、耐えきれず重心を奪われたのも束の間、肩を支えられたと知ったと同時に、隣から声が落ちてきた。
「続けて諷え。あいつを落ち着かせてみろ」
その間にも上空では金切り声のような音が飛び交い、唸るような声に変わり始めた。
「落ち着かせるっていっても……!」
目も開いていられないほどの風を受けて、ルシウスは訴える。
風の精霊が何を言っているのかわからない。水の精霊なら、こうはならないのに……
どうしたらいいのかと、エーレを見ると、
「怒ってねぇよ。喜んでるんだあいつは。落ち着いて話せって言え」
眼前に手を翳しながらも、空を仰いでいた。
この暴風の中でも、彼は精霊の気持ちを感じ取っているのだろう。
ルシウスは、ゆっくり大きく息を吸い込む。いつもより声を張り上げた旋律が、歪んでに響いた。
――僕はまだ、貴方の声をしっかり聞き取れません。だから、落ち着いて会話できませんか?――
それでもどうにか届いたようで、先ほどの風が嘘だったように収まっていく中、
「お前……」 エーレが、信じられないと言わんばかりの視線を向けてきた。
「え」
彼の表情の意味がわからなくて、たった二フレーズの内容を思い返してみる。
いつもより大声で諷ったから、上手ではなかったのはたしかだけども。
「何かやらかしました? 僕」
「いい」 呆れたように肩を押しのけてきた彼。 「いや、よくねぇな」
「どっちですか!」
答えることなく空を仰いだ彼の視線を辿ると、水の精霊の時とは違う――鉄琴に似た音が耳に届いた。
高くて硬い、それでいて細かい音が幾度も続いている。
――笑ってる?
「生命力の知覚範囲を広げろ。あいつ、お前に声を聞かせるつもりがない」
不愉快そうに、音の先を睨む彼の漠然とした指示に、ルシウスは困惑する。
「範囲ってどこまで……」
「とりあえず音が聞こえてる上空だ。お前が初っ端からあんなこと言うから、遊ばれてんゃねぇか」
「ああ……」
その言葉で、ようやく自分の失態に気づいた。
「風は水や光と違って、気性も荒いし、人を揶揄うのが好きなんだよ。出来るだけ弱み見せんな」
「そうならそうだって、最初に言ってくれたら……」
あまりにも愚直だった自分を後悔しながらも、エーレの言う通りに上空の声を拾うことに専念する。
上手くしないとすぐに枯渇する。ただでさえ霊奏や精霊とのやりとりは、魔法以上に生命力を消費するのだ。
上空を注視してみるが――わからない。
あれ? そもそも知覚範囲の広げ方って、これで合ってるのかな?
そう思いながらも、放出する生命力を広げようとした時、視界が軽く揺れた。
一拍遅れて、頭に衝撃を受けたことを知ったルシウスは、ハッとそちらを見た。
「お前、寝ぼけてんのか? 無作為に流すやつがあるか」
「なんで叩くんですか!」
思ったより強い痛みが遅れてやってきて、苛立ちのあまりエーレを強く睨んだ。
「……俺の言い方が悪かった。同調の範囲を広げろってことだよ。生命力を垂れ流しても意味ねぇだろうが」
あー。ピタリと勢いをなくしたルシウスは、ふと視線を迷わせる。
視界の行きついた先は、少し離れた場所にいる仲間だった。予想通りシュトルツは声をあげて笑っていたし、リーベは微笑ましそうにこちらを見つめていた。
なんで僕は生命力の知覚範囲という単語で、生命力自体を広げようと思ったんだろう……
慣れていない環境、慣れない訓練。未知の精霊。それらに緊張していた自分に気づいて、腹から息を吐きだす。
その間にも上空からは、ずっと音が聞こえていた。けたたましいほどのそれに、ルシウスはムッとする。
相手がそのつもりなら、意地でも会話を成立させてやる。
基本的な同調。上空の音を中心にした広範囲へ傾けるよう意識する。
爽やかな風が方向構わず吹き抜ける。エーレの言う通り、揶揄っているようだった。
その中で、目を閉じて集中したルシウスにまず流れ込んできたのは――音でも声でもない。
それはイメージだった。
輪郭は掴めない。でも女性のように見える。スカートのような布を翻して、踊るようにくるくる回っている輪郭。
ハッと視界を開いた先では、空に風の渦が形成されていた。
それは徐々に地上へと降りてくると、弾けるように霧散した。跡形もなく消えたと矢先、人間の耳には少し高すぎる音が、足音のように規則的に鳴り始めた。
四度、五度と続いたそれが止まって、最後に一度、低い音が足元から伝わってきた。
――待ちくたびれちゃった――
重く息を呑む音を、ルシウスは鼓膜に内に聞いた。
じわり、と胸の底が震える。感動からなのか、恐れからなのかの区別はつかない。
こんなにもはっきりと、精霊から意思が伝わってきたのは初めてだった。
水の精霊相手でもここまでではない。彼らの意思や言葉は、人間の概念には当てはまらない抽象的なことがほとんどだ。
――びっくりしてるびっくりしてる。君には何度も声かけてきたんだけど――
先ほどのイメージのような姿はない。あるわけがない。精霊に外見はないのだから。
なのに、そこにいると錯覚してしまうほどに鮮明な声だった。耳に届くのはただの音なのに、それを覆うようなはっきりとした意思に、目を見開いたまま動けずにいた。
「おい」
隣からの声に、呼吸を思い出したルシウスは、喉で詰まる声をどうにか押し出す。
「エ、エ……エーレ! 僕が思ってたのと全然……!」
前方には何もない。勢いあまって、そこを指差した先のシュトルツは、やはり笑っていた。
「だからあいつは変わってんだよ。本人に聞け」
うんざりしたように、前方を顎で示した彼。
エーレが説明してくれた方が早いのに。そう思いながらもルシウスは必死の想いで霊奏を紡ごうとした。
ふと、先ほどのエーレの言葉を思い返す。
――改めて挨拶させてください。以前はありがとうございました――
冷静に冷静に、弱みを見せないように。とりあえず挨拶は基本だ。それに、古代言語の長い文脈はまだ苦手だ。精霊たちも短いやりとりを好む。
落ち着きを取り繕って伝えてみると、低く風が唸った。
――堅苦しいのはいやなの。君はいつもそうだったよね、何度言ったって私の話を聞いてくれない――
風の精霊の性格が読めない。ひとつ間違えたら機嫌を損ねてしまいそうだ。
思わずエーレを一瞥してみるが、彼は再び顎で乱暴に前を示した。
「俺に意見を求めんな。お前の考えるようにやれ」
そんな声を聞いて、ルシウスは背筋を伸ばす。
――貴方は、他の僕とよく話してたんですよね?――
風がぐるりと周辺を回った。まるで考えているようにぐるぐると。
何週もして着地したのは、元の場所だった。
言葉が返ってくると思われた瞬間、不意に突風が、体を駆け抜けていき――
’’面倒くさい’’
聞き取れたのは、その言葉だけだった。
体を通り抜けた風は、ただの風ではなかった。
目を見開くことも、息を呑むことも、身じろぎひとつすることも許されない。風に乗って襲って来たのは、暴力的な情報の波だった。
体の感覚も奪われ、気が付いた時には、地に伏せていた。
眼前に迫っているはずの草が、色を失くしている。
途切れ途切れ吐き出した呼吸が、それを揺らし、遅れて鼓膜に引きつった息が響いた。
以前共有してくれたエーレの霊奏とは比べ物にならない。記録? 違う。記憶だ。
――これは、他のルシウスの記憶だ。
それを認識した途端、ルシウスは激痛に襲われた。
頭も胸も焼けるように痛い。
痛みが更にあらゆる焦点を奪っていく。
その中でも、与えられた情報を思い返そうとしてみるが――断片しか浮かんでこない。
――加護も与えてない相手に、度が過ぎるぞ――
低く唸るようなエーレの霊奏を耳にしながらも、ルシウスはこみ上げてきた吐き気を抑えることは出来なかった。
’’君が邪魔するからあげなかったんでしょ’’
輪郭をなくした声から感じ取れたのは、苛立ちと悲しみが内包された、そんな風の精霊の声だった。




