覆水見つめ、なお笑う
ルシウスはリーベを見る。懐古も感傷もないその横顔は、いつものように静かだった。
「よかったんですか? リーベだけのことならまだしも、シュトルツや……エーレのことまで……」
エーレは良い顔をしないだろう。
「構うものか」 リーベは苦笑じみた笑いを短く飛ばした。
「あいつの臆病風に付き合うのも、いい加減うんざりしてきていたところだ」
そのあまりの言いぐさに、ルシウスは目を瞬かせた。
あまりの驚きで閉口してしまった時に、リーベが目を合わせてきた。
彼は、本日二度目。表情を崩し、おかしそうに頬を緩ませる。
しかしそれは一瞬で、おもむろに手元へと落とされた瞳は、すぐに昏い色を宿した。
「元来あいつは慎重な性格だったが、これほど臆病ではなかった。代償がそうさせていることは理解している」
だが……いや、だからこそ。
背を一度伸ばした彼は、吐息と共に肩を沈ませた。
「私はシュトルツのように、エーレに忠誠を捧げているわけではない。私の判断は私がする。あいつに甘んじることは、もうやめることにした」
ルシウスの脳裏に、彼の最近の態度が蘇ってきた。
あれほどエーレの意思を尊重していた彼が、諫止することが増えている。
自己完結した決意を、淡々と述べたリーベの言葉。
「それは……」
ルシウスは次に続く言葉を見つけられなかった。
――どう取るべきなのだろうか?
仲間内での立ち位置を変えると言っているわけではなく、彼のことだから、揉め事にするつもりもないに決まっている。
ただ今後は、エーレの意向に必ずしも沿うわけではない。そんな強い意思表示。
ここに自分が問うべき言葉はない。
そう答えを出した時、
「いつまで立ち聞きしているつもりだ」 リーベの声が後方に向けられた。
「え?」
振り返ると、そちら側にあった木の後ろから、ひょっこりとシュトルツが姿を現した。
「いや~これは不可抗力だよ。リーベが珍しくよく喋ってるから、ほら? お兄ちゃんとしてはなんだか微笑ましくて?」
「誰か誰の兄だ。来たはいいものの、出てくる機会を逃したと素直に言えばいい」
すぐ近くまでやってきたシュトルツを見上げて、半眼で睨んだリーベ。
シュトルツは一体、いつからそこにいたのだろうか?
「しゃあないじゃん。リーベ語りが珍しすぎて、邪魔しちゃ悪いかなと思ったんだよ」
「お前にそんな配慮があったのは、驚きだな」
「もう少し驚いてから言ってくんない?」
リーベの隣に腰を下ろしたシュトルツが、笑い声をあげる。
そのまま勢いよく体を地面に預けた彼は、両腕を枕にして空を眺めた。
「まぁ、いいんじゃない? 俺もそうした方がいいと思うよ」
「お前から賛同が得られるのは、意外だった」
今度こそ、僅かに驚きを含んだ声でリーベが応える。
ルシウスも彼同様、意外な気持ちだった。
シュトルツは、いつだってエーレが一番で、エーレの意思に従っているのに。
「お前の忠誠は妄信的だろう」
ルシウスの心境をリーベが即座に代弁してみせる。
「なにそれ、酷くない? 俺はちゃーんと、自分の意思で判断して決定してるよ。エーレがそれを望んでるからね」
「エーレが望んでなかったら、そうじゃないんですね」
すぐに反駁したシュトルツの言葉は、やはり妄信的といっても過言ではない。
ルシウスはそんな思いで吐き出す。
「だってエーレは俺の神だから」
恥ずかし気もなく、当然のことを当然のように言ったシュトルツに、ルシウスとリーベの呆れたため息が重なった。
「まぁ」
ため息の余韻が風に攫われた頃、シュトルツが身じろぎした音がして、リーベ越しにそちらを見ると、彼もこちらを見ていた。
夕のような瞳は、空の色を反射して、一度紫のような色を輝かせる。
「エーレは神だけどさ。俺の神は全能ではないから。そのために俺がいるからね」
「それは殊勝なことだ」
まったく響いた様子のないリーベの返答を最後に――三人の間に沈黙が下りた。
ルシウスはシュトルツに倣って、地に体を預け、空を眺めることにした。
隣のリーベも座ったまま、遠くの空を見つめている。
シュトルツがいるのに、これほどの沈黙が続いたのは、出会った当初以来かもしれない。
それほど長い静寂だった。
「そういえば――」 それを破ったのはルシウス。「エーレはどうしたんですか?」
丁度、話の的になっていた彼の姿はない。
「ああ。エーレさんなら、よく寝てたから置いてきた」
「え」
珍しい。普段あまり眠らない彼が、この空間で眠るはずがないだろう。そう思っていたルシウスが、思わず短い声があげた。
そこに、リーベの重く長い息が混じった。
「限界はあと一度、というところか」
「そうだねぇ」
交わされた二人の短いやりとりにルシウスは咄嗟に身を起こし、
「何がですか?」
二人と順に見た。
倣うように体を起こしたシュトルツが、瞳を伏せ、小さく口元を歪ませる。
その表情だけで、嫌な予感が的中することを知る。
「代償だよ。あと二度もあれば、エーレは自分を保てなくなるだろうね」
「そんな――冷静に……」
彼は誰よりもエーレを大切に思っていて、自分以上にそれを受け入れられないはずなのに。
事実を事実として淡々と告げた。彼のそんな様子に、ルシウスは混乱を隠せなかった。
「でも……! そういう風には全然、見えないというか……」
今までで何度制約が発生したのかは、知らない。
出会ってからは二度。
たしかに二度目、エーレは声を荒げて怒りをぶつけてはいたけど、あれは背景的に仕方ないと思える。
僕だってエーレの立場なら、そうしたかもしれない。
他は以前と変わらない、いつもの彼に見えるのに。
「上手く隠そうとはしてるけど、確実に崩れてきてるんだよね。
見る限り、同調率が大幅に落ちてきてるし、思考の回りも遅くなってる。
あの人が眠れなくなったのは……二度目の回帰以降だけど。最近は逆にぼんやりしたり、深く眠る頻度が増えてきた」
シュトルツはルシウスをしっかり目を留める。
「――限界のサインだ」
並べれられた事実に、言葉は見つからない。
「でも……」
それでも食い下がりたかった。
受け入れたくないし、いつものように冗談だと言ってほしかった。
「もっと言おうか?」 その甘えを見抜いたようなシュトルツの言葉は続く。
「君は知らないと思うけど」
拒絶する暇すら与えず、切り出された話は、ルシウスの胸を抉っていった。
本来のエーレは、怒りを表に出さない性格で、一度目の回帰こそ我を見失っていたが、その回帰を経て、ある程度本来を取り戻した。
それから、少しずつ少しずつ、再び崩れていった。
最後の制約発動時。あのエーレの様子は、彼らにとって異常でしかなかったらしい。
常に中立中庸を崩さない彼は、どんな事態でも、先にそれぞれの意見を冷静に聞く。
その上で誰が悪くても声は荒げず、今後の解決策を提示した。
厳しい発言は元から多くはあったが、怒りから来ているものではない。
必要な時に必要なことだけを言う、合理の極みのような性格。
そのためなら相手に合わせて言葉を砕くし、伝える努力も惜しまない。
それが、彼らの知る本来のエーレだった。
ルシウスの知っているエーレの面影はある。それでも、随分かけ離れている気がした。
「三度目の途中まではまぁ、割とそうではあったんだけどね」
言葉を挟む余地も与えることなく、一度に話したシュトルツは、そこで口を閉じた。
リーベは何も言わなかった。それは同意を物語っている。
知らなかった。
代償が発生するたびに、心配はしていた。後がないと言う言葉も、散々聞いてきていた。
けれど非情な冷酷な現実を突きつけられたルシウスは、もう何も言えなくなっていた。
「……どうにも、ならないんですか?」
掠れた声で言葉を押し出す。
うーん、と呻いたシュトルツは再び、体を投げ出して、困ったように首をゆらゆらと揺らし始め、
「制約を発動しないようにするのが一番」
そんな当たり前のことを言ってのける。
そんなこと……そうするつもりでも、前みたいに予期しないことだって十分にある。
それが出来たら、こうはならないじゃないか。
そんな気持ちが渦巻いたルシウスは眉間を深く寄せた――その時、肩に温かい温度が落ちてきた。
宥めるようなリーベの表情。
こういう時に彼が何をいうのか、嫌というほど知っている。
それでも眉を寄せたまま、彼の言葉を待った。
「貴方が気に病むことではない、とは言えなくなってしまったが、この問題は私たちが引き受けている。どうにかしてみせるしかない」
そのためにも。
リーベは何かを思い出すように、視線を上へと逸らす。
すぐに伏せられた瞳と、僅かな頷き。
最後は、自らの意思を確かめるように、小さく息を吐きだした。
「私は、出るところは出るつもりだ。
今後、衝突が増えるかもしれない。理解してほしい」
彼の意思表示の基がそこにあったことを気づいたルシウスは、深く頷く。
その隣にいるシュトルツは、空を眺めたまま、沈黙していた。
飄々とした雰囲気は、情動ごと抑えられているようにも見えたし、何か思考の渦へ導かれているようでもあった。
「シュ――」 「そういやさー」
彼が心配なって、声をかけようとしたと同時に、軽やかな声が空に投げられる。
「さっきまで、昔話してたんでしょ?」
「――そうだが」
怪訝そうに眉を寄せたリーベへとシュトルツは、さっと顔を引き締めると、
「俺のエーレさんに対する愛は語ってくれた!?」 勢いよく、大きな声を張り上げた。
「シオンとヴィンセントの出会いからはじまり、あの美しい主従愛は!?
そのあとの俺のエーレに対しての献身は!? あと――」
「そんなに話したいなら、お前が話せばいいだろう」
うんざりしたようなリーベの声に、ルシウスは苦笑する。
「話したがらなかったのは、シュトルツじゃないですか」
「話したがらないというか、機会の問題だよ。エーレさんがいたら絶対嫌がるじゃん」
「そこはエーレを尊重しなくていいんですね」
「それはそれ、これはこれ。俺の溢れる愛は、全部エーレさんのためだから」
それを示すように、勢いよく体を跳ねさせて立ち上がったシュトルツは、浪々とエーレに対する愛を語り始めた。
代償のことが共有されて以降、彼らとの距離が断然縮まった。
それをルシウスは実感した。
彼らもきっと、沈黙を続けるのは辛かったのだろう。
声を大きくして語るシュトルツに、ルシウスはちくりとした胸の痛みを感じた。
こいつも飄々として馬鹿みたいにふざける。
空気を読んでいかない。
最初は本当に掴めない人だと思っていたけど。
今もこうして、子供みたいに明るく振舞っている彼は……きっと……
ルシウスの思考は、厚い鎧に隠されている仲間の内へと向き始めていた。
すぐ前では立ち上がり、耳が痛くほどの勢いで語っているシュトルツ。
話の内容よりも、全身で物語ろうとしている彼を見て、思わず笑いが零れた。
その時――
ふと、後方に不思議な気配を感じた気がした。
踏み鳴らされた道、先ほどシュトルツが姿を隠していた木、里まで続く景色。
振り返った視界の中には、誰もいない。
「今、誰か――」
その声はシュトルツの声にかき消されてしまい、ルシウスは首を傾げる。
同時にさらりとした風に漂ってきた何かが肌を撫で、思わず息を呑む。
これは……
もう一度辺りを見渡すが、感じた生命力の持ち主は、どこにも見つけられない。
彼が生命力ごと気配を隠すのに、失敗するはずがない。
ルシウスは隣の仲間を見るが、リーベはうんざりしたように片耳を塞いでいたし、シュトルツは相変わらず話している。
僕の勘違い……だよね?
「ねぇ、ちゃんと聞いて!?」
ぐんっと踏みよってきたシュトルツの声に、途端、意識を引き戻されたルシウスは、それ以上考えるのをやめることにした。




