夜明け――喪失と始動
エーレは夢を見た。
しかし、起きた時には覚えていなかった。
懐かしい夢を見た気がするが、同時に深い喪失感があった。
染みのできた石灰色の天井を、ただぼんやりと眺めていた。
この感覚は、もう嫌というほど知っている――いつものやつだ。
’’今回’’こそは、出来るだけ早くに動く予定であった。
ここまでは、順調よくきていたはずだ。
まさか、群れの嵐がこうも早くにくるのは、想定外だった。
胸の痛みは、もう引いている。
なのに、胸がまだ痛むような錯覚に陥る。
今回は一体、何を失ったのか――
そんな問いかけに、答えてくれるものはおらず、エーレは最近は書くことをやめていた日記の存在を思い返して、舌打ちをした。
見慣れたレギオンの宿にいるということは、出航を遅らせる判断をシュトルツがしたのだろう。
エーレとしては、たとえ自分に意識がなくとも、少しでも早くに街を出てくれていた方が都合がよかった。
しかし、ユリウスの行動から鑑みるに、後処理も考えて、シュトルツはその判断を下したに違いない。
あの日、非常鐘が鳴るよりも早く――エーレたちは群れの嵐を察知して、防壁の上へと移動していた。
防衛に参加する気はなかったが、街に魔物に侵攻されて、出航が取りやめになる事態だけは避けたかった。
エーレは、シュトルツとリーベに街の防壁への結界を指示した。
リーベの土の魔法と、シュトルツの光の魔法――
それで街を囲み、そこを突破してこようとする魔物がいたら塞ぎ、浄化する。
土の守りの力で結界を築き、そこに光の浄化の力を組み込む。
穢れが触れると、自然と浄化される仕組みになっていた。
出来るだけ人目につくことなく、予定は遅らせないようにする最善の選択だった。
この街で、光の力の使い手として、ダリアの上をいくものはいない。
そんな彼女が、街を空けているというのは痛手ではあるが、レギオンに所属するクランが大勢いる。
彼らは‘いつも’街を防衛しきっていた。ダリアがいなくても、問題はないはずだ。
エーレは万が一に備えて、防壁の上から、戦況を見守っていた。
まさかユリウスが、この場に飛び出てくるなんて、思いもしなかった。
エーレは記憶を反芻して、目を左手で覆い、深い溜息をついた。
落ち込んでいても、しょうがない。
どれくらい、意識を失っていたのかも気になる。
そう思って、ベッドから出ようとしたとき、一つしかない扉が開いた。
シュトルツだ。手にはタオルとコップを持っている。
「お目覚めのようで。気分はいかがですか? お姫様」
「最悪だ」
口から反射的にこぼれ出た言葉とは裏腹に、彼の軽口を聞いて、エーレはどこか安堵したのを自覚した。
シュトルツから水を受け取り、飲みながら尋ねる。
「どれくらい寝てた?」
「丸々、五日かなぁ。割りと長かったね」
「五日か……」
外は明るい。正午前だろうか?
「あいつは何してる?」
「あー」
シュトルツは眉をあげて、楽しそうに顔を緩めた。
「腹減ったんじゃない? 直接、見てくればいいと思うよ。
俺は、船の手配してくるから」
それだけ言った彼は、ひらひらと手を振り、早々に部屋を出て行った。
彼の反応を怪訝に思って、エーレは眉を寄せる。
どういうことなのか検討もつかないが、たしかに五日飲まず食わずで、空腹を感じているのはたしかだった。
支度を済ませて一階へ降りると、いつもの角席で、リーベを見つけて隣にかけることにした。
「無事、回復したようだな」
彼は安堵の表情を見せると、カウンターの方へと手をあげる。
その視線を追った先――そこから、エプロンをして伝票を持ったユリウスが、速足でやってくるのが見えた。
エーレはその様子を見て、言葉を失う。
――こいつは、何をしているんだ。
「エーレさん。意識が戻ったんですね」
その顔は、いつも以上に生き生きをしていて、まるで別人のようである。
ユリウスは、申し訳なさそうに眉を寄せると
「あの日はすみませんでした。本当にありがとうございました」
伝票を胸に抱え、深く頭を下げた。
その時、彼の違和感の正体に気づいた。
あれだけ長かった髪が、肩につかないほど短くなっていた。
「僕の短慮な行動で、ご迷惑をおかけしました」
「それはいい。どうして、あんな場所に飛び込んだ?」
ユリウスの行動を今更、責めても意味はない。
気になるのは、そこだった。
リーベからユリウスが、犬に食料を与えてることは聞かされていた。
その街にいたはずの犬が、魔物になった経緯はどうだってよかった。
どうやって、魔物と化した犬を見つけ出したのかだ。
大体予想はついていたが、本人から理由を聞くべきだと思った。
「気を失ったときに、夢をみたんです。多分、森全体――それとあの母犬と同調していて……
森が燃えていて、母犬が助けてほしいって声が聞こえて……
それでたまらず、飛び出してしまいました。本当にすみません」
森が燃えていた?
そういえば、防壁の上に上がっていたときに、やたら空が明るかった気はしていた。
防衛で魔法の行使の影響もあったから、そこまで気にしていなかった。
ユリウスの言葉に前のリーベも眉を寄せた。
どうにしろ群れの嵐は起こるべくして起きた。
しかし、予想より早まったのは、人為的なものかもしれない。
――誰が、どうして? 何のために?
そんな疑問を頭の中で巡らせていると「とにかく先に何か食べてください」と、伝票を用意したユリウスが言った。
とりあえず適当に注文をして、彼を見送ったあとリーベを見る。
「今回のことは、後で考えるにしても……あれは、どういうことだ」
あれ、とは勿論、エプロンをつけて、働いているユリウスだった。
「ダリアに頼んで、街を出るまで、ここで働かせてもらっているらしい。
あの犬を連れてはいけないから、できるだけ餌代を稼いでおきたいと聞いた」
肩の力が、抜ける気がした。
相変わらず安直というか、なんというか……
溌剌とエントランスホールを走り回るユリウスを見て、不思議と悪くはないと思った。
彼は彼なりに、前へ進もうとしているらしい。
「あの髪はどうした?」
「同調率の高い人間の髪には、力が宿る。
金を稼ぎたいと言ったから、教えてやったんだ」
「金になるといってもお前……あの髪は目立ちすぎるだろう。誰が買い取るんだ」
「ダリアに決まってるだろう?
光の加護持ちのダリアなら、とっくにあの子が訳ありだってことには気づいている。
そもそも、隠蔽が相殺されるんだからな」
「あの物好きめ」
カウンターを見ると、ダリアは楽しそうに、ユリウスに料理を渡している。
――ここまでは順調だった? 本当にそうだったか?
エーレは深い溜息をついて、考えるのをやめた。
しばらくして、見ている方が不安になるような覚束なさで、ユリウスが両手いっぱいの料理を持ってくる。
「いつもお世話になっているんで、これは俺からです」
「お前……」
呆れて言葉が出てこない。
「わかったから、とりあえずその俺ってのやめろ。気持ち悪い。
なんでも、形から入ればいいってもんじゃねぇ」
するとユリウスは、恥ずかしそうに頬をかいた。
「やっぱりそうですよね……俺っていう方が、強そうかなと思ったんですけど……」
「二,三日後には街を出る。またシュトルツに報告させるから、それまでに準備しとけ」
「わかりました。エーレさん、もう大丈夫なんですか?」
「問題ない。さっさと戻れ」
追い払うように言うと、エーレは料理に手を伸ばした。
五日ぶりの食事は思った以上に美味しく感じた。
次々と口に押し込み、飲み物で流す。
イライラする。
予定が狂いすぎている。
なんなんだ、今までこんなことはなかった。
それにまるで、別人のような表情をしているあいつ。
人はたった数日で、こうも変わって見えるなのだろうか?
胸にこみあげてきた、やるせなさに似たような何か――
遠い昔に忘れ去った感情が、小さく胸の底で、沸々と泡立っている感覚。
焦燥感ではない。苛立ちに近い――それでいて切ないのような……ほんの少しだけ、胸が躍るような慣れない何か。
まさか……そんなわけがない。
そんな感情は、とうの昔に捨てた。拾いなおすつもりもない。
その感情は、目的を果たすためには、必要ないのだから――
ただ少し、想定外のことが起こりすぎて、整理しきれていないだけだ。
胸に宿った違和感は、すぐに消失した。
さっさと食べて、出航の準備を整えなければいけない。
この国を出て、目的を果たすための基盤を、作らなければいけない。
エーレは思考を整え、これからのことを考え始めた。




