滲食
皆の視線が向けられた先にある、数段も高い赤いベルベットの敷かれた玉座へと、ルシウスは振り返る。
――振り返ろうとした。それよりも早く、ぐらりと頭の芯の揺れる。
突然襲って来た不快感に足元がふらつき、どうにか留めた先で顔をあげると……
吸い込んだ息が肺に溜まり、喉が締め付けられる。
まるで熱湯を被せられたように、全身の血が湧き立った。
体の奥底にある何かが共鳴し、じわじわと浮き上がってきて、それは勢いを増し、吐き気として込み上がってくる
視線の一点には、予想を超えてあまりにも平凡そうな立ち姿の男があった。
王である威厳を司る衣装と王冠、マント。それらに着られているように見える男だった。
それなのに、ルシウスはその男に圧倒的な恐怖を感じた。
捉えた視界が揺らぐ。王の背後に長い紺碧の髪が映る。
全身を駆け巡る怖気の戦慄が鼻を突き、瞳の涙腺を緩ませていった。
その間にも、交わされていた伝達は、ルシウスの意識から流れていく。
「今宵、この場に集まった諸侯諸賢たちよ。そなたらが有意義な時間を過ごしておることと思う。さて、儂が直々にこの場に足を運んだ理由は、すでに察しての通りだ」
纏う雰囲気とは打って変わって、発せられた声色は重く響いた。
それもまたルシウスの頭を通り抜けていった。
ただただ王から霧状のように滲み出ている生命力に体は震えだし、まともに呼吸ができない。
逃げたい、今すぐこの場から逃げ出したい。
そう思うのに、硬直した体はピクリとも動かない。
霞んだ視界にいたエリオットが、踵を返したと同時だった。
『おい、ルシウス。しっかりしろ』
脳の芯を叩かれるような強い伝達に、ルシウスはハッと見開き、発信源を求めて自然とエーレを探していた。
すぐそこにいる彼を見つけるのに、時間はかからなかった。王を見ていると思われた彼の険しい瞳は、こちらへと向けられていた。
重なった視線。それは一瞬で、彼はすぐに正面を見た――その表情が、ルシウスの意識を完全に手元に戻した。
眼鏡で上手に誤魔化している瞳。その奥の奈落色が、深い憎しみの色に渦巻いている。ルシウスは咄嗟に首を振って、息を吐きだした。
冷静でいられないのは、自分だけではない。
彼だって本当は、今すぐ国王の首を取りにいきたいはずなのだ。
何せ目の前にいる王は、彼の両親を、弟妹を――居場所を奪った男なのだ。
ルシウスは今一度顔を上げ、呼ばれて前に出たエリオットと、その先の王を見据えた。
赤を基調した、金の刺繍が散りばめられいる豪奢なマント。それが黒ずんでいると錯覚してしまうほどに色濃い――皇帝の気配。
王の顔を見れば、父の紺碧の髪が重なって見える。
喉が鳴った。震えから喉が渇ききっているのに、飲み込まずにはいられない恐怖だった。
しっかりしろ。
ルシウスは自分を叱咤して、どこまでその生命力が蔓延っているかを探すことだけに集中する。
気配を辿った先には、他に二人の男がいた。
おそらく宰相であろう男と――今はもうよく知るようになった、鷲の紋章が刻まれたマントを羽織っている男。
そのどちらにも、皇帝の色濃い生命力の気配が滲みだしていた。
大きく脈を打つ心臓をそのままに、ルシウスは一度深く瞑目した。
大広間に広がるあらゆる生命力の波動。
どうして、今まで気づかなかったのか。
これほどまでの深い生命力を知ったおかげか、見落としていた微細な水の生命力を感じ取れるようになっていた。
ルシウスはその気配を滲みだしている人を目に止めて、拾える範囲で外見の特徴を伝達で並べる。
伝達を受けた三人は何を言うこともなく、ただ受け取っていた。
いつの間にか、爵授は終わっていた。
形式的な言葉も、爵授の際に行われるだろう儀礼も、エリオットの臣下としての言葉も、全てはルシウスの意識の外で、ただ最後に王の言葉だけが耳に飛び込んできた。
「エリオットを支えし友らにも、ここに栄誉を示す。
――皆の者、讃えよ」
大広間に拍手が響き渡った。
その中でエーレとシュトルツは僅かに頭を下げて、それを受けていた。
二人を視界に留めながらも、ルシウスは王と周りにいる貴族を一瞥する。
元来、平民が王から賛辞を受けて、小さく頭を垂れるだけでは足りない。
しかし二人はそれ以上、何かをする様子はない。
どれほど偽っていようと、自尊心ばかりは偽れなかったのだろう。
ルシウスは複雑な思いを抱きながらも、ようやくエーレたちに歩み寄る。
「この場に足を運んでくれた聖女殿にも、あたらめて感謝を」
そんな王の言葉で、ルシウスはミレイユの存在を思い出した。
彼女はいつの間にか王の近くに移動していたらしい。
王の言葉を受けたミレイユが胸のペンダントへ手を当て、何かしたらを王へと告げていた。
続いた王の一言でその場締めくくられた。
ミレイユと側近を伴った王は、早々に退場していく。
嫌な気配のほとんどが会場からなくなったルシウスは、安堵と疲労の息を吐き出す。
「君たちもご苦労だったね」
エリオットの言葉に、更に力が抜けた。
彼は最後に数人ばかり挨拶に回るらしく、それが終われば先に退場するそうだ。
すぐに踵を返した彼と、付き添いのリーベを見送ったルシウスは、縋るような眼差しで、再びワイングラスを手にしたシュトルツを見ていた。
伝達の返答はない。どうしてか今、彼らに何か応えてほしかった。
なんでもいい。いつものように取るに足らない言葉でいい
そうでないと浮いた足を地に留められない気がした。
こういう時に限って口を開かない仲間に、耐えきれず声をあげた。
「ミレ――あの方、行っちゃいましたけど。まさか、あれだけのためにきたとか言いませんよね?」
そんなことが聞きたいわけではなかった。
でもどうしてか口から飛び出たのは、取るに足らないそんな質問。
「は? 知らねぇよ」
眼鏡の奥の瞳が、ルシウスを捉える。それはどこかいつもと違った光を帯びているように見えた。
それはすぐに酒を呷っているシュトルツへと向けられる。
「ん? ああ、彼女ならこの後、王城をお散歩してくるらしいよ」
一仕事終えた後の酒は極上だと言わんばかりに、悪戯そうな笑みを浮かべた彼。
レギオンでエールを呷るときと同じ表情だった。
それがルシウスの心の錘となって、地へと錨を落としてくれた。




