浄化
火を血と剣戟だけが漂っていた闇の中。
煌めく氷片を背負って、細身の剣を下げた男が視界を埋めた。
――エーレだ。
呆然としたユリウスが口を開く暇もなく、魔物がどんどん集まってくる。
エーレの舌打ちが聞こえてきた。
「立て、さっさと終わらせるぞ」
彼はこちらへ一瞥もくれることなく。剣を地面に突き刺した。
その瞬間――剣先から凄まじい勢いで、地面に氷が広がっていった。
数えきれないほどの魔物。そのすべての足元まで、それが行き渡るや否や、地面の氷が砕けて空へと舞い上がった。
その幻想的な景色の中で、魔物が悲鳴もなく、どんどん倒れていく。
氷の本質は断絶――
ユリウスはその光景を見て、瞬時に理解した。
魔物に侵食した穢れを、切り離したのだ。
魔物から切り離された穢れ――器がなくなったそれは、黒い靄の塊となって宙に彷徨い始める。
それらは集まっていき、やがて大きな塊と化した。
どうにか立ち上がったユリウスは、見上げた空にあるその禍々しさに、言葉を失う。
街一つを飲み込んでしまいそうな、巨大な穢れの塊だ。
「おい、俺の力だと浄化しきれない。お前の力を貸せ」
やっとこちらを一瞥した彼は険しい顔で穢れを睨みつける。ユリウスは戸惑った。
「貸すっていったって、どうやって……」
「水の力しかねぇだろ。時間がねぇ。俺の浄化に合わせて、とりあえず同調しろ。
穢れを払うことだけを考えるんだ。
なんでもいい。とりあえず一番強く、描けるものをイメージしろ」
言い切るよりも早く。エーレから力の波動を感じた。
「安心しろ、お前ならできる」
背を向けた彼の強く、確信の籠った言葉。
それがユリウスを勇気づけた。
やるしかない――
すでに行使され始めた光の波動。漂い始めた光の粒子を見て、ユリウスは水の魔法を発動した。
光の魔法に水の魔法を。浄化の力に共感する。
エーレの生命力に自らの生命力が触れた時――そこから、何かがユリウスに流れ込んできた。
温かく優しい、けれど同時に、あまりにも不安定で不安にも似た感情。
流れ込んできたものに、ユリウスはつい、引っ張られてしまいそうになる。
エーレは自分の力が足りないと言った。
彼が浄化の力を使うには、同調率が足りず不安定なのだ。
釣られて泡立ち始めた不安を、ユリウスは大きく首を振って追い払った。
エーレが不安定なら、その分自分が強くイメージするしかない。
強く、強く。もっと強く。
一心不乱だった。
やり方があっているなんてわからない。それでも全ての生命力を練り上げて、エーレの力に、水の魔法を乗せた。
自我を失くし、堕ちてしまった精霊たちに寄り添い、慰め、安からな眠りについてもらうことをイメージする。
浄化された穢れは世界に還り、再び精霊として生まれるのだと聞いた。
いつか、この世界のすべての人間たちも、世界に還る。
そう――世界という、海の中の一滴になる。
大きな流れにたゆたい、陽の光を浴びて、世界のすべてが愛おしく幸せに感じるように。
ユリウスは、この二日で経験したことを強くイメージし続けた。
全てに疲弊し、絶望した精霊たちにあの多幸感を感じてほしい。
今しばらくは、それを抱いて安らかに――
光の粒子が穢れの上に集まり、徐々に青みを帯びていく。
それは、まるで花を咲かせたように弾けて舞い降ると、光を浴びた穢れは、少しずつ溶けるように散り散りになっていった。
無数の黒い穢れが、青白い光と戯れながら空の中を浮遊する。
相対する二つは、高く高く舞い上がり、やがてどこかへと消えるように去っていった。
それを見送り、残った青い光が、地上へ降り注いできた。
光は、水滴にも青白い葉のようにも見えた。同時にどこかから、光が揺れるようなきらきらとした音が聞こえてきた。
降り注いだ魔法は、血に濡れた大地を癒し、緑を蘇らせていく。
ユリウスはその光景に、しばらく見惚れていた。
「騒ぎになる前に、戻るぞ」
その声にハッと我に返ったユリウスは、目の前に倒れている母犬を抱き起そうとした。
同時に、踵を返したエーレの方から、大きな音がして、ユリウスは振り返る。
そこには――膝をつき、苦しそうに胸を押さえるエーレの姿があった。
「エーレさん!」
ユリウスは咄嗟に駆け寄り、彼を支えようと肩に手を伸ばしたが――
「触るな!」
手がその肩に触れる直前、彼が声を荒げた。
「問題ない」
よろめき立ち上がったエーレに、ユリウスは伸ばした手を彷徨わせて困惑した。
苦しそうに胸を押さえたまま、肩で息をする彼は、どうみても大丈夫そうではない。
そこにエーレを呼ぶ声があった。前方にはこちらへと駆けてきているシュトルツ。
近くまでやってきた彼を認めた瞬間――エーレは糸が切れたように、意識を失ってしまった。
その体をシュトルツが、受け止める。
シュトルツは深刻そうな表情で、ユリウスとその後ろの母犬を見たあと、エーレを担ぎ上げた。
「ワンコ回収するんだろ?」
「あ、はい。でも……」
「いいから、早くいっておいで」
そう促され、ユリウスは母犬に駆け寄り、抱き上げる。
痩せ細っているのは変わらないが、息は安定しているのを知って、ホッと胸をなでおろした。
すぐに合流すると、シュトルツは無言で歩き出した。
その背は、哀愁と怒りを宿しているように見えた。
彼の無言の語りかけに、ユリウスは何も言うことが出来なかった。
門の前には、リーベが待機していた。
シュトルツに担がれたエーレを見ると、彼もシュトルツと同じ反応を見せた。
「数日は起きそうにないな。どうする?」
「船が予定通り出るなら、出ておいたほうが、あとで怒られないだろうけど……」
シュトルツは、ちらりと母犬を抱いたユリウスを見て、嘆息をこぼした。
「あとでエーレさんに、仲良く怒鳴られますか」
配慮してくれたのだろう。
たとえ今日中に出航できるとしても、ユリウスはそんな気分にはなれなかったし、母犬もこのまま放ってはおけなかった。
さっさと歩き出した二人の後を追って、ユリウスは宿に戻った。
エーレの目が覚めるまで、しばらく街に留まることになった。
責任を感じたユリウスは、エーレの看病を申し出たが、シュトルツにすげなく断られた。
「エーレのお世話は、俺の役目だから」
いつもの口調ではあったが、断固とした拒絶の意思を感じて、それ以上は引き下がることは出来なかった。
翌朝ユリウスは、目を覚ました母犬へと食べ物を与えて、すぐに子供の元へ帰らせることにした。
それから半日と経たずして、ダリアもレギオンへ帰ってきた。
知らせを受けて、予定を繰り上げ早々に帰ってきたらしい。
そのダリアを捕まえて、ユリウスは一つ、お願いすることにした。




