想いは"名"となる
前を歩く金糸のような長髪が、陽を反射し、ルシウスの目を焼いていた。
鬱陶しいほどに輝かしいそれとは対照的に、彼の気持ちはどんどん沈んでいくようだった。
雑踏に包まれる中、ルシウスは石畳みに視線を落として思考を回す。
――僕が名前をつける?
顔を合わせるだけでも勇気がいるというのに、その上名前だなんて。
ただの名前かもしれない。されど一人の人間の名前である。
会いに行こうと思ったのは自分であるはずなのに、すでに怖気と緊張を抱えていたルシウスは沈んだ気持ちを持て余し、そわそわして落ち着かない。
髪を染めたはいいものの、本当に自分であると気付かないだろうか?
あの地下牢で顔を合わせたのは一度だけだ。気づかないはず。
でも、もし……
ルシウスの脳裏に、溶けてしまいような儚い白髪が蘇る。
「朝っぱらから、なーに湿気た顔してんのよ。
ただでさえ髪色が地味なのに、顔まで地味にしないでくれる? やめてよね、こっちまで気分悪くなるわ」
そんなルシウスの心境など構いもしないミレイユが、振り返って眉を寄せた。
彼女はあの少女がルシウスの妹であり、その背景もある程度はわかっているはずであるにも関わらず、配慮というものが一切ない。
その上、自分が渡しておいた染料を地味という始末。
いくつかの言葉が喉まで這い上がってきたルシウスであったが、結局それを声にすることはなく――
一拍置いて、口から飛び出したのは、今まさに彼が抱えている悩みに繋がるものだった。
「……ミレイユさんって自分の名前どう思ってますか?」
「は?」
まるで反射のようだった。すぐに鋭い眼光を向けてきた彼女は歩を緩めて、隣に並んだ。
「何? なんか言われたわけ?」
「いや――どうなのかなって」
ルシウスは逡巡した。事の経緯を話そうかとも思ったが、やめておくことにした。
ただでさえ気分が落ち着かないのに、本心を打ち明けなんてしたら、どんな苦言が飛んでくるかわかったものではない。
「逆に聞くけど」 口を閉じたルシウスへミレイユが不機嫌そうな声色で尋ねる。「あんたはその名前どう思ってんの?」
――どう思ってる?
問われた問いをなぞって、重ねる。
’’ルシウス’’
自分を呼ぶ人たちが、その名前に込めた想い。
それらがまず頭の中に駆け巡った。
僕がこの名前をどう考えてるか。言われてみれば、考えたことがなかった。
与えられた。求められた。それに応えたい。
そうは思って来たけど……
ルシウスが驚くようにミレイユを見ると、彼女は強く見つめ返してきた。
「あんたは、ルシウスとユリウスどっちがしっくりきてんのよ」
思ったより大きな声でそう言われ、思わず辺りを見渡す。ユリウスという名前が珍しいわけでもなかったが、まだこの癖は抜けきらないままだった。
「どうなんでしょう。でもちょっと前までは、本名の方が僕の名前だなって思ってたけど、今は……」
そうだ。今はルシウスの方がしっくりくる。十六年間呼ばれてきたユリウスよりも。
呼ばれ始めて、まだたった数か月のルシウスの方が。
「そういうもんなのよ、名前なんて」
再び半歩前に出た彼女の金髪が、風に揺られてルシウスの鼻先を掠めた――
ふわり、と嗅ぎなれない香りがほんのり鼻腔をついていった気がした。
それは太陽を受けて激しいまでに輝いていた湾港都市の海岸沿いをルシウスに想起させる。
香りに気を取られて返答をしなかったルシウスの前で、
「名前ってのはね」 ミレイユがどこか堅い声を響かせた。
「――名前なの。本来ただの単語でしかない。それだけだと記号同然なのよ。
呼ばれてこそ意味がある。人の言葉にも無意識の生命力が乗ってるわ。
そこに込められた想いが、その人の名前になるの。わかる?」
「わかるような、わからないような――」
「私はね」 ミレイユはルシウスの渋った声を構わず遮る。
「幼名は別にあったわ。今の名前をつけたのは私自身よ。聖女になるときに決めたの。
今ではこれが私の名前なのよ。人々は祈りを込めてこの名前を呼ぶ。私はこの名前に恥じないように生きる。それだけよ」
ルシウスはその言葉を聞いて、初めて彼女に共感を覚えた。
自分が共感していいのかわからないほど、淡々とした、彼女の強い意志も同時に伝わってきた。
その時、再びミレイユから香りがした。頭の芯を痺れさせるような、先ほどよりも強い香り。
今まで一度も経験がなかったルシウスだったが、知識としては、その存在を知っていた。
――僕とミレイユさんの生命力が共鳴している?
「どう在りたいかじゃない。今、どう在るかよ」
強い強い言葉。
それは答えを求めない、彼女が自分に言い聞かせているような、覚悟じみたものに聞こえた。
一段と強い香りが、くらりと頭を揺らす。
それでもルシウスはその香りを吸い込んで、一度強く瞑目して、瞳を強く開いた。
そうだ、僕はユリウスだった。そして今、ルシウスでもある。
名前に込められた願いの全てを知ることは出来なくても、彼女のようにそれに恥じない生き方をしたい。
それをあんな風に、なんてことないとでも言うように淡々と言えるようになりたい。
今はまだ、ミレイユの言う在り方には、到底追い付けない。
けれどいつか――僕はすでにそう在る。そう確信を持てるところまで追い付きたい。
ミレイユに抱いた憧憬が、何故かエーレと重なるものを感じた。
それを知ったルシウスは自然と口元を緩める。
ユリウスだったルシウスとして僕は半分血のつながっているあの子に何を話せるのだろう。
ルシウスとしてどうやってここに立ち、どうやって進めばいいのだろうか?
ルシウスとして――僕はやがて父の前へ辿り着き、立つ。
そのためにはまず目の前のものとしっかり向き合うべきだ。
呼ぶ人の想いが名前になるというのなら……
ルシウスは一瞬だけ見た少女の姿を思い出しながら、頭の中でいくつか古代言語を並べてみることにした。




